Chapter.2-1
日常
その、境界
「わっ、う、うそ!?」
七時に目覚まし時計をセットしていたはずなのに、起きたときにはもう八時だった。アラームを止めた覚えもないし、そもそも鳴っていた記憶もない。目に見えない小人が悪戯で止めているんじゃないか。そう毎日のように疑うほど、ルリネは朝に弱かった。冴島ユウトと同じアパートに暮らしているにもかかわらず、一緒に登校しないのにはそういう理由があった。できない、と言ったほうが正しいだろう。
ホームルーム開始は八時三〇分。わめいても時間が戻るわけでもないので、朝食は泣く泣く抜いて、急いで身支度をして家を出る。徒歩で一〇分の距離に学校があることが不幸中の幸いだ。教室にはなんとか開始五分前に到着することができた。
息を切らしながら席につく。隣には、普段どおりに外の景色を眺めているユウトの姿。いつもと違うのは、心の壁を張っているかのように話しかけづらい雰囲気を漂わせているところだった。昨日の出来事を思い出すと、どうしても声をかけることを躊躇ってしまうのも確かだった。それでも、日課のようにルリネは勇気を振り絞る。
「お、おはよう冴島くん」
ユウトは、驚いたように目を丸くしてルリネを見つめた。
あまりにもまじまじと凝視されるので、ルリネは気恥ずかしくなる。
「な、なにか変?」
慌てて家を出てきたから、どこかおかしなところがあったのだろうか。頬を染めながら、寝癖は直したはずだけど、と髪に手を当てていると、
「もう話してはもらえないと思っていた」
口元に小さな笑みを浮かべながら、ユウトは言った。その笑顔は、一年前、ルリネを助けたときに彼が浮かべた笑顔――安心した、純粋な笑みと同じだった。
「なんでそんな……」
「あんな姿を見せてしまった。俺が恐くないのか?」
「助けてくれたから。私と、みんなを」
それだけで十分だった。確かに、初めてあの黒い機械――みんなはヴァランディンと呼んでいた――を目にしたとき、その尋常でない殺気に、ルリネが恐怖したことは嘘ではない。しかし、それとは別の感情を抱いたのも事実だ。自分を救ってくれたということに変わりはなく、感謝の気持ちがなくなるわけでもない。単純だな、とルリネは思うが、救ってくれたのが冴島ユウトであったから今でも信用することができる。ひとりの、大切な友人として接することができる。それ以外に、話しかけることに理由など要らなかった。
「……ありがとう」
「えっ?」
今度はルリネが目を丸くする番だった。
「わ、私はなにも――」
してないよ、と続けようとしたところで、チャイムが鳴る。それと同時に疲れた様子でエリナが登校してきた。昨日、戦いを終えたあとルリネに事情を説明する暇もなく、エリナは疲労から昏倒してしまったのだ。無理をしているのは明らかだった。
それでも、エリナは朗らかな笑顔を振りまく。
「おはよう、御堂さん」
「あ、おはよう」
しかし、ユウトに対しては例外だった。つい昨日、同じ場所で好奇の瞳を彼に向けていたエリナだったが、今は打って変わって嫌悪感に溢れた光をその瞳に宿らせていた。
「…………」
「…………」
無言の会話を交わすように、互いに視線を交錯させる。それも一瞬のこと、エリナは顔を背けると、ユウトの後ろの席につく。ユウトもまた、外を眺める。いったい、昨夜の出来事で二人の間にどんな因縁が生まれたのか。いや、もしかするとずっと前から何らかの関わりあいを持っていたのかもしれない。どちらであれ、一朝一夕で片付く話ではないようだった。ルリネが立ち入る余地もない。
彼ら三人の周辺にだけ険悪な空気が漂う。それが教室内に拡散する前に、東地ケイが出席簿を手に入ってきた。昨日は着任式があったこともありスーツ姿だったが、今日は随分とラフな格好だ。
「うーっし、出席取るぞー。相沢ぁー」
名簿を読み上げるケイは、どう見ても学校の教師である。間違っても銃器を振り回すようには見えないし、日常の裏に潜む悪と戦うヒーロー、というイメージもない。むしろそういった現実味のない世界から離れた、世間から注目を浴びるスターという感覚がある。モデルにでもなっていれば、相当有名になっていたに違いない。
だが、彼もまた九条エリナや冴島ユウトと同じ、一般に知れ渡っていない世界に通じる人間だ。どういうわけか手品のように銃を取り出せるし、奇妙な生き物たちにも動じることなく戦っていた。日常からかけ離れた場所に慣れていた様子だ。
ルリネは、自身の置かれた状況を少しずつだが理解し始めていた。気味の悪い生物が、なぜか自分の命を狙っていて、さらに自分を助けてくれる人間がいる。しかもその事実を、大半の人々は知らないし、クラスの様子を見る限り知ることもないらしい。これまでの「日常的な生活」とは全く異なる世界に引き込まれてしまったようだ。
命が危ない、と聞いて恐怖を感じないほどルリネは強いわけではない。状況があまりにも日常に追いついていないために、まだ実感として納得できないのだった。昨日の出来事がなければ、ケイに対する認識はずっと「女子に好かれそうな教師」のままだったし、今でもそのイメージは強く定着したまま。銃を持って怪物と戦う姿は想像できない。ルリネを取りまく日常の生活が、危険に対する彼女の認識を希薄なものにしていた。
あるいは、それでよかったのかもしれない。自分が死ぬかもしれないという状況に置かれて、正気を保っていられる人間が、果たしてどれほどいるのだろうか。戦場に立つ兵士ではなく、命に関わるほど危険な職業に就いているわけでもない。世間の人々が送っているのと同じ、普段から死を意識することのない生活を送っていた。そんな無力な少女が、突然命を天秤にかけるような環境に移されても、自分の無力を嘆く以外に道はない。どんなに不条理だと神に訴えても、救いの手を差し伸べてくれる神はいない。
悲劇的な状況下にあってなお、ルリネが自己を保っていられるのは、ひとえに普段どおりの生活、日常が彼女の傍にあるからだ。学校に行くとユウトが隣の席にいる。時間になるとホームルームが始まる。それだけ、たったそれだけのことが、ルリネの大きな支えになっていた。決して夢物語ではない。かといって、影のように死が常に付きまとっているわけでもない。危険を忘却させる空間、それが彼女にとっての日常だった。
「今日は入学式だが、知ってのとおり在校生は授業だ。生徒会に入ってるやつは抜けるみたいだが、まあうちのクラスに生徒会メンバーはいないし、関係ない話だな。んじゃ、真面目に授業を受けるように!」
若干のブーイングが起きつつ、ホームルームが終わる。
そのままケイが退出しようとしたところで、
「あー、忘れるところだった。御堂、冴島」
手にした出席簿でルリネを指し、昨日の騒ぎなど知る由もない、といった平然な調子で言った。
「はいっ」
「今日の放課後、二人は保健室に顔を出してくれ。俺も詳しくは聞かされてないんだが、何かの検査があるらしい」
「検査、ですか……?」
「ああ。今日は別に帰宅しなきゃならん用事はないだろ?」
「ないです、けど」
「よかったよかった。じゃ、忘れるなよ」
ひらひらと手を振って、ケイは去っていった。
保健室。新任の保健教師は、昨日の戦いで紫色の機械を操っていた女性のはずだ。自分だけでなく、ユウトも呼ばれたということは、呼び出された理由が容易に想像できる。ようやく、詳しく事情が説明されるのだろう。
ぎりっ、と隣で歯軋りが聞こえた気がした。
To be continued.