みんなのところへ
機内だというのに、どこからともなく風が吹いている。凍りついてしまいそうな冷たい風だ。
そして、機内全体を包む静寂――。
先程通り過ぎた時にあった話し声や、物音、僅かに漏れるテレビの音がないのだ。更に今まで見えた乗客の姿さえも。
僕の様子を感じ取ってか、笹田と秀喜、工藤が身を乗り出して客室を見る。彼らの反応も僕と同じだった。その場で金縛りにあったかのように硬直する。
「おい、どういうことだよ……ひとりもいないなんて」
秀喜が震えた声で言う。
そう、僕たちがトイレを確認した僅かな時間に、客席全部の人が忽然と姿を消してしまったのである。物音も立てずに、一瞬のうちに消えてしまったのだ。
「おい、悪い冗談はやめろ。出てこいよ。化け物だろうが、ハイジャック犯だろうが、怖くないぞ。かかってきやがれ!」
秀喜が声を荒げて叫ぶが、言葉とは裏腹に震えている。
僕は秀喜の声を横で聞きながら、先程の影が何だったのかと考えていた。
あれが乗客一人一人を飲みこむ、化け物の正体ではないのか?
ここは、魔の海域の上空から離れているが、過去、行方不明になった飛行機や船が、あの影に襲われていたとしたなら、僕たちの運命は終わりではないのか?
静まり返った機内に秀喜の声が響き渡って数刻。返ってくる声も、出てくる人もない。
二階にいるクラスメイトたちの様子も気になりはじめた。恐怖の感情も大きいが、前に進むしかなさそうだ。意を決して一歩前に進む。
その瞬間。
「いやあああああっ!」
後ろにいる笹田が、突然大きな声を出して、僕の手を握ったまましゃがみこんだ。振り返ると、僕の目の前にひとつの物体が吊り下がっていた。
あまりにも至近距離にあったので、それが何か確認するのに、しばらく時間を要した。
「おい、よく見ろよ。酸素マスクが落ちてきただけだって……」
呆れた口調で秀喜が、しゃがんだまま震える笹田に声をかける。
おそらく、酸素マスクは笹田の背中に落下し、ぶつかったのだろう。僕も驚きで息を呑んだのだから、彼女も同じ誤解をしたのかもしれない。
つまり、人の『残骸』ではないかと……。
「けど、酸素マスクが勝手に出てくるなんてありえないよ。通常、酸素マスクは機体内の気圧の変化に反応して出てくるはずだから」
ずれ落ちた自分の眼鏡を人差し指で押しあげながら、工藤が言う。
「落ちてきたってことは、やっぱりこの機体に何かが――」
「違うの……違うのよ……」
すると、笹田がうわ言のように言葉を繰り返しはじめた。
「外に影が見えたの。大きな影が……何なのかはじめはわからなかった。けど、二度目でわかったの……あれは……」
笹田の話を聞いて僕は気づいた。影を見たのは僕だけではない。彼女も見ていたのだ。僕に進めと指示したのは、影の正体をつきとめるためだったのだろう。
笹田が何を言うのかと、秀喜と工藤は真剣に聞き入っている。当然、僕もだ。
そして、笹田は声を震わせたまま、
「人の顔があった……」
信じ難い事実を口にした。
「人? 馬鹿言うなよ。ここは空だぞ! 人が外にいるなんて――」
すぐさま、秀喜が笹田に反論する。ところが、彼は大きく目を見開くと硬直していた。気になって秀喜の視線をたどると、顔面蒼白の工藤がぶつぶつと呟く姿があった。
「工藤! まさか、お前も見たとか言うんじゃないだろうな!」
秀喜の問いに工藤は念仏のように、
「これは夢だ……これは夢だ……」と、繰り返している。
「立花、お前は見たのか? 本当のことを言えっ!」
興奮した秀喜は、いつも言うタッチーというあだ名ではなく、名字で僕に言った。
「影だけは見たよ。人の顔は見ていないけど……」
「化け物だったか?」
「わからないよ。僕が見たのは影だけだし。けど、二人が見たのなら――」
幻覚ではない。それが僕の中の結論だった。
しかし、影に人の顔があったというのはどういうことなのだろうか。疑問が深まる。
「取り敢えず、今までのことを整理しようぜ。まず、宮本とそれを捜しに行った田淵が姿を消した。あと担任の外川。俺たちと一緒にきていたはずの鈴木とスチュワーデスも消えた。そして、今度は一階の客全員がいなくなってる」
秀喜が動揺して座りこんでいる工藤と笹田を見降ろしながら、冷静に分析をはじめた。
怖がりの彼の心境から察すると、真相をつかむことで恐怖を拭いされるのではという根拠のない思いがあるのだろう。秀喜に促されるように立ちあがった工藤も、話に続いて口を開ける。
「そして、僕と笹田さんが大きな影にうつる、人の顔を見たんだ。あれは幻覚なんかじゃなかった! きっと、あの化け物がみんなを消しているんだ。いや、機内に入って、ひとりずつ食べているのかもしれない……口を大きく開けて丸飲みで」
「あー、もうっ! わけわかんねえよ。メアリー・セレスト号とかバミューダ現象とか、それに人の顔を持った空飛ぶ化け物って……」
頭を激しく掻いた秀喜は、不意に顔をあげると僕を見た。
「立花、他の奴らはどうしたかな? ここの客が全員消えたなら、きっと二階も」
秀喜の言葉に反応して笹田が立ちあがる。しかし、自分の体を支え切れずにふらついた。
直前で異常に気づいた僕は、彼女の身体を支えて倒れこむのをとめる。
「ありがとう……山口さんが心配で……けど、肝心な時に……私って駄目だね」
笹田の隣で寝ていた山口は、彼女の大親友で小中高校の長い付き合いだ。
いわば、僕と秀喜のような関係である。心配しないほうがどうかしているだろう。
「とにかく、もとの場所に戻ろう。そして、目的地に着くまでじっとしてるんだ」
僕が言うと、全員が頷いた。
どんな生き物でも集団行動を好む。それはたくさんの目があることで危険に気づきやすいし、ひとりに危険が及んでいるうちに、他の者が逃げられるからだ。
こういうと薄情に思えるが、群生動物の全てがそうやって生き続けている。安全を確保するには、皆と一緒にいるのが一番なのである。
しんと静まり返った一階を抜け、二階へ向かうため階段を一歩ずつ慎重にのぼっていく。
全員手をしっかりと握ったまま、互いの足音を確認しつつ、少しずつ。
階段をのぼりきると、僕は後ろを見た。全員いた。ホッと胸を撫でおろす。すると、笹田が進んでとせがむように僕を押した。理由は簡単だ。彼女は親友の山口が心配なのである。
笹田の背後にいる秀喜が、「ごくり」と唾を飲む音が聞こえた。
「おい、何があっても手を放さないでくれよ」
二階の様子を見るにあたって再度、秀喜が念を押す。彼が言わなくても全員そうするだろう。誰だって訳がわからず、こんな騒動に巻きこまれたくはない。
「行くよ」と皆に目で伝えると、笹田と秀喜と工藤は「うん」「おう」「よし」と違う口調で答えた。意見が一致したのを確認して機内を見る。
そこには、僕たちがいた時と変わらない空間があった。