戦争体験が語るもの1
私自身は昭和の生まれとは言え、戦後も戦後。高度成長期も終わったあとに生を受けたこともありますので。日本で言う現時点での最後の戦争である第二次世界大戦。とりわけ太平洋戦争と言うものを実際に体験したわけではありません。そんな私に対しまして
「戦争と言うものはこのような悲惨なモノでありますので、絶対にやってはいけませんよ。」
と言う場面に接するのは、主に学校教育の場。歴史を扱う社会の授業はもちろんのこと。国語の教科書にはほぼ間違いなく先の太平洋戦争にまつわる作品が掲載され、授業のコマを活用しまして語り部をされているかたのお話を聞く機会が設けられるなど様々な場所を通じまして、
「二度とやってはなりませんよ。」
と児童生徒の心のどこかに留めて欲しい。との願いが込められていたように思われます。
ここからはそんな私が見聞きして来ました政争体験の話を3つのカテゴリに分け綴っていこうと思います。
1つ目。ひもじい思い
戦時中。様々な物資。贅沢品は勿論のこと。生活必需品に至るまで統制下に置かれ、自由な取引に制限が加えられ、それでは生きていくことは出来ませんので必要と思われる品と数については国から配給される。そのような体制が採られておりました。戦争が長引くにつれ。国民には知らされていなかったとのことでありましたが。戦況が悪化するに従いまして、一番の働き手となり得る成人男性がどんどん戦地に送り込まれることになり、食糧を始め。様々な物資の生産量が必要量に追いつかなくなり。配給される品・量共々少なくなっていく。それを補うためにあらゆる広場に芋を植えましたり、学校の授業を取り止め。人手不足の工場へ生徒を送り込むなど。
(……うまく行ってはいないのだろうな……。)
と心のどこかで感じていても不思議なことではない状況下に置かれていたことが想像されます。
そこで生まれたキャッチコピーが
「欲しがりません。勝つまでは。」
終戦の日が近づきますと必ずと言って良いほど
「戦時中。この地域ではこのようなモノしか食べることが出来ませんでした。」
「品数少なく。味もしない。一つの汁物で飢えを凌いでいました。」
「このようなひもじい思いをしない。させないためにも二度と戦争はしてはなりません。」
と結ばれる報道を見聞きする機会があることかと思われます。
一方その頃。日本が戦っていましたアメリカも実は配給体制を採られていたのでありましたが、そこで配られていたものは?
と言いますと
「肉1.1キロが週に1度。必ず全てのアメリカ国民の手に行く渡っていた。」
「それでも闇肉が出回っていました。」
「これだけの国力に差があるアメリカに日本は戦争を仕掛けたのでありますよ。」
と言った流れで戦争の愚かさを説く。
私が実際に聞いた話ですと
「アメリカの銃は、3つの銃をバラバラにし、部品を混ぜてしまっても同じ3つの銃が出来るのに対し、日本の銃で同じ芸当は出来なかった。」
や
「太平洋戦争を始める前。昭和一桁の時代に、各家々にある金製品を提供。強制であったことは想像に難くないのではありますが……。して頂きまして、その金を集めまして。当時は金本位制。日本ではほとんど得ることの出来ない原油を調達する。調達先は勿論アメリカ合衆国。」
事は真偽は定かではありませんが。これらの話を用いることによりまして、
「二度と戦争をしてはならない。」
と言うことを児童生徒に知ってもらう。
今はわかりませんが、昭和と平成の端境期の学校で私が学んだことの1つであります。