5-1. Iの決意
私は彼の胸倉を掴んで詰め寄った。
「もうやめろ!」
だが彼は余裕を崩さない。
それは出会ってからの一貫した彼のスタイルだ。
「おやおや、始めたのはあなたですよ。それに願ったのもまたあなただ」
「止められるのはお前しかいないじゃないか! 私ではペンで実行したことを取り消すことはできないんだ!」
それは実験済のことだった。
紅梅を白梅に戻すことはできず。
にゃーと鳴くポチをワンと鳴くように戻すことはできず。
特に梅については何度もしつこく言葉を重ねて実験を繰り返した。
だが梅は紅いままで、逆に言葉を紡ぐたびに一層おかしくなっていった。
咲いて、散って、すぐさま生まれる蕾。
散っても散っても、尽きることのない紅梅。
土に舞い降りた紅の花びらは、腐る前に新しいもので埋められていく。
香りは日々濃厚になり、胸やけがするほどだ。
しかも、インクは減らなかった。
あれほど書いたのに、一滴も減らなかった。
私の発言は彼に何の驚きも呼び起こさなかった。
ただ、片方の眉を少し上げただけだった。
私はもう一度彼の胸倉を強く引き寄せた。
「私の息子と孫を元に戻せっ!」
すると彼はその目を細めた。
「それでいいのですか?」
その言い方が何かを含んでいるようで、私は慎重に問うた。
「……どういう意味だ」
「そのままの意味ですよ。それで本当にいいのですか? あなたはたった一つの願いをかなえたくてそのペンの力を使ってきた。そうではないのですか?」
真っ直ぐに突かれて、私は言葉を失った。
それは確かに私にとっての大きな真理だった。
一番に叶えたい願いがあって、そのたった一つが叶えられるのであればもう他のことはどうでもいい、そう思っていた。
それは私の信念でもあった。
妻が生きていた頃からの信念だ。
私は親を知らずに生きてきた。
兄弟もいない。
十代まではそれが当然だと思って生きてきた。
他人とは、つまり、自分とは違う他の存在、そう思っていたのだ。
だが私は妻と出会った。
妻だけが孤独に生きる私に寄り添ってくれたのだ。
妻は私に愛しさと寂しさを教えた。
二つの感情が表裏一体であることは容易に悟れた。
どちらも妻を介して生まれたものだったからだ。
熱く激しい愛は凍えるような寂しさを伴い、その苦しみはまた愛によって瞬く間に溶け、救われる。二つの感情はゆるぎない生き方をしてきた私を恐ろしいほどに揺り動かし、時に難破船のようにふらつかせた。それでも行き着く先には必ず宝島があることを私は知っていた。それ即ち、愛だ。だから初めて知る苦難の道は辛くてもいつでも光り輝いていた。
愛しさを守るためであればこの寂しさにも耐えよう、そう誓うことは必然だった。
だが、それ以外はいらない。
それ以外は――いらない。
それは妻との結婚をゆるされた日の決意だった。
それを、この魔人のごとき彼によってあらためて突きつけられていた。