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3-2 KとB

「もしもし。わたし、美緒さんの担任の後藤ですが」


 その声を聞いた瞬間、俺の背筋は伸び、しかし眉間には皺が寄っていた。

 面倒なことが起こったのかと身構える。


 娘は扱いに難しい存在で、正直、幼少のころのような愛情をまったく感じていない。

 確かに、自分にも悪いところはある。

 真剣に娘と対峙したことなど一度もないという自覚はあった。


 平日は帰宅後にビールを飲んだら酔いに任せてそのまま寝てしまうし、休日は一人部屋にこもってテレビを観て過ごしている。娘のことは母、つまり娘にとっての祖母に一任してきた。いや、放任してきたというのが正しいか。


 だが、一人でいる時間が俺にとっては必須なのだ。

 それなしでは心が休まらない。


 昼はまさに社畜のごとく働いて。

 夜は正義の味方をして。

 その上さらに、可愛くもなく、ふてくされた娘の相手などできるわけがない。

 娘は俺によく似て、三人前ともいえない顔の造りをしていた。


(……あれ? 本当にそうだったか?)


 なにかに違和感を覚えたところで、後藤という担任が「もしもし、もしもし?」と耳元で声を張り上げた。


「はいはい。すみません。で、うちの美緒が何か?」


 貞淑そうに聞こえるように気をつけて応答する。

 こんなふざけた親、正義の正の字もふさわしくない。


「美緒さん、部活中に倒れてしまったんです」

「美緒が?」


 声だけは驚きを表してみる。

 だが実のところはどうでもいい。


 対する担任は、こちらのほうが血の繋がりがあるのではと思えるほど興奮している。


「そうなんですよ。今は保健室で休ませていますが、一人で帰すのも不安ですから、保護者の方に迎えに来ていただきたいんです」


 ふいに押し黙った俺に、またも「もしもし」攻撃が始まった。


 うるさい。

 とにかくうるさい。


「……はい。はいはい、聞こえていますよ。ですが私は今仕事中でして。娘も高校生ですし、体調が良くなったところで一人で帰らせてください」


 ややあって、担任の絶句した気配が伝わってきた。


 大げさな奴だと思ったところで、「ではご自宅のほうに電話して迎えに来ていただける方がいないか聞いてみますね」と早口で代案を出された。


 あちらとしては俺とこれ以上会話をしたくないのだろう。

 だがそれは俺も同じだ。

 ようやく気が合った。


「ええ、そうしてください。すみません。では」


 電話を切り、一気に脱力した。


 背をもたれさせたベンチの板は固い。

 家には父がいるはずだが、どうせ居留守をつかって電話にでることもしないだろう。


 ちいいいっとどこかで何かの鳥が啼いた。

 今日も空は青くていい天気だ。


「……俺っていったい何なんだっけ」


 つぶやいた独り言に答えてくれるものはいるはずもない。

 今日も噴水の前ではベビーカーを押した女がのんきそうに歩いているだけだ。




 その時。


 声が聴こえた。


『お前はマザーの下僕だ』


 囁きは、そっと吐息で満たすように、自然に脳内に忍び込んできた。

 声音はまるで天使のようだった。

 愛らしく高く、清純な煌めきのごとき声。


 だが、頭の中、頭蓋骨のふちに沿って気流が動いたような、おぞましい感覚で全身に鳥肌がたった。


 周囲を見渡す。

 だが誰もいない。

 ここはただの公園だ。

 遊具も何もない、辺鄙な、どこにでもある小さな公園だ。


 向こう側、噴水の前にベビーカーを押す女が一人いるだけだ。


 だが、女は一切動いていなかった。


 まるでそこだけ時が止まったかのように動きがない。

 今も鳥は囀り、空気は動いているというのに――。


 ありえないその現象に息を殺して凝視していると、女の膝下ほどのスカートの裾がふわりと揺れた。

 ふわりと揺れ、浮かび、また元の位置に戻っていった。


 完璧なまでに自然な揺れ。

 だがそれは『自然な揺れ』を故意に作ったものとしか思えなかった。


 事実、女の体はあれからぴくりとも動いていない。


 両手はベビーカーを押している。

 上半身の形は前に体重をかけていることが明らかだ。

 だがベビーカーは動いていない。


 女の足は開かれている。

 大きめの歩幅は女が歩いていた最中であったことを証明している。

 だが女は進んでいない。


 目は半分開かれたまま。

 唇も半分開かれたまま。

 ベビーカーの中の存在に意識を集中しているかのような表情。


 そのベビーカー、幌の中から、ぬうっと何かが現れた。


 衝動的に唾を飲み込んだ。

 喉の鳴る音がこの場で異様に大きく響いた。


 それでも女は動かない。


 目は半分開かれたまま、唇も半分開かれたまま。

 ベビーカーも動かない。


 だが現れた何かはもぞもぞと動いている。


 それは赤ん坊の手だった。

 握りしめた拳は見るからにやわらかそうで、小さくて頼りない。


 なのに――なぜか恐怖を感じる。


(俺はいったい何を恐れているんだ――?)


 あそこにあるのはただの赤ん坊の手だ。

 分かっている。

 分かっているのに――怖い。


 長い間、ずっと正義の味方をしてきた。

 学生時代から、ずっとだ。

 現役時代から維持している肉体はレスリングの選手にもひけをとらない。


 もう何十年も、俺は俺の持つ時間のすべてを捧げて正義の味方として生きてきた。

 銃弾の飛び交う場、刃の振るわれる場。

 拳が、蹴りが、毒が、炎が、雪が。

 俺はどんな悪にも勇猛果敢に立ち向かってきた。


 怖いことはない。

 最後には必ず勝つ、いや勝てる。


 それが正義の味方というものだ。

 そのセオリーさえ知っていれば怖がる必要などまったくない。


 なのに今――俺は完全に恐怖に染まっていた。


 赤ん坊の手が開かれ、幌をがたがたと不器用に動かし始めた。

 普通の赤ん坊とは明らかに違う。

 力強く揺らす動作には、明らかに意志がある。

 ただの乳を飲んで泣いて眠るだけの生き物ではない。


 俺は何一つ動くこともできず、奇怪な現象を凝視し続けた。


 やがて赤ん坊は幌を完全に開き、天の下にその姿を現した。


 立ち上がったのはやはり赤ん坊で、純白のオーバーオール、それと同じ布で作ったつばのある帽子を顎下で紐で結んでいた。


 だが可愛いという言葉の定義とは真逆の形相をしている。


 立ち上がったというのにベビーカーは一切揺れない。

 赤ん坊もぶれない。


 まだ屈曲した未成熟な両脚で、赤ん坊は完全に立った。


 その目はまっすぐに俺のほうを向いている。

 おちょぼ口が、おしゃぶりをぎりぎりと噛んだ。


『お前はマザーの下僕だ』


 ボーイソプラノのような透明な声がした。

 頭の中に響いた声は、醜悪な歌のように俺の脳内を攪拌する。


「お、お前は……」


 ようやくベンチから立ち上がり、ようやくそれだけを口にできた。


「お前はいったい……何者なんだ……?」


 赤ん坊はまばたき一つせず、おしゃぶりを甘く噛んだ。


『私はマザーの子供。マザーの意志の具現者。マザーの愛そのもの』

「……マザー?」


 かすれた声は届いたのかどうか。

 赤ん坊の口元がまた一つ動いた。


『マザーは尊い。この世界の創造主を産んだ人。マザーなしではこの世は存在しない。マザーこそがすべて。マザーだけがすべて』

「な、なんだって」


 一歩前に出たところで、俺の足は地に着く前に硬直した。


 地に足をつくことができない。

 前に進めない。


 手も動かなくなっている。


 声が出ない。

 息しかできない。


 吸って吐く、それしかできない。


 それしか、できない。


『お前はマザーの下僕。マザーのために行動しなくてはならない。お前は汚れている。だが汚れたお前でもまだ役にたてる。人間であるお前にしかできないことがある。マザーのために動け。罪をすすげ』


 さあ――!


 両手を大きく広げて見せた純白の子は、俺に崇高な目的を与えた。

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