第1話 十一月二十五日(日)
溜め息とともに出た白い吐息が空気の中に溶けていく。凍えるような寒さに身を震わせ、黒と白のチェックのマフラーに顔をうずめた。二十時の街には人の姿がほとんどない。一人で家までの道を急ぐのであった。
つい先日まで赤や黄色に鮮やかに染まっていた街路樹であったが、今週の雨のせいですっかり葉を落としていた。今にも折れてしまいそうな無数の枝を空へと伸ばしている姿に、今年も冬の訪れを感じていた。
「あ、橘先生じゃん。何してんの?」
アスファルトに広がるまだら模様の木の葉の絨毯を踏みしめながら歩いていると、急に後ろから声をかけられた。少し驚きながら振り返ると、担任しているクラスの男子生徒が自転車を押しながら近づいてくるのだった。横に並んで同じペースで進み始める。
「ちょっと学校で仕事をしてたんだ」
「今日日曜日なのに?」
「もうすぐ期末試験だからな。先生にも色々と仕事があるんだよ」
特に面白味のない答えに彼はふうんとだけ言った。
自分は中学校の国語教師をしている。大学卒業後すぐに教壇に立ってから今年で八年目になる。大学生の頃教師になろうとは微塵も思っていなかった。将来の保険に何かしら資格を取れと母がしつこく言うものだから、大学では仕方なく教職科目を受講していた。どうせ一般企業に就職するつもりだから時間の無駄だと思っていたが、最終的には母親のしつこい忠告が吉と出た。大学でサークル活動以外何もせず、特に取り柄と言えるものもない自分は就職活動で惨敗を喫した。お祈りされた数なら其処らの一般人には負けない自信を持っている。働かないわけにもいかず仕方なく教師になることに決めたのだった。
そんな理由で教師になった自分であったが、今では教師という職業もなかなか良いものだと感じるようになった。上手くいかないことも投げ出したくなることも多いが、生徒が立派に卒業していくときの感動は他では味わえないものだと思っている。自分の卒業式のときは涙なんて零す気にならなかったにもかかわらず、担任した生徒の卒業式では思わず涙を流してしまったのだから不思議なものである。
目の前の生徒も来年の三月に卒業を迎える。今月の初めまで陸上部で駅伝選手として頑張っていた彼も現在受験勉強に追われている。担任としては生徒全員が希望を果たすことを願っているが現実はそう上手くはいかない。ただできる限りのことはしてあげたいと常々思っている。
「お前こそこんな時間に何してるんだ?」
彼にも同じ質問を返す。
「さっきまで塾で勉強してたんだ。飯の時間だし帰ろうと思ったら自転車パンクしちゃってさ。ほんとついてないや」
「それは災難だったな。まあ長い人生そんなこともあるさ」
「先生は話が大きいんだよなあ。人生スケールで語らないでよ」
上手な表現が見つからず適当になってしまった返事に生徒が笑って答える。
「あ、俺の家こっちだから。じゃあね先生、また明日」
「また明日。気を付けて帰れよ」
右側の路地に曲がっていった背中越しに声をかけると、彼は一瞬振り返って大きく手を振った。駆け足で急ぐ彼の背中が小さくなってから再び帰り道を進むのだった。
家まで後五分というところで携帯電話が鳴った。今日一日マナーモードにしてなかったことに気付くと同時に、一日中電話もメールもない自分のことを悲しく思うのだった。書類や筆記用具で膨らんでいる鞄に手を突っ込んで携帯電話を取り出した。
画面を開くと一通のメールが届いていた。差出人は大学のサークルで同期だった伊藤である。大学卒業後も付き合いが続いている数少ない友人の一人で、今でも二ケ月に一度ほど一緒に遊びに行く仲であった。今週の土曜日飲みに行かないか――メールを開くと短くそう書かれていた。