Chapter.2-2
解説、長々と
検査につき立ち入り禁止。そう張り紙のされた扉が、保健室の入り口だ。
ルリネは、どう見ても乗り気でないユウトと連れ立って訪れていた。ドアをノックすると、入ってくれ、と短い返答がある。
「失礼しまーす……」
恐る恐る中に入ると、まず目に入ったのが白衣の麗人だ。肩口で切りそろえられた癖のない黒髪、凛とした銀縁眼鏡、蠱惑的に組まれた脚。
「時間をとってすまないな。まずは座りなさい」
香曽我部キョウカは、並べられた二つの丸椅子を勧める。ルリネはおっかなびっくりと、ユウトは落ち着き払って腰掛ける。
「なぜ呼ばれたのか、大体の見当はついているだろう」
「はい、昨日のこと、ですよね?」
「そうだ。話さなければならないことがいろいろある。話は長くなるだろうし、専門的な言葉も多くなってしまうだろうが、できるだけ頭に入れておいて欲しい」
「分かりました」
話の内容が、どれほど残酷なものになるのかは分からない。だが、ルリネは冷静を取り繕って頷いた。ルリネ自身に関することなのだから、聞かないわけにはいかなかった。
「冴島ユウト――君も、私たちと、そして敵に関しては多少の知識を持っているのだろう。だが、彼女のためにも一緒に聞いてくれるな?」
「……分かっている」
そっけなく返す。どうにも、キョウカやエリナに対するユウトの態度には棘がある。彼らの間にいかなる軋轢があるのか。それも話してくれるのだろうか。
「では、まず始めに、結論から告げよう」とキョウカは切り出す。「御堂ルリネ、君は一種のゲームに巻き込まれた。人間側にとっては防戦一方、相手方にとっては攻戦一方の、理不尽極まりないゲームだ」
「ゲーム、ですか?」
「そうだ。将棋のようなものと考えればいい。王将は君だ。相手側が君の命を奪うか、私たちが君を守りきるか。こちらからの王手はない。ただ耐え忍ぶしか」
「どうして、私が……」
「理由は、実のところ私たちにも不明だ。詳しく話す前に、敵について説明しておかないとならないな。私たちは、ヤツらをレギオンと仮称している。存在そのものがあやふやな、理論的には実証できない生命体――人類の天敵だ。レギオンの存在については、いくつもの仮説が立てられている。しかし、明確な答えというものは見つかっていない。大半の人間には存在を感知することができない、というのが一番の理由だろうな」
一度言葉を切ると、キョウカはすらりと伸びた脚を組みかえる。
「ここからは専門的な話になるが――レギオンの住む世界は、われわれ人間の世界と同一の空間軸に存在している」
「同一の、空間軸? それってどういう……」
「レギオンは、この世界には存在していないように思える。しかし、実際には目に見えていないだけだ。ヤツらは、確かに、今ここに存在している。ただ、私たちの世界とは異なる空間なんだ。その空間を、虚数領域と仮定する説が私たちの中では有力だ。虚数、という言葉は知っているな?」
「えっと、数学で習ったぐらいなんですが……数直線上に存在しないっていう、あの?」
「まあ、その解釈で間違ってはいないだろう。私たちの住むこの世界を実数世界と定義するならば、敵が住むのは人間が直接的に知覚することのできない、虚数の空間――それがレギオンの住む世界だ。現実とは別に幽霊の世界があると考えればいい」
「随分と粗末な例えだな」
と、腕を組んだまま静聴していたユウトが揶揄する。キョウカは頭を振って、
「砕いて言えば、の話だ。イメージとして掴んでくれればいい。とにかく、その虚数領域に住んでいる生物は、この現実世界に生息するものと酷似しているようだ。姿かたちだけじゃない、私たち人間社会と同じように、ヤツらの世界にも階級社会が成り立っている。大雑把だが、労働階級や貴族階級に位置する区分もあるようだ。昨夜の敵を思い出して欲しい。小人の皮を被った蟲と、首なしの怪人だ」
鮮明な記憶が蘇る。可愛らしい、ファンタジーのような小人。しかしその中では、気味の悪い何かの幼虫が無数に蠢いていた。大きな包丁を持った怪人にいたっては、常識的に考えて、首がないままで生きているなんて不可解だった。思い出すだけで、胸の奥が重くなる。生理的な嫌悪感を与える外見だった。
「あれも一種の身分制度の表れだ。小人は首なしに従順な奴隷、あるいは家畜といったところか。これまで数々の手合いを目にしてきたが、格差が存在することは確実だろうな。そして、同じように文化という概念も持ち合わせている」
「文化……それって、読書したり楽器を演奏したり、ってことですか?」
きょとん、と唖然となった後、キョウカは艶美ともいえる表情で笑いを堪える。
「なかなかシュールな光景だな。それだけであったらどんなに平和なことか」
「ち、違いますか?」
「さあ、もしかしたら読書をするレギオンもいるかもしれないが……ヤツらの生活そのものともいえる文化は、狩りだ。人間の貴族が、享楽で動物を狩る。それと全く同じように、ヤツらも狩りを行う。その対象が、不幸なことに人間だったというわけだ」
「そんな……でも、それって……」
不条理だ。しかし、レギオンに対する恨みは生まれてきたものの、それが正しいものなのかと思い返す。自分が人間であるがために。ここで相手を否定してしまえば、自分を否定してしまうことに繋がってしまうのではないか。ルリネは別に菜食主義者でもなければ、動物愛護団体に特別な共感を抱いているわけでもない。肉料理だって口にするし、蚊がいれば刺される前に叩く。テレビでシマウマがライオンに捕らえられ、糧にされてしまう場面を見ても、シマウマに同情することはあっても、それだけだ。ライオンに対して怒りを持つようなことはない。それがライオンにとって生活の一環であり、自己という存在を保つために必要なことなのだから。すなわち、摂理だからだ。
化け物も、レギオンの狩りも、それと同じなのではないか、とルリネは考える。自分がどんな存在であるのかを自らが定義し、再認識する手段は様々だ。ルリネは読書が趣味で、小説を読んで物語に没入し、そこにある感動に心を動かされる。そうして現実の自分とは異なり、煌びやかに思える世界も虚構ながらに存在することを認識し、ルリネは改めて自分が人間として生きていることを実感する――そう言ってしまえば少し大げさだが、読書という文化を楽しんでいるのは確かだ。そこには罪も罰もありはしない。そして、趣味として、文化としての嗜みを一概に否定することは危険なことだ。たとえそれが野蛮なことであろうとも。レギオンの狩りをキョウカは文化だと表現した。どこか人間に似ていながら、その実はまったく異なる存在である彼らが、死のゲームの果てに何を思うのか分からない。それでも、どう感じるのか、だいたいの想像はできる。
だからといって、死を受け入れるかと問われれば、首を振る方向は決まっている。
「なんで、私なんですか?」
改めて問う。日常とはかけ離れた世界に、自分が引きずり込まれた理由を。
「さっきも言った通り、詳しい理由は不明……狩りのターゲットにされる人間は、完全にランダムで選ばれるとしか思えない。私たちにも、狩りが始まってからでないと誰が狙われているのか分からない……私たちの助けが入る前に、命を落とす人もいる。今回、君の傍にエリナがいたのはまさに僥倖だな」
そう思うと、どっと冷汗が吹き出てくる思いだ。戦いに巻き込まれたことは人生最大の不幸だが、助かったことは人生最大の幸運だったということなのか。
「人間は、抵抗する手段を持たないわけではない。だが、通常の兵器――銃や爆弾といったものはヤツらには通用しない。いや、使用できないと言ったほうが正しいか。御堂、レギオンの襲撃の前に、停電を経験しなかったか?」
「そういえば……停電、してました」
それだけではない、数分前までは使えていた携帯電話も、バッテリーが切れてしまったかのように反応がなかった。
「正確に言えば、あれは停電ではない。ましてや、君が暮らしていたアパートですらない。そっくりそのままヤツらが作り上げたレプリカだ」
「はぁ……?」
だんだんと理解が追いつかなくなってくる。いきなり異邦人になった気分だった。まったく知らない生活の習慣を、一日で習得しろと言われているようだ。
「突拍子のない話ばかりだ、当惑するのも無理はない。だが、保身に関わることだからできるだけ覚えておいて欲しい。レギオンは、狩りを行うときに虚数領域からこの現実世界に直接現れるわけではない。現実と酷似した空間を造り、そこにターゲットを移動させることで狩りを行うというルールがある」
「つまり、昨日戦った場所は、模型の街ってことですか?」
「そうだ」
「でも、それと停電がどんな関係を……?」
「レギオンの造り出した空間には、電力というものが存在しない。ヤツらの文明が電気を使用しないものなのか、それとも電気というもの自体を知らないのかどうか――だから、周りの電化製品が全く使用できなくなった場合は、既に狩りが始まっていると考えていい。また、狩場に引きずり込まれるのはターゲットだけだ。突然、周りに誰もいなくなったときも同じように考えるべきだな」
「な、なるほど」
とりあえず注意すべき点は理解できた。電化製品が使えなくなったときと、周囲に人が一人もいなくなったとき。しかし、当然のことながらさらに疑問が浮かぶ。
「でも、先生や九条さんもいましたよね? その、模型の街に引きずりこまれるのは私だけじゃないんですか?」
「本来ならば、そうだ。だが、私たちは特別だ。君も見ただろう、私たちの普通ではない能力を」
激戦の光景がフラッシュバックする。エリナの両手に嵌められた白いグローブと、その指先から放たれるワイヤー。手品のように銃火器を取り出すケイ。紫色の機械に身を包んだキョウカ。そして、黒の鋼鉄を影のように纏った――
「私たちは、エリナやケイの持つ特殊能力を、アニマと呼んでいる。ラテン語で魂を意味する言葉の通り、各人の意志を形に表した、人間側の唯一の抵抗手段だ。誰が、どのようなアニマを発現するのかは分からない。それを使えるようになるのは偶然の出来事としか言いようがない。産まれたときから使える者もいれば、一生使うことのできない者もいる。大半の人間は後者だな」
「超能力……アニマ……」
「このアニマを使用できる人間は、レギオンが生み出す狩場の波長に自己の存在を同調させることが……いや、あまり専門的な話をする必要はないな。とにかく、私たちが持つ力は、君の命を危険から守ることができる。現実的に言ってしまえば、私たちしか君を守ることができない。だから、全力で君をサポートすると誓おう」
「ありがとう、ございます」
ぺこり、と頭を下げるも、やはりいまひとつピンと来ない。理解は追いついたが、今度はそれが現実を遠ざけていた。実際に一部始終を目撃したものの、頭の中ではそんなはずはないと理論を否定しにかかっている。
それは過剰に興奮してしまった本能を理性が落ち着かせようとしている行為だった。安穏とした性格のルリネだからこそ表情には出てこないものの、現実には昨夜の襲撃以来、神経は危機に対する興奮状態にある。パニックに陥らないための防衛機能が、ルリネを異常なまでに鈍感にさせていた。
その様子を理解が及んでいないと判断したのか、キョウカは眉根を寄せて謝罪する。
「説明というのはどうにも苦手だ。すまない、余計に混乱させてしまったようだな」
「あっ、いえ、そんなことないです」
「いや、構わないさ。私たちの使命は、君を守ること――それだけは覚えておいて欲しい。私たちは、君の味方だ」
キョウカの美麗な瞳に浮かぶのは、やはり、決意。ケイもエリナも、皆が同じ目をしてルリネを見つめていたことを思い出す。その光は、恐怖を紛らわすには十分な力強さを秘めていた。
「――はい」
自然と心が軽くなったような気がして、ルリネは口元を緩めた。
そういえば、とルリネは隣で仏頂面を構えているユウトに尋ねる。
「冴島くんの、あの真っ黒なロボットも、えーっと……アニマ、なの?」
「いや、俺は――」
ユウトは口をつぐむ。答えるべき言葉が見つからないように顔を逸らし、その人形のような瞳を宙に無造作に向ける。
「違う」と言葉を引き継いだのは、咎めるような表情のキョウカだった。「冴島ユウトの使用していた、黒い機械……あれはAMIAだ」
「エイ、ミア?」
「私の紫のものも同じだ。人工的なアニマ、それがAMIAだ。私にはアニマが発現することはなかった。だが、代わりにAMIAがある。アニマがなくても、レギオンと戦うことができる」
キョウカは何の臆面もなくシャツのボタンを外す。顕になった真っ白な素肌、その胸の真ん中に、紫水晶の輝きがある。まるで命を持っているかのように、その鉱石は蜃気楼の揺らめきを帯びていた。
「これがAMIAの心臓部分、すなわちコアだ。装着者の肉体と一体化することで、アニマと同等――いや、理論的にはそれ以上の力を発揮することができる」
まだ実験段階だが、と付け加えると、キョウカは剣呑な眼差しをユウトに向ける。
「冴島ユウト、君も持っているはずだ」
「……………………」
ユウトは押し黙ったまま、静かにキョウカの視線を受け止めている。
「しかし、君のAMIAは本来――」
「もう話はいいだろう」
遮るようにユウトは言い放つ。まるで、これ以上話を続けたくないと言わんばかりに。ユウトは、確かに黒い機械――AMIAを操り、ルリネを助けてくれた。それは間違いなかった。しかし、エリナやケイ、キョウカの仲間と呼ぶには不自然だ。彼らの間には深い溝があるように思えた。
どういった原因でその溝が生まれたのか、問いただしたい気持ちも少しはあった。それでも、その話題を忌避するようなユウトの瞳を見てしまうと、喉元まで出掛かっていた言葉は下ってしまう。
「……ふむ」
今度はキョウカがユウトの視線を受け止める番だった。銀縁眼鏡の奥で険しい光を点している怜悧な瞳は、果たして何を思ったのだろうか。沈黙は数秒だったが、ルリネにはその緊張状態がずいぶんと長く感じられた。
緊張の糸を解いたのはキョウカである。
「……分かった、もう終いにしよう」
深々と溜息をついた後、キョウカはルリネに瞳を置いた。
「時間を取らせてしまったな。これからしばらくの間は危険な状態が続く……そのときに備えて、ゆっくりと休んでおくべきだろう」
「あ、はい。色々とありがとうございます」
「なに、私たちは成すべきことを成すまでさ。君は安心して、守られてくれ」
美貌に浮かんだ小さな笑みは、彼女が押し出す自信と相まってルリネに確かな安心を与えてくれた。冷たい女性だという印象をキョウカに抱いていたルリネだったが、実際のところ、この保健教師はなによりも人のためを考えて行動しているのだろう。そう考えると、事務的な口調も頼もしく感じてくる。
「今日は真っ直ぐ帰りなさい。ちょっとしたサプライズが待っているはずだ」
「サプライズ、ですか?」
「まあ、それは見てからのお楽しみだ」
「はあ……それじゃあ、失礼します」
口元に浮かんでいた笑みが、どこか悪戯なものに変わるのを不思議に見つめながらルリネは席を立つ。ユウトもそれに続こうとするが、
「冴島ユウト、君にはもう少しだけ話がある。残っていなさい」
硬質な、有無を言わさない口調だった。
「話は終わりだと――」
苛立ちを隠そうともせず抗議するユウトだったが、何かに思い至ったかのように再び腰を下ろす。二人の間でいかなる無言の会話があったのか分からない。が、あの怪物に関係することであるのは確かだろう。それも、ルリネの立ち入る余地のない。
自分だけ除け者にされているような気がして、釈然としない。それでも、キョウカとユウトの雰囲気はこの場に残り続けることを許してはくれないものだ。
「……じゃあ、私は先に帰ってるね」
「ああ」
ユウトは振り返ることなく答えた。
その背中は、静かな悲しみを堪えているように、ルリネには見えた。
To be continued.