1・1
黒田side
デスクに、天井に、そして台に。馬鹿馬鹿しいほど大量の液晶画面が設置された部屋で、黒田はそのうちの一つを食い入るように見つめていた。青い光に照らされた顔は、不健康そうな色身を帯びている。目を向けられることがない右手のパソコンは、雨合羽を着たニュース番組のレポーターの甲高い声を繰り返し再生していた。
「イタリア、トスカーナ地方から中継です。二〇日から降り続いた雨は依然勢いが衰えることなく、こちらフィレンツェでは、マンホールの蓋が外れ下水が溢れだすなどの被害が生じています」
現在の被害状況とレポーターの上がり気味な調子は一見不釣り合いに思える。洪水も充分災害だが、悲鳴を上げるほどのものでもないだろう。しかし、この雨が一〇日近く続いていることと、そして雲が晴れる気配のないことを鑑みれば仕方のないことなのかもしれない。
黒田はキーボードを忙しげに叩いては、マウスをドラッグする。それぞれのディスプレイには全て気象に関する情報が映し出されており、この個人に割り当てられるにはやや大きすぎる印象を受ける部屋が、天候に関する研究施設であることを物語っていた。
彼の横に、研究室にそぐわないスーツを着た、糸目で人好きのする顔の男が立った。優しげな目つきを、への字に曲げた口が台無しにしている。
「黒ちゃん、調子どうよ?」
「うん? 零二はどうしたの」
「ちょっと煮詰まってな」
花山零二は適当に引っ張ってきた椅子に腰をおろし、黒田と同じ画面に投げやりな視線を送る。この研究室では、実験や観察、分析など全てがデジタルの処理で行われる。彼らが目を向けるものは画面のみであり、また着用するものは白衣ではなく、スーツである。
花山は綺麗に切りそろえられた爪で、画面を叩くようにつついた。
「この雲の形といい、気圧といい、頭おかしいだろ」
「頭じゃなくておかしいのは天気、ね」
さらりと花山の言葉遣いを訂正する。
気象省災害対策部風水害課。これが彼らの職場だ。温暖化の影響で風水害が年々深刻化していく中、多くの期待を集めている。気象庁が気象省に再編されたのも、風水害の影響がそれほどまでに日本経済に影響を与えるようになったからだ。そのため、この部署は省内でも多くの予算が割り振られており、またあらゆる面で優遇されている。
黒田が画面を最小化し、タスクバーから天気図を呼び出した。
「低気圧も山地も、一方向から吹く強い風もなし。時間ごとの天気図を見比べると、むしろ気圧は少しずつ上がっている。はぁ」
「ありえないだろ、こんなの」
イタリアのトスカーナ地方に洪水を引き起こしている雨雲は、世界地図上では点に見えるほど小さく、また完全な円形を保って青空に浮かんでいた。
発生原因は不明。どうやって形を保っているかも不明。しかし確かに規模にそぐわない雨量を、しかもさらに勢いを増しながら、長期に渡って保っている。今までの気象学の常識からして「ありえない」ものだ。
黒田が軽い口調で、花山に言った。
「ねえ、零二。もし僕がこの雲の正体に見当がついているって言ったらどうする?」
口調とは裏腹に、黒田の表情には緊張が滲んでいる。
黒田の緊張に気付かなかったのか、それともわかっていて無視したのか。花山は大げさなほどに食いついた。
「嘘だろっ? 教えてくれよ!」
世界中の研究期間が調べていて、それでも原因がわかっていない雲塊の秘密の一端を、目の前の男が解読したというのだ。花山の驚きようも、自然なものなのかもしれない。
それに頷き、強張る指で花山が来るまで見入っていた画像を黒田は開いた。ステンレスのバンドの腕時計が、小刻みに金属質の音を鳴らす。数秒のロード時間の後表示されたのは、画面から隅がはみ出している真っ白な雲の画像だった。
「この画像なら俺も見たぞ。気象衛星からの写真だろ? これがどうかしたのかよ」
「これを拡大していくと、面白いものが見えるんだ」
「雷神様でもいたのか」
「雷神様ならまだいいんだけどね」
何度も画面の左から右に波打つ線が走り、そのたびに画像が一度消え、拡大されて再生される。果たして何倍になったのだろうか。解像度が高かったはずの画像に粗さが目立つ頃になって、ようやくそれは雲の切れ間に姿を現した。
雲と溶け合うかのような、光を柔らかく弾く乳白色。直角で構成された幾つものブロックに分けられた表面。そして、その長方形のブロック一つ一つが立体だと示す影。曖昧な曲線で構成されている雲の中で不自然ななにかがその一角を覗かせていた。
「なんだこれ。妙に角張ってるというかなんというか。それに、造りは細かいが全体はかなりデカいな。この形は……街か?」
花山の呟きに黒田は答えない。引きつった口元は、やや釣り上がって固まっていた。花山もしばらくの間、放心したように口を開いて「それ」に見入っていたが、やっと二言目を発した。
「いや、まさかな。そんな訳ないか。偶然だろう」
もしかかしたらこの一言を黒田は待っていたのかもしれない。きっと否定してくれる相手が現れることで、自分の意見を述べる機会が欲しかったのだ。あらかじめ台本を準備していたような滑らかさで、花山に対して反論を語りだす。
「……本当に偶然なのかな? 雲の大きさから計算すると、このブロック一つの幅は全ておよそ一八メートル。影の長さと太陽の傾きから計算すると、高さは七メートル」
一瞬の溜めのあと、黒田は言い切った。
「これは人工の建築物だ。ブロックが全て直線と直角で構成されていることも含めて、自然にこんなものが出来るとは思えない」
二人しかいない部屋を沈黙が支配する。コンピューターのファンの音が、ささやかに抵抗していた。クーラーから流れ出す冷気が首筋をなでる。
花山は否定する根拠を探すかのように「それ」を凝視するが、その異質さは彼に論理的な否定の言葉を与えない。視線を右往左往させて脳内から言葉を探し出しても、結局口から出てきたのはなんのひねりもない陳腐なものだった。
「ま、町が浮いているとかありえないだろ。こんなの造る技術だってないだろうし」
「よく見てほしい。この角の部分だ。きっとこの都市は、空中で人が暮らすことを前提に造られたものだよ。そうでもなければ、縁にこれだけ高い塀が築かれていることが説明できない。この塀の高さは約一五メートル、幅は四メートルほど。中世の城壁のような構造だ。造られた目的は……人や資源の転落の防止、じゃないかな」
黒田はマウスを机上で回し、画面の矢印で宙に浮かぶ都市の角を囲む。花山は、まるでその都市が回転し、上に乗る人々を振り落とそうとしているかのような錯覚に囚われた。
単純な外観から想起されるのは、中世ローマの街並み。雲の真ん中で揺れる地面に、街の外を囲む外壁に身を預ける人びと。花山は目眩を覚えた。
「も、もしそれが空中に浮かぶ都市だとしても、どうやって説明するんだ? このあとの会議でさ。きっと『馬鹿馬鹿しい』で片づけられるぞ」
「常識的な発想じゃ、もう煮詰まっているんだ。常識を捨てなくちゃ、きっとこの洪水を解明することはできないんだと思う。『科学的』なんて言葉にすがって、思考を固くしているんじゃ駄目なんだ。もし会議で一蹴されたとしたら、僕はどんな手を使ってでもこの雲の中を調査する必要性を認めてもらうよ。いや、最悪僕が一人ででも……」
悲壮感すら感じられる決意を込めて、黒田は言った。
この宙に浮かぶ都市が原因で雨が降り続いているのならば、この都市を排除するなり機能を止めるなりしなければ洪水は終わらない。雨が降り続け、水かさがさらに増せばどれだけの被害が出るのだろうか。映像に流されるように文化的価値のある遺跡や絵画が損傷するだけではない。まさにその地域で暮らしている人々が苦しんでいるのだ。そう考えると黒田は決意をせずにはいられなかった。
信じられない、といった面持ちで花山は黒田の横顔を見た。そして、悟った。黒田が決して思いつきでこの構造物を人工のものだと言ったのではないことを。彼だって目を疑い、苦悩し、それから受け容れて分析した。そしてその結果この結論に落ち着いたのだと。
「あー、なんだ。俺はまだ信じられないが、応援はするぞ」
「まあ、雲からして何もかも今回は異質だもんね。科学者の僕らじゃなくて、オカルトの専門家の管轄だよ」
二人は表情を崩した。温もりを感じさせない研究室に、二人分の笑い声が広がる。
「それじゃ、頑張れよ。俺は他の奴の結果も参考にしてから自分の意見を決めるわ。もしかすると保身のために会議では上司にへつらうかもしんねえけど、心の中ではお前を応援してるからさ」
「それがいいと思うよ。僕だってできる限り目をつけられたくないしね」
「本当にすまないな。実は親父が最近体調悪いらしくてな。入院とかあるかもって考えたら、とにかく仕事を辞めるわけにはいかねえんだわ」
「そうだったんだ。お父さんに大事ないといいね。まあ、零二は気にしないでくれよ。犠牲者と脂肪分は最低限で十分なのさ」
「ありがとうな。親父の体調不良も脂肪分が原因だからな。それじゃあ、三時間後」
「うん、また」
立ちあがった花山は黒田に親指を立て、部屋を出て行った。それを見届けた黒田は別のタスクバーを開き、猛烈な勢いでタイピングを始めた。その手つきと眼差しに迷いはなかった。
後ろ手でドアを閉めた花山は、すぐに他の研究室にお邪魔するのではなく、音の響く廊下の窓を開け上半身を乗り出した。携帯電話からある番号に発信する。その表情は決して明るいものではなかった。
「あ、もしもし……桜庭、今イタリアで洪水が起きているだろ? あれな、もしかしたら初代人類が関わっているかもしれない――」
蛍光灯と白い壁に、規則正しく前を向いて並んだ長机。その一つに大人しく座っている黒田は、電子黒板ではなく、部屋の隅で息をひそめている観葉植物に目をやった。
電子黒板には、気圧や海流、色分けされた気団などが映されているが、立派なのは見た目だけだ。肝心の中身である説明は、「わからない」という結論をごまかすための空虚な言葉の羅列だった。観葉植物でさえ身を縮こまらせ、欠伸をこらえている。
聞いている者たちも皆退屈さに耐えながら、わかったような顔をして時間が過ぎ去るのを待っていた。どうせこの説明が終わっても、次の人が似たような説明を繰り返すだけだと。
黒田には会議に参加している人間で、トスカーナの洪水に何かしらの糸口を掴んでいる者はいないように見えた。そして、真剣にこの問題を解決しようと取り組んだ人間がいるようにも思えなかった。対岸の火事であって、解明しなかったところでなんら不利益を被ることはない。考えてもわからないものに時間を費やそうとはしない、あまりにも合理的な公務員たちの姿を感じ取った。
進行が儀礼的に問う。
「質問がなければ次の方に進みますがよろしいでしょうか?」
けだるそうな空気がそれに答えた。進行が黒田を指名した。黒田はもともと風水害課の中でも目立つタイプではなかった。電子黒板に自身のパソコンを繋ぐ黒田に、無関心な視線が降りそそぐ。
黒田はいきなり例の雲の写真を大写しにした。部屋の右後ろから見守っていた花山は、思わず組んだ指先に力を込めた。指先が白くなる。
会場では一風変わった説明の始まりに期待を寄せる熱気と、早く終われという相変わらずの冷たい視線が混じり合い、今までになく生ぬるい空気感を醸し出していた。誰かが貧乏ゆすりをしているのだろうか、断続的な衣擦れの音が黒田の鼓膜に伝わってくる。
「はい、では二〇日からイタリアのトスカーナ地方を覆っている雨雲についての私の見解を述べさせていただきます」
黒田はとっくに心の準備を整えているのか、落ち着いた声音で説明をする。その声も両膝も、微塵たりとも震えていなかった。
雲が拡大され、拡大され、拡大され。そして、それは露わにされた。
会議室として使われている多目的研修室中にどよめきが広がった。ある者は顔を突き合わせ、ある者はより詳しく画像を見ようというのか立ちあがり身を乗り出した。
その画像を縮小して右上に押しやり、黒田はその構造体が人工のものである可能性を示唆するデータを提示した。
花山は会場の空気が段々と二分されていくのを肌で感じた。つまり、黒田の説を肯定的に捉えて関心を持つ者と、眉つばのオカルトとして不快に思う者。本人達も会場の空気を察知しているようで、時折互いの顔色を窺うように視線を飛ばしている。どちらかといえば関心を持つものが優勢か。
だれていた会場の雰囲気が、完全に張り詰めたものとなった。
黒田の発表が終わり質問の受付を開始したとき、その緊張感は最大となった。進行のこめかみに大粒の汗が伝う。このときになってようやく右手が震えだしたことを、黒田はズボンで手汗をぬぐったことで知った。吸湿性のない生地に、いやに水分が染み込んでいく。
お互いを計り合う間が続いた。緊張感が高まっていく。だが、張り詰め過ぎた糸はいつかは切れる。会場の空気はとうとう臨界に達した。
参加していた災害対策部長の世田谷が荒々しく椅子を蹴って立ち上がった。地位的には黒田が所属している課の上位に位置する部の部長だ。いわば彼の直系の上司である。
「馬鹿馬鹿しい。こんな戯言を会議の場で述べて。君はふざけているのかね」
なぜか怒気をはらんだその声に屈しそうになるも、黒田は表向き毅然とした態度で世田谷に向き合った。まだ若さと未熟さが一体になっている黒田が、老練な狸を思わせる世田谷相手に虚勢を張る様は、どこか滑稽さを孕んでいた。
「私はこの考えに根拠があると説明したはずです。世田谷部長が戯言と判断した、論理的かつ科学的な根拠を述べていただきたい」
「調子に乗るな!」
胴間声が部屋中を叩いた。
黒田は心の中で盛大に肩をすくめた。科学に上下関係だとか権威だとか持ち込んでくるんじゃないよ、と思いつつも、研究者なんて上下関係の中で宮仕えしなければ生きていけないのだ。本音は喉から先には出て行かなかった。
対等の立場で行われなければならない議論が、対等の立場で行われることなどほとんどない。
黒田はただ、こう言った。
「質問にお答えしましょう。ふざけてはおりません。いたって真面目です」
直立不動で答える黒田を、世田谷が頬杖をついて鼻で笑い飛ばす。
「君には呆れたよ。下らん、実に下らない話だった。次だ次」
黒田は世田谷の態度に違和感を覚えた。焦りすぎてはいないだろうか、どうしてそこまで必死にこの説を否定し、次の人の発表に移ろうとするのだろうか、と。
もしこの説が受け入れられたら、世田谷にとって不利益になることがあるのか。浮かんだ疑念を黒田は頭の片隅に追いやった。きっと頭の固い老害が、斬新な説にアレルギーを起こしただけなのだ。疑ったところで栓もない話だ、と。
進行がひどく困った顔つきで会場を見渡す。この集団のトップが明確な姿勢を示したことで、疑問を持っている者はいても質問をする者はいなかった。給料をもらって生きている者たちの方向性は表面的にはまとまった。
黒田は進行に促されるまでもなく、もともと座っていた長机へと退場する。その顔は、徹底的に塗りつぶされた無表情だった。付き合いの長い花山は知っている。黒田がその表情をするときは、悔しさを隠している時だと。
いたたまれなくなった花山は、そっと席を立った。目立たぬよう軽く会釈しながら部屋を出る。
――途中で折れたとはいえ、部長の気に障ったんだ。ここから先、何かしらの逆転劇が起こらない限りこの気象省にあいつの居場所はなくなるだろうな。ここは、そういう場所だ。
むしゃくしゃした気持ちを落ち着けるために、タバコがないか探ったポケットから、細かな振動が指先に伝わった。携帯電話を探り出す。
画面には、新着メールの表示があった。黒田からである。机の下でなにをしているんだかと、学生時代を思い起こしながら開いた。ざっと目を通すと、その表情は自然と厳しいものになった。
『花山。僕はきっと、ここにいたままでは何もできないだろう。こんなとこ出て行ってやる。僕は』
空白が続き、最後の一行にはこう書いてあった。
『イタリアに行く』
無理にラノベに改造してるので読みにくいかもしれません。
誤字脱字等あれば報告くださると嬉しいです。




