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3-1 Mのためのレクイエム

 力強く踏込むと同時に、緩やかに重心を下げていく。

 竹刀を振りかぶってきた相手の動きは、わたしには緩慢にすら見える。

 小学生でももっと機敏に動ける。

 がら空きの胴に横一文字に竹刀で斬り込むと、「一本!」と大きな声があがった。


 体の向きを反転させ、元の立ち位置に戻り双方で礼をとる。

 剣道をする者にとって、礼をとることは初めに躾けられる。


 だが、顔を上げた瞬間、相手の面の隙間に、憎しみに満ちた目を発見してしまった。

 凍えるような視線は、突き刺さるように痛い。


 しかし、気づかないふりをして下がる。


 試合のせいではなく、防具の下には大量の汗をかいている。

 蒸れて気持ちが悪い。

 呼吸をする、そんな単純なことが難しい。


 二年生の集合する方へ行き、正座し、面をはずしたところで、里香が後ろの方からピースをした指を肩にとんとんと載せてきた。振り向けば、天真爛漫な笑顔だ。


 わたしは里香に無理やり笑ってみせ、それから正面に顔を戻した。


 向こうのほう、三年生の集合する方、ほぼ全員がわたしを睨んでいる。

 彼女たちの視線には冷たさは感じられない。

 だが熱い。

 熱くて――痛い。

 痛いことには変わりはない。




 その違和感は突然だった。


 全身に降り注ぐ針のような視線。

 スコールのように突然の、激しく痛い視線の嵐を全身で感じた。


 もう一度前を見る。

 右を見て、左を見る。


 気づけば、誰も彼もがわたしを見ていた。


 ぞわっと鳥肌がたった。


 続いて背筋を駆け上っていったのは悪寒だ。

 汗でほてっていたはずの皮膚は寒波でも浴びたかのように変化している。


 なぜ突然、こんなふうな見られ方をされるのかが分からない。

 確かにいつも大勢の人に注目されてはいるが、今日この時に比べれば全然大したことはない。


 どの目つきも普通ではない。

 人が人を見る目つきではない。


 憧れも憎しみも妬みも。

 想像のつく感情のどれにも当てはまらない。


 思ったことはただ一つ、『気持ち悪い』。


 美しいだけでそんなふうに人を見るか?

 強いだけで人をそんなふうに見るか?


(――違う)


 はじけるように、嫌悪と怒りの混在した激情が内から生まれた。


 怒りは濁流のようにわたしを混乱へと導いていく。

 抵抗する暇なんてない。

 怯えていただけのわたしは遠くへ流されていく。

 唯一残ったものは『自分の知らない自分』だった。


 理性をなくしたわたし。

 狂人と化したわたし。


『取り乱したい』

『腹の底から絶叫してみせたい』


 うわあああ、と。

 叫んで叫んで、立ち上がって。

 髪を縛るゴムを引きちぎって。

 長くて艶のある髪をぐちゃぐちゃにして。

 美しい顔を醜くゆがめて。


 ――叫びたい。


「見るなあっ!」


 そう叫びたい。


「見るな見るな見るなあっ!!」


 もう一度竹刀を握って、向かいの集団へ飛び込んで。

 一人一人を打ちのめしたい。

 打って打って。

 あざだらけにして。

 傷だらけにして。

 血だらけにして。

 目が開かなくなるほどにぶちのめしたい。


「お前ら、気持ち悪いんだよおっ!」

「見るんじゃねえ、見るんじゃねえよおっ!」


 三年生が終わったら次は二年生だ。

 そして最後は一年生も。


 この場にいるすべての人間の目を片っ端からつぶして、泣かせて、ひれ伏せたい。


 お前ら、おかしいよ。

 おかしいだろう?

 おかしいだろうが……。


「……美緒?」


 けいれんかと見まごうくらいに大きく体が震えた。


「大丈夫?」


 やっぱり里香だ。

 小さく振り向くと、あの心配げな表情でわたしの様子をうかがっている。


 強いはずなのに小心者、艶やかな外見のくせに気弱。

 そんな矛盾した複雑なわたしのことをうかがっている。


 くすくすくす。


 背を向けていても三年生の集団から嘲笑する声が聴こえる。


「大丈夫?」


 くすくすくす。


「……大丈夫」


 くすくすくす。


「本当? 帰ったほうがよくない?」


 くすくすくす。


「……ねえ」

「なあに?」

「なんでわたし、こんなに辛いの……?」

「美緒?」


 じっと里香を見つめながら、気づけば尋ねていた。


「強いことって、辛いことなの? きれいでいることって、辛いことなの? みんなに注目されるのって、辛いことなの? じゃあ……どんな自分だったら辛くなくなるの?」


 ずっとずっと、不思議だった。


(なんでこんなに辛いの……?)


 たぶん、おかしいのはわたしのほうだ。

 わたしがおかしくて、他のみんなはおかしくないのだ。


(なんでわたし、おかしくなっちゃったの……?)


 里香はそんなわたしをしばらく見返していたが、やがていつものように快活な笑顔をみせた。


「辛いのは美緒がマザーに愛されていないからじゃない?」


 その目は笑っているようで―――笑っていなかった。

 里香の口は機械のように同じ言葉を繰り返した。


「美緒がマザーに愛されていないからじゃないの?」

「マ、ザー?」


 里香が深くうなずいた。

 よく理解できました、と言わんばかりに。


「そう。マザー。この世界を産んでくれた大切な存在。この世界にとってもっとも尊い存在。大事な大事なマザー。マザーはこの世界を愛している。この世界もマザーを愛している」


 でも、と、里香は続けた。


「マザーは美緒のことは愛していない」


 それに、誰もあなたのことは愛していない。


 そう聞こえた気がした。


 くすくすくす。


 三年生の笑う声に、やがて里香の、二年生の、一年生の声が重なり――。

 女子特有のオクターブの高い笑い声が共鳴し、緩やかに、だが力強く、道場の隅々にまで響いていった。


 唐突に大合唱が始まった。


 彼女たちにとっては喜びの、わたしにとってはレクイエムの歌が紡がれていく。

 ハーモニーは整然としており美しい。

 それをわたしは茫然と聴くしかない。

 

『あなたは誰にも愛されていない』

『マザーはあなたを愛していない』

『マザーは創世の人』

『マザーとはこの世そのもの』

『マザーが愛さないということは、あなたはこの世にいてはいけないということ』

 

『この世にいてはいけないということ――』


 合唱は盛り上がるにつれわたしを追いつめていく。


『この世にいては、いけないの』

『あなたは誰にも、愛されていないの』


「や、やめて」


『辛いのならば、消えればいいの』

『辛いのならば、消えればいいの』


「やめて……」


『誰もあなたを気にしていないの』

『マザーもあなたを気にしていないの』


「……や、め、て……」


 呪いの言葉に全身を犯され続け――。

 わたしはその場で気を失った。


 意識を保つことを、とうとう放棄した。

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