2-2 Iの希望
「それで、あなたのしたことで世界は作り替えられましたかね?」
彼が物書く私の背後でそう言った。
私は彼の正体をいまだに知らない。
だがきっと――悪魔だ。
望む物を具現化し、望む事象を実現する究極のペン。
彼は突然私の目の前に現れ、恭しい所作でこのペンを渡してきた。
私はそれを涙に濡れた瞳で受け取った。
夕暮れ時、燃えるように赤く染まった病室で、彼の眼もまた焼け落ちる直前の太陽のように赤かった。
まだ空が青く高い時分から私はずっと一人でこの病室にいて、ただ一人で泣き続けていた。
そんな私に彼は古ぼけた一本のペンを渡したのである。
ベッドには妻が横たわっていた。
呼吸をしなくなった妻。
動かなくなった妻。
常に浮かべていた聖母のような笑みは消え去り、全身は硬直し始めていた。
青白い頬は、窓から容赦なく侵入する炎のごとき陽光のベールに覆われていた。
ほんの数時間前には生きていた妻に、死の色がはっきりとあらわれていた。
瞬間、妻の体が圧倒的に巨大な炎で包まれた。
「……そのペンのインクを使い終えるとき、あなたの願いは一つ叶えられます」
妻を覆う炎は今や天井に届きそうなほどに燃え盛っている。
ゴウゴウという音が聞こえそうなほどの巨大な炎だ。
だが熱くはない。
熱をまったく感じない。
「あなたの願うこと、それは彼女を生き返らせることですね?」
突然現れ彼は言った。
その炎が証拠である、と。
「なんて大きくて激しい。立派な業火だ。これだけの熱情を注ぐことができれば、きっとあなたは救世主にすらなれるでしょう」
彼は歌うように語った。
不思議な声だった。
見た目どおり、未成年者のようにも熟年者のようにも聞こえる声だった。
それを私はぼんやりと聞いていた。
「あなたはただ想像すればいいのです。願えばいいのです。それをこのペンは叶えます。叶えられた事象が増えるごとにインクは減り、世界は変わり、そして最終的にあなたはあなた自身の最大の願いを叶えることができるというわけです」
ほら、ごらんなさい。
彼は視線だけで燃えたぎる妻を示した。
「あなたはもうこの世界で生きていくことはできないのではないですか? そのような炎を抱えて人は生きていくことはできません。我慢しようとしても、押さえつけようとしても無駄です。炎はそこにある。消えることなど決してない。あなたにできること、それは世界を変え、救世主になり、死を生に転じることだけです」
私はとうとう尋ねた。
お前は神か、それとも悪魔か、と。
いまだ流れる涙を止めることなく尋ねた。
「そのようなこと、どうでもいいじゃありませんか」
彼が笑った。
慇懃に、だが初めて笑った。
「あなたには叶えたい強い願望があり、私はそのペンをあなたに使ってもらいたい。それでいいじゃありませんか」
弧を描くように持ち上がった彼の唇が、血で塗られたかのように赤く光っていたのを、私は今でも覚えている。
私にも猜疑心というものはある。
他人をむやみに信用するほど若くも愚かでもない。
だが彼の言うとおり、私には何物にも代えがたい強い願いがあった。
自分自身をいつしか食い尽くしてしまいそうな炎は、一度可視化されてしまった分、目をそらすことができなくなった。
それに――私の手にはペンがあった。
私の了承をとることなく、彼はペンを残し忽然と姿を消してしまったのだ。
妻を覆っていた炎は消え、そこにあるのは元の冷たく青白い妻の躯だけだった。
太陽は地に堕ち、薬品臭のする室内には闇が滑り込んでいた。
*
まっさらなノートを用意し、最初に書いた言葉は、『水が飲みたい』。
「い」を書き終えた瞬間、口内に突如冷水が現れた。
あまりに突然のことで、私はむせ、その大半を吐き出してしまった。
胸元が濡れ、冷たさに鳥肌が立った。
だが少しの冷たさは喉を通り、胃に落ち、なじんだ。
確かに書いたことは実現された。
そうやって、大したことのないことを慎重に実行してきた。
彼は時々私の前に現れ、黙ってノートを読み、ペンに触りインクの使用量を確認していく。
その都度「これがあなたのやりたいことですか」と私を蔑んだ。
「こんな調子では、いつになったらインクがなくなるか知れたものではありませんよ」
あなたの命が尽きるまでには終わらないかもしれませんよ。
言われるたび、ペンを握る手に力がこもることに彼は気づいている。
だが、それ以上は何も言わずに彼は姿を消す。
彼は私を詰り、けしかけるためだけに現れるのだ。
私はペンを握り直し姿勢を正す。
彼が現れるたびに、コケにされるたびに。
より大きな想像を、願いを、ノートに書いていく。
インクを使い果たした先にある未来と希望。
それに縋りつく私は、もはや正常ではない。




