4-1 Iと犬、災害と群衆
ポチはすっかり元気と快活さを取り戻したようだ。
足取り軽いポチの後ろを歩いていると、早めの春の到来をいたるところで感じられた。
空気中に含まれていた、冬特有の鋭利な気配が薄れてきている。
肌をなでる風が含むほのかな温もり。
通行人の装いに見つけられるはっとするようなカラフルさ。
道々に生えている名もなき草の緑の多さと鮮やかさ。
どれもわずかなことだ。
だがそこには確かに季節のうつろいが明瞭に表れていた。
春が来る。
そう思うと胸がつきりと痛んだ。
四季の中でも春がことのほか好きだった妻。
だが妻は冬の訪れとともに死んでしまった。
寒々しさに支配された病院の片隅で、厚手のカーディガンを羽織り、窓の外、木枯らしにもてあそばれ空を飛んでいく幾多の葉っぱを眺めていた妻。起き上がれなくなって、伏したまま、一枚の葉も身につけていない裸の木をいたわしそうに見つめてい妻。
そうした哀しい風景を目に焼き付けて、妻はあの世へと去っていった。
可哀想なことをした。
せめて春まで生きていられたら――。
「おい、じいさん。危ないぞ!」
野太い声にはっとした。
いつの間にか駅前の大通りまで来てしまっていた。
通常の散歩コースを大きく逸脱している。
いや、そんなことは大したことではない。
四車線の向こう側、三階建てのビルから、もうもうと黒煙が立ち昇っているのが見えるではないか。
青い空にはふわふわと薄い白の雲が浮いている。
その塊を潰し穢すかのように、はち切れんばかりの黒煙が大挙して天に昇っていく。
煙の発生している部分、ビルの二階には朱色の炎が見える。あれだけの威力であれば、建物内の見えない部分では相当に燃え盛っていることだろう。
普段の生活ではめったに遭遇しない大火事が起こっている。
「じいさん、聞いてるのか? あっち行ってろって!」
声の主はこの辺りの住人なのか。他にも幾人かの男が同じように通行人や野次馬を現場から遠ざけようとしている。
これほどの火事にもかかわらず、消防車はいまだ到着しておらず、サイレンの音も聞こえない。
交番は近いのに警察官の姿もみあたらない。
ビルでは、出火元のフロアの隣の窓から、二人が助けを求めてひっきりなしに叫び声をあげている。まだ入社して間もないであろう若い女、それに中年に差し掛かった男だ。
二人の姿、そして助けを求める切実な声。
既視感をもって二人が良く知る人物――唯一の生きる肉親――に見えた。
『助けて』
『助けて、おじいちゃん――』
『助けてくれ』
『助けてくれ、親父――』
それは衝動だった。
離れた場所まで下がるや、私は鞄の中からノートとペンを取り出していた。
このペンを純粋に良いことのために使ったことは一度もない。
良いことのために利用したいと思ったことも一度もない。
だが、今はなぜかそうしたくてたまらなかった。
震えてどうしようもない手で、ノートを押さえ、紙の上に黒点を一つ記した――その時。
「わあっ」
湧き上がった大歓声の場違いな華やかさは、この場の窮地が救われる未来を信じられるからだ。
見上げると、炎の中に屈強な男が飛び込む瞬間をとらえた。
やがて真っ赤なコスチュームに身を包むその有名人は、周囲の大騒ぎをものともせず、両肩に二人を乗せて軽やかに地上に飛び降りた。
その瞬間、さらなる歓声、絶叫が沸き起こった。
「いい働きをしてますね、あなたの息子さん」
喉元にナイフを添えられたようなおぞましい気配に、振り向くと、刃よりも危険な存在がそこにいた。
「正義の味方、でしたっけ?」
病室と自宅以外の場所で彼と会うのは初めてだった。
「たいようかめーんっ!」
「太陽仮面、ありがとー!」
老いも若きも、男も女も。
分かりやすい者も分かりにくい者も。
この場にいるすべての者が熱狂している。
意識のすべては正義の味方のほうへと注がれている。
純粋な憧れと尊敬の念で正義の味方を称えている。
違うのは私と彼だけだ。
彼の目が笑っているのは負の意味でだ。
対する私は、彼という悪意に拮抗せんと睨みつけている。
ポチの喉がぐるぐると鳴り続けている。
飼い主の心に敏感に反応している。
彼の視線が正義の味方からポチへ降り、次に私に移った。
「にゃーにゃー!」
突然、ポチが叫んだ。
「ポチ、どうした?」
それでもポチは叫び続ける。
その視線の先、並み居る人々をかき分けて、道着姿の女子学生が太陽仮面に向かって駆けていくのが見えた。
後姿でも分かる――あれは孫だ。
腰まであるポニーテールを揺らしながら、孫が息子に向かって駆けていった。




