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4-2 Mの恍惚

「太陽仮面っ!」


 わたしは高鳴る胸を押さえきれなかった。


 部活中になぜか昏倒し、気づけばわたしは保健室で寝ていた。


 そばには過剰に心配する担任がいて、その目の奥に性的ないやらしさを察知したわたしは急いでその場を逃げ出したのだった。


 着替えもせず、鞄も持たず、道着姿のままで。

 家に帰る道すがらは、いつも以上に人の目に晒されて苦しかった。


 だが今日は――なんという幸運だろう。

 ずっと憧れていた人が目の前にいる。


 至近距離で見ると、彼はやっぱり人ならざる雰囲気に満ち満ちていた。


 プロレスラーでもなかなかお目にかかれないほどの筋肉質な体、見上げなくてはいけないほどの背の高さ、二人の大人を片手ずつで抱えても余裕綽々の笑顔。


 これほどの群集を前にしても威風堂々としていられる姿。


 正しいことを実行し、力を行使し、そのままの自分を認めてもらえる存在。


 わたしとは真逆の素晴らしい人――。


 父親とも全然違う。

 父は体格こそは彼のように立派だが、中身が全然違う。

 怠惰で空虚で、信念のようなものは何も持っていない堕落した大人だ。


 彼は突然飛び出してきたわたしにもさわやかに笑ってみせた。そういうところも理想的だ。


「わ、わたし、あなたにずっと憧れてきたんです!」


 上ずった声、突然の告白。

 それにも彼は目元を和らげてくれた。


 彼はこれまで一言も声を発したことがない。

 それが彼のミステリアスな雰囲気を助長し、かつ彼を秘密の存在たらしめているわけだが……。


 それでも彼に会ったら尋ねたいことがあった。


「あなたはっ! あなたはどうしてっ……!」


 ずっと聞きたかったこと。

 それをとうとう彼に尋ねられる。


 ……なのに。


 言葉が出なくなった。


 彼がじっとわたしを見つめている。


 赤いマスクの下、彼の鋭利な目がじっとわたしを見つめている。


 今も目元は柔らかい。

 なのに――瞳の色がおかしい。


 おかしい――。


 目がそらせない。

 声が――出せない。


 周囲の人達がコールする名が少しずつ変わってきている。

 彼の名を呼んでいたはずだったのが、変わってきている。


「……マザー」

「マザー」

「マザー!」

「マザアアー!」

「マザー! 奇蹟を! 奇蹟をっ!」


 マスクの下で彼が笑った。


 わたしはとっさに集合する大勢の顔を一つずつ確認していた。

 だがどの顔も先ほどまでとは違っている。

 今、ここにいる人々は、まるで宗教家の登場に興奮する信者のようだった。


 とろりとした目、呆けた表情。


 綻んだ口元からぽつぽつと唱えられるのは「マザー」。

 時折耐えかねたように叫ぶのは「マザー」。

 拳を突き上げて繰り返すのは「マザー」。


 マザー。


 最近耳にしたような気がするフレーズ。


 だが考える時間は与えられない。

 いつしか、数百人の集いは、一問一句同じリズムで同じ言葉を刻んでいた。


「マザー、マザー!」

「マザー! マザー!」

「奇蹟を!」

「奇蹟をお!」


 声が大きくて、圧倒されて。

 何も考えることができない。

 いや、禁じられているかのようだ。

 頭に血がのぼる。

 くらくらする。

 何も考えられない。


 人々の願いに応えるかのように、太陽仮面が肩に抱えていた二人をさらに高く上げてみせた。

 天に近づくことをゆるされた二人の顔は光悦としている。

 美しい表情をしている。

 心を解放し、すべてを預け――。


「……マ」


 ふるえるわたしの口が、意図せずその名を発した。

 一度発すれば、あとは止まらなかった。


「……マザー!」


 すべてを発した瞬間、わたしはこの世界の真の美しさを理解し、その美しさにあっという間に酔いしれた。


 ピンクと黄色と白だけの世界。

 オーガンジーとレースがそこら中に浮遊している。

 サテンのリボンが揺らめいている。


 可愛くて柔らかくて暖かいものたち。

 心弾むものがわたしを大切そうにくるんでいく。

 そっと丁寧にくるんでいく。


 体を丸めて目を閉じる。

 親指を咥えるとさらに安堵できた。

 舌がミルクの味を捉える。

 甘くて懐かしい味。

 涙が出そうになるのをぐっとこらえる。

 ずっと……、ずっとこの味を求めていたような気がする。


 ここは、極上の世界。


 これこそは、悩みのない世界。

 これこそが、苦しみから解放された世界。


 マザーがいれば、もう大丈夫だ。

 だって、マザーはこの世を造り給うた人だから。


 たとえこの世に悪が蔓延しても、マザーの一息ですべては浄化される。

 そう、たとえば太陽仮面のように。



(わたしはもう大丈夫。もう大丈夫だ――)

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