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誰が為に人は死ぬ

作者: 安栖 咲

「誰が為に人は死ぬか」


 その答えの出ない問いに、女はそっと目を閉じた。


 ――誰が為?そんなの、答えは無い。敢えて理由をつけるのであれば神が為だとか食物連鎖のため、新たな生命へと還るため、と言えるか。しかし違う。求められているのは、感じているのはそんなありきたりな答えではない。


「己が為に人は生き、そして死にます」

 女の言葉に、問いを投げた男は片眉を跳ね上げた。不満なのか、満足したのか。男の表情からはなにも読み取ることはできない。

 女はただ、最敬礼の姿勢のまま男の言葉を待つ。


「・・・そうか。なれば、汝の処遇は――」


◇◇◇


 女は、平凡な街娘であった。容姿にも生まれにも特に秀でたところはない。街外れの農家に一人娘として生まれ、不況のために生活の苦しい昨今は、大通りに面した宿屋で働いている。勤務態度は至って真面目で愛想がよく、てきぱきと働くために雇い主からも客からも評判はよかった。

 花盛りといわれる年頃だが、女には色恋に現を抜かす余裕などありはしない。それよりも厳しい冬を家族三人過ごすための稼ぎが必要なのだ。そのためならば女は他の街娘が望んでいる恋などとは無縁でいい、そう思っていた。しかし、ある時。いつもとなんら代わり映えのしないある日、女は唐突に恋に落ちたのだった。


 その日はよく晴れた日だった。冬が間近に迫っているにも関わらず、外を歩いているとじっとりと汗が滲んでくるような、そんな気持ちの良い日だった。

 いつものようにテーブルを拭き、客に案内をする。とはいえ朝の時間は出て行く客ばかりだ。日が昇りきって清掃を終えるとホール横の食堂で朝食を待つ客に注文を聞きにいったり、食事を届けたりと忙しくなる。あまり大きな宿ではないが食事の評判がよく、大通りと言う場所柄誰でも入ってきやすいのだろう、泊り客ではなくても食事のためだけに訪れる客もいる。


 ふらりと入ってきたその男も、ただの食事客だろうと女は思った。物珍しそうに辺りを見回してはいるが旅人にしては綺麗な服だ。そして一見質素だが、質がいいように見える。どこか貴族家の御曹司がお忍びできたのか。時折見かける宝石商の息子を思い浮かべ、女は心配そうに眉根を寄せた。宝石商の息子は情勢を知るためと嘯き度々スラム近くの商店街にまでも足を運ぶが、そのたび店のものに手荒く連れ帰られているのだ。


「いらっしゃいませ!お泊りでしょうか、それともお食事だけされていかれますか?」

 いつものように声をかけ、女は男を見上げる。澄んだ水を思い起こさせるような、淡い青の瞳が印象的だった。屋内にいることが多いのだろう、ほとんど日に焼けていない白い肌に傷は全くといっていいほどついていない。焼けても、荒れてもいない肌からして上流階級の男なのだろう、と判断する。様子を見る限り、このような宿屋、食事処に来たのは初めてなのだろう。


「ああ、食事を」

 簡潔に答えた男を席へ案内し、女はメニューを渡して丁寧に店の説明をする。貴族向けの料理店のように静かな食事を楽しむ場ではないこと、フルコースではないこと、そして注文の仕方などだ。

 やや緊張気味に注文を終えた男は、そわそわと料理を待つ。女は、そんな男からなかなか目が離せずにいた。美しい瞳が、やけにちらつくのだ。


「ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」

 心から礼を述べ、女は丁寧に頭を下げた。どうか、また来てくれますようにと願いを込めて。

「ああ。美味しかったよ、ありがとう。また必ず来るから」

 浮かべられた笑みに、女は頬を赤らめて深く一礼すると厨房へと走った。初めての気持ちだった。初めての感情だった。初めての欲だった。


 数日後、男はやってきた。それも、女にささやかな花束を持って。女は自室にそれを飾り、うっとりと見つめては日々を過ごしていった。そんな女の様子に、それと気付いた者たちは女に春が来た、やっと年頃らしくなったと喜ぶ一方、誰とは分からぬ貴族らしき青年に恋をしてしまったことを心配していた。身分違いの恋はやがて破滅へ向かう、古くからそう言われているがために。歴史がそれを証明しているがために。



 いつしか二人は逢瀬を重ねるようになっていた。男が街に訪れる頻度は増える一方で、誰が見ても男は女に入れ込んでいた。そしてそれは悲劇となっていく。


 突然店に来たのは酷く高飛車な貴族のご令嬢だった。とても美しく、身につけている宝石類やドレスはどれほど豪奢でも、令嬢の美しさを際立たせるためのものでしかない。まるで、そこに立っているだけで太陽が輝いているかのようだった。

 令嬢は自らの婚約者が卑しい平民に奪われたと言った。憤懣やるかたない様子の令嬢に女は戦慄した。――こんなに美しい方の婚約者を奪ってしまった、いえ、彼に婚約者がいたとは、と。


 男は、婚約者と別れることを望んだ。元々親が決めた婚約者であり、男の意思はそこに存在していなかった。男は、一国の王子であった。誰もが男と令嬢との結婚を望んだ。男が、女が、二人だけがそれを望まなかった。

 婚約破棄を言い渡された令嬢は怒り狂い、令嬢という立場を利用し女に嫌がらせをした。始めは客を装った者が店に難癖をつける程度のものだった。しかしそれはしつこく、段々と過激になっていき、女はやがて職を失った。誰もが婚約者を奪われた令嬢に同情し、女のことは悪と断じた。ただ一人男だけが女の味方であった。


その日女は生家へと帰った。幸い今までの稼ぎで一冬は越せる。両親だけでもいい、自分達を祝福して欲しかったのだ。

 しかし両親が女へと向けた言葉は祝福などではなかった。


「人様の婚約者を奪うだなんて、なんて恥晒しなのか」

「お前など、帰ってこなければ良かったのに」


 理解者など、いなかった。悲嘆に暮れた女を抱き寄せ、男は囁く。

「どこか遠い所で暮らそう。私達二人など誰も知らぬ、遠い所で」


 二人は闇夜に紛れ、当てもなく歩き出した。持っているのは僅かばかりの路銀と食糧のみだ。しかし二人共、互いがいればそれで良かった。それだけで幸せだった。二人ならば新たな地で、生きていける。そう信じていたのだ。


 「許さない」


 微かな呟きは、誰の耳にも届かない。

 二人は三日三晩休まず歩き続け、とある宿屋で身体を休めていた。世辞にも美味いとは言えぬ一人分の飯を分け合い、パチパチと爆ぜる暖炉で暖まり。


「どうぞ」

 店の給仕から差し出されたのは葡萄酒だった。驚いた様子の二人に給仕はにこりと笑う。

「お二人共、随分とお疲れのようですから。お酒のお代は頂きません、どうぞ遠慮なくお召し上がりくださいませ」


 余程疲労が表にでていたのだろう、心配そうな給仕に礼を言い、二人は有難く杯を打ち合わせた。

 早速と杯を傾ける男に、女は一口だけ舐め、杯を渡した。生来真面目で、遊びも知らなかった女は勿論酒など飲んだこともない。一舐めしただけだったが、口内に広がる酸味と苦みに思わず顔を顰めてしまう。


 二人分の葡萄酒を飲み干した男は疲労に加えて酔いも回り、気分が悪くなったのだろうか。顔を青ざめさせてよろよろと立ち上がる。そして女の手を引き、覚束無い足取りで何故か外へと走り出す。意味も分からずおろおろと後ろを振り向き足の進まぬ女に、男は絞り出すように呻いた。

「罠だ・・・毒を盛られた!」


 絞り出した声と同時、店内がガチャガチャと金属音に包まれる。店内の者が挙って武器を持ち出したのだ。

 男も腰の剣を抜き、女を庇って立つがその身体は毒と酔いとが回り、小刻みに震えて今にも倒れそうだ。男自身、不利な状況を正しく理解しているのだろう、剣をまるで槍かなにかのように投げつけ、不意をついて逃げ出した。


 「許さない」

 背に投げつけられた声は間違えようもなく先程の給仕のもの、あの婚約者の声であった。


 二人は森の中へと逃げ込んだ。しかし夜中の森、明かりなどなく密生してきる木々は微かな月明かりでさえも通しはしない。隠れるのには都合が良いが疲労が溜まった身体、毒の回った身体には些か都合が悪い。一寸先は闇、張り出した根に足は取られ突き出した枝に頬を叩かれる。

 終いには男は倒れた。苦しげな呼吸は弱々しく、小さな呻きは風の声に掻き消され自身にすら届かない。

 そっと身を捻り、男は脇腹を見た。浅く刺さっているのは銀色に輝く短剣だ。


「刺されてしまったようだ」

 笑みを浮かべて見せた男に、女は嘆きとも呻きともとれる声を挙げる。あの声だ、あの声と共にナイフは投げられた。何故気が付かなかった、何故自分が刺されなかった。恨まれているのは、私なのに。


 男の生命の灯火は今にも消えてしまいそうに揺らいでいる。女には、為す術がない。

「君の」


 存外明るい声に、女は淡い希望を抱いた。しかし目に映る男の顔は蒼白で、どう足掻いても希望など見いだせない。それでも、もしかしたら。



「君の手で、殺して欲しい」



 全ての音が、消えた。飲み込んだ息は喉元に留まったまま、凪いだ風は戻って来ず、草葉を揺らしていた筈の動物達は気配を殺して。男の願いは、静かに紡がれる。


「誰でもない、君の手で」


 そっと伸ばされた手は女の指先を掴み、自らの首へ。


「せめて最期は、君の温もりを感じながら」


 この瞳はすでに君の顔を映してはくれない、この耳はすでに君の声を拾ってはくれない、と。それならばせめて、ぬくもりを。愛している人が確かにここにいるのだという、証明を。

 女が首を振るい、涙がはたはたと辺りに散る。掌に感じる男の首は指先の熱を奪っていき、その冷たさに女の指を強張らせる。いやに熱い涙が、彼に熱を分けてくれたら、と。


「お願いだ・・・愛しいひと」


 淡く浮かんだ微笑みに、女の指が引き攣った。ゆっくりと込められる力に、男は頷いて。


「愛してる」


 最期の一呼吸は、苦しげに歪んだ口元から零れ落ちた。喉には細い指の跡が痛々しく残り、微笑みこそ浮かべているものの決して安らかとは言えない。


 ああ、と女は息を吐く。吐息はまるで涙のようだった。しかし目からは血も涙も流れては来なかった。ただただ頬にこびり付いた涙の跡が、泣き腫らした瞼が、充血した瞳が女の涙を知る。


◇◇◇


 気が付けば女は地下牢にいた。男の亡骸は見当たらない。やけに重い手を見下ろして、ようやく女は鎖に繋がれていることに気が付いた。


 ガチャリ、と音がして女は顔を上げる。その先にいたのは憲兵だ。女と目が合ったことに驚いた素振りを見せつつ、牢の鍵を開け女を外へと連れ出す。

 引かれるままに歩きながら女は辺りを見回す。いない、いない、あのヒトはどこにも。


 眩しい眩しい部屋は、謁見の間のようだった。最奥には王らしき人物が座り、その脇を屈強そうな衛兵が固めている。

 似ている、あのヒトに。女は肩を押されるがままにぼんやりと膝を着く。

 その横で女を連れてきた憲兵が声高に何かを言っていた。しかし女の耳には届かない。彼は、どこ?


「問おう」

 朗々と響いた声に愛する男の面影を感じ、女ははっと意識を取り戻した。


「汝は我が息子、我が国の王子を手に掛けた。それについては証明されている。しかし汝の言い分も聞こう。何か、言いたいことは」


「・・・いいえ」


 息子と、王は言った。では目の前の頑強そうな男はやはり彼の父なのだ。手に掛けたと、王は言った。では愛しているヒトはやはり、何処にもいない、いない。


「そうか。・・・では一つ問おう。息子を愛している、汝に」

 思わず、涙が溢れた。今まで誰ひとりとして二人の愛情を認めた者はいなかった。皆が皆、女がただ地位のため、私欲のためと信じていたのに、ただ一人だけ。彼の父一人が二人の愛を信じて。


「誰が為に人は死ぬか」


 その答えの出ない問いに、女はそっと目を閉じた。


 姿勢を正す。二人を正しく理解し、信じ、息子を殺められながらもなお息子と息子の愛した女を信じる王に、最大の敬意を、感謝を込めて。



「己が為に人は生き、そして死にます」

 ――ご自身のために生き、そしてご自身が望んで私の手で、そのお命を。


 女の言葉に、問いを投げた王は片眉を跳ね上げた。不満なのか、満足したのか。王の表情からはなにも読み取ることはできない。いや、違う。その目には確かに納得が、慈愛が、希望が、そして苦悶が浮かんでいる。


 重苦しい沈黙に女はただ、最敬礼の姿勢のまま王の、最愛のヒトの父の言葉を待つ。


「・・・そうか。なれば、汝の処遇は――」



 謁見の間は騒然とした。女に下された刑は余りにも重いために。その国が始まって以来、始めて下された刑であるために。しかしそのざわめきは深い納得と共に静まっていく。

 王の一人息子を殺したのだ。それならば最も重い刑が下されて当然であろう、と。


「・・・汝に下されたのは絞首刑である。汝が殺めた者と同じ苦しみを味わうが道理というもの。・・・しかし、だ。我が国始まって以来始めて下された処罰である。従って処刑人はいない」


 確かに、と再び起こるざわめきに、王は片手を挙げて静めた。


「汝の処刑を望む者は、執行を志願する者は幾らでも名乗り出るであろう。しかし汝の処刑人には我が息子が相応しい。しかし息子は既にこの世から旅立った。・・・なれば汝は、どうするか」


 女はそっと微笑んだ。しかと王を見つめ、口を開く。


「私たちは二人で一つ。彼が処刑人になれないのであれば私が自身の処刑人となります」


―――全ては、己が為に。愛する人の元へと、向かうために。


◇◇◇


「おばあちゃん、あの石はなあに?」

 少女は小さな石碑を指さした。城壁沿いの、街はずれ。用がなければ訪れる者などないような片隅に、小さな小さな石碑が立っていた。まだ真新しいのだろうそれはたくさんの花で埋め尽くされている。

「あれはね、王子様と王子様のとても大切な人へのお手紙なのよ」

「おてがみ?」

 じっと石碑を見つめるが、少女はまだ字を読むことができない。

「なんてかいてあるの?」

 無邪気に訊く少女に、老婆はそっと微笑んだ。

「―――様に、贖罪を」

「・・・しょくざい?」

 意味が分からず眉間に皺を寄せた少女は、愛らしい。老婆はいつか分かるようになる時が来る、と少女の頭を撫ぜた。


 ひっそりと佇む石碑は、二人の愛を知った王の手で建てられた。二人の愛はやがて国民に知れ渡り、すでに命を落とした二人にせめてもの贖罪を、と毎日のように誰かが花を添える。


 愛を疑われ嫉妬に切り裂かれ、己が為に命を落とした二人に、真実の愛に、贖罪を。

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