Chapter.1-5
黒き獣、その雄叫びは、まるで慟哭に似て――
「……随分と、シンプルなヤツだな」
ケイの指摘は的を射ていた。
新手は人の姿をしていた。背丈は長身であるケイと同等ぐらいか。上半身はその鍛えあげられた筋肉を誇示するかのように一絹も纏っていない。下半身には襤褸のようなズボンを穿いてはいるが、その足は爬虫類のものだ。がっしりと地面を掴むように踏みしめているつま先には大きな爪があり、鋭い輝きが殺気を帯びている。その様は太古の肉食恐竜を髣髴とさせる。さらに両手に構えているのは身の丈ほどの長大さを誇る肉切り包丁。血にまみれた刃は使い物にならないようだが、逆に言えばそれほど多くの肉を切り刻んだ証といえよう。
だが、なによりも一同の視線を釘付けにするのは、首から上の空間――無だ。そこにあるべき頭部はなく、悲愴な切断面がグロテスクな虚となっているだけだった。
首から上をいつ失ったのか、どのように失ったのか。それを覚えている脳さえ手放してしまったまま、死が迎えに来るまで延々と首を捜し続ける哀れな獣――首狩蜥蜴。
そして、その足元で潰れているのは、駆逐したはずの妖蟲人だ。
「まさか……!」
エリナの中で、恐ろしい推論が立ち上がった。それを実証するように、新たな妖蟲人が一匹、どこからともなく飛来し、首狩蜥蜴に踏み潰される。
そう、足場だ。首狩蜥蜴の視覚と聴覚を補うために、妖蟲人が犠牲となって獲物への道標となっているのだ。また一匹、さらに一匹と、妖蟲人は命を捧げて足場と化していく。そして、
「まずい、キョウカ!」
『分かっている!』
キョウカの駆るスティンガーが高機動モードにプログラムを移行した直後、首狩蜥蜴は達する。エリナが己の力すべてを注ぎこんで、妖蟲人の渦と交戦した地点へ。無数の残骸が散乱する地点へ。緑の液体が、小川のようにターゲットの少女へと続く地点へ。
獣は走り出す。両手に肉切り包丁を引っさげて。小人の骸を轍にして、獰猛な雄叫びを、無音の怒り声を上げながら。
『行かせるかッ!』
スティンガーがアスファルトを蹴る。単分子刺突剣を繰り出し、首狩蜥蜴の肩口を狙う。相手にこちらの姿は見えないはずだ。存在を感知されなければ、躱せる道理がない。
『くっ――』
キョウカの目論見は間違っていなかった。だが、招いた結果は意想外のものだ。細身の切っ先は確かに肩に直撃した。しただけで、貫通には至らない。弾力のある表皮が衝撃を吸収しているのか、それとも皮膚が単分子の剣穿に耐え切れるほど堅固なのか。どちらにせよ、大したダメージにはならないようだ。
目前に敵がいると認識した首狩蜥蜴は反射的に得物を振るう。大振りな動きは力任せで、咄嗟に受け止めたキョウカは、スティンガーの出力を以ってしても体勢を崩してしまう。適当に見える首狩蜥蜴の太刀筋は非常に対処しづらい。何とか身を躱しながら単分子刺突剣を打ち込むも、下手に刺激を与えるだけで決定打にはならない。いくら切り結んでも一向に勝負は決さず、このままではどちらかの体力が尽きるまでの持久戦となる。
しかし――事態は悪化する。
スティンガーが新たな敵影を捉える。一体目と同じ方向から、もう一体の首狩蜥蜴が迫ってきていた。二体同時に相手をするのは厳しい。かといって、ケイに相手をさせれば御堂ルリネの守りも手薄になる。だが、逡巡する暇はない。
ところが、ここで予想外の展開が繰り広げられる――新たな首狩蜥蜴は、進路上にいた同族を敵だと判断し、斬りかかったのだ。とはいえ相手は強固な皮膚を持つ。弾かれた包丁を、反動を利用して再び振るう。斬りかかられた首狩蜥蜴も同様に包丁を薙ぎ、互いが互いの身を狙い始めた。好都合だ、と思うのも束の間、鍔迫り合いに陥った二体はその動きをぴたりと止め、
『なにっ!?』
一体を足場に、もう一体がキョウカを飛び越えていったのだ。どこかで意志の疎通を図ったに違いない、一方はキョウカを引き受け、もう一方はターゲットを――御堂ルリネを任せられたのである。
「畜生、毎回毎回ワケの分からん動きをしやがって!」
悪態をつく間にも敵は迫っていた。ネゴシエイターが産み出した二丁の大型拳銃で迎撃するが、エネルギー弾の直撃を受けてもその足は止まらない。怯みながらも邁進を続けている。
「私が止めてみせる……!」
ホワイトスネアがワイヤーを放つ。相手前方、足元めがけて設置。首狩蜥蜴はバランスを崩して転倒し、そこにさらにワイヤーが射出される。が、渾身の能力も疲弊した体では効力を最大限に発揮できない。いくらワイヤーを重ねようと、蜘蛛の巣を取り払うように掻き消される。
エリナが応戦する間に、ケイは機関砲を準備していた。先ほど使用していたものより巨大なタイプで、両腕で抱えるように持ち、鎌首からスコールのごとく弾丸を撃ち放つ。さすがの首狩蜥蜴も身を起こすのが精一杯で、その身体に降り注ぐエネルギーの嵐を受け止めている。
「俺だってたまには活躍――うおっ!」
得意げにガトリングをぶっ放すケイの顔が、一瞬で焦りに変わる。驚異的な方向感覚で、首狩蜥蜴が肉切り包丁を投擲してきたのだ。かろうじて身をかがめるが、砲身に肉切り包丁が直撃し、エネルギーの塊といえる機関砲が火を噴き上げる。
銃撃が止んだのを好機と見たか、首狩蜥蜴は無い視線をルリネに向け、片割れだけとなった肉切り包丁を振り上げ、突撃する。
「くうう……っ!」
エリナは極限まで精神を集中させ、五度目となるワイヤーネットの形成を試みる。完成したのは小型の、密度の低いネットだ。例えそれが最後の抵抗であろうとも、諦めるわけにはいかなかった。理屈ではない、ただ生きようとする意志――守ろうとする意志だけが、今のエリナを支える原動力のすべてだった。
「九条さん……」
「うううううあああああああああああああっ!!」
凄絶な、悲鳴のような絶叫が迸る。ネットに接触した敵の力は、邪魔な壁を打ち破るには十分だった。それでもエリナのネットは散らない。それは執念の固まりだ。ホワイトスネアを用い、守るべき人を守る。それだけがエリナの生きる意味であり、存在する理由。
だから、ここで負けるわけにはいかない――!
魂の叫び。
少女の悲痛な願いは、天高く響き渡り、
「なん、で――」
斬り刻まれる。
肉切り包丁は、無慈悲に、残虐に、少女の最後のプライドを惨殺した。
ターゲットと化け物の間に、障害は残されていない。血に飢えた錆色の包丁が高々と振り上げられ、脱力しきったエリナと彼女を支えるルリネに向けて、振り下ろされる。
凶刃を前に――何をしているんだろう、とエリナは走馬灯のように思う。
幼い頃から、彼女には人と違う能力が使えた。そのせいで、他人はおろか家族さえもエリナを忌み嫌い、世間との交わりを控えさせていた。だから友人と呼べる存在も居らず、東地ケイや香曽我部キョウカといった自分を理解してくれる人と会うまでは、誰かとまともな会話をすることも許されていなかった。
だから、彼女は守ると決意した。自分がホワイトスネアを授かったのには理由がある。いや、自分こそが理由なのだ。その力で守ることのできる存在がいる。その力で打倒できる存在がある。ゆえに、彼女は生き、戦い、守ることを選んだ。
その結果がこれだ。自分が守るはずだった少女は、立っていることさえできなくなったエリナを後ろから支え、逃げることもせず共に死を目前にしていた。なんて不甲斐ない。ホワイトスネアとは、アニマとは、九条エリナとは何だったのか。生きる意味さえ果たすことのできないまま、こうして惨めに死ぬのか。
嫌だな……とエリナは思う。
自分は御堂ルリネを利用していた。それを謝ることのできないままなんて、とてつもなく嫌だ、と。
赤い光が舞い降りたとき、エリナは自己の死を幻視した。
あるいは、天使が遣わされてきたのか。
そのどちらでもないと思い知るとき、エリナの意識は現実に引き戻される。
熱風――尋常ではない熱さ。とぐろを巻いた灼熱が目に見えるようだった。
そして、轟音。
記憶がフラッシュバックし、脳裏に一年前の出来事が蘇る。
「あ、あ――」
自然と声が零れていた。
エリナは、エリナとルリネは、まだ生きている。その命を奪おうとしていた首狩蜥蜴は前方で天を仰ぐように倒れていた。
そして、エリナの目の前に立ちはだかる、漆黒の、鋼の身体。
その輝きは深淵のごとく、その形相は悪鬼のごとし。
黒いボディは荒々しさを体現したように、各所に鋭い起伏がある。胸部から全身の至るところにまで、血管のように広がる真紅のラインは煌々と輝いていた。意志を動力源とするジェネレーターは、胸の中央に一基、両手の甲にそれぞれ一基、背中に二基備わっている。さらに、燃え盛る炎獄のように激しい熱を放出するラジエーターは、上腕部と大腿部、背面部、そして両頬にあり、放熱が局所的な蜃気楼を演出している。その有様は呼気のようだった。全身の至るところに、竜の顎でもあるかのような。
AMIA‐GE04CX――コードネーム・ヴァランディン。
かつての装着者が死亡して以来、行方が不明となっていたAMIA。
「やっぱり、あなたが……」
エリナの呟きに、黒のAMIAは肩越しの視線を――X字のセンサーアイを向ける。そこに揺らめいているのは、人間のそれとは全く質の異なる憎悪だ。あらゆる敵を憎み、殲滅し、細胞の一片も残さず消滅させようという圧倒的な意志。エリナは恐惶を禁じえない。
『……………………』
ヴァランディンは無言のまま、前方の首狩蜥蜴に視線を戻す。
吹き飛ばされた首狩蜥蜴は何事もなかったように立ち上がると、再びターゲットに向けて進攻を始める――が、またもや衝撃に翻弄され、同じように平伏す。
掌だ。敵に向けたヴァランディンの掌から閃光が迸るのと同時に、空間を歪曲させるほどの衝撃波が放出され、首狩蜥蜴の体を紙切れのように弾き飛ばしていた。そのエネルギー量はケイのネゴシエイターを上回り、キョウカのスティンガーまでも圧倒している。どうやら両手に備わっているジェネレーターがそれぞれの掌にエネルギーを供給しているようだ。
ヴァランディンが首狩蜥蜴に飛び掛り、超重量が半裸の上に馬乗りになる。アスファルトが陥没。当て推量に振るわれた肉切り包丁を、ヴァランディンは飛び散る火花も気にかけず鋼の掌で受け止める。もう一方の掌底を、包丁を握る腕にあてがうと、刹那の間に閃光が瞬く。首狩蜥蜴の腕は、至近距離の衝撃波で破砕された。
ヴァランディンは止まらない。掴んでいる肉切り包丁を奪い取る。それを、組み敷いている首狩蜥蜴の胸に力の限り突き立てる。強靭な皮膚に拒まれようと、さらに、加減などなく力を込めてゆく。
『おおおおおおおおおおおっ!』
響き渡った装着者の怒号は、もはや猛り狂う獣のそれだ。声に同調して、背面のジェネレーター二基が発光を激しくし、肉切り包丁の切っ先が、じわじわと胸に食い込んで、
「いや……」
堪え切れなかったのだろう、目を逸らしたルリネの前で血しぶきが巻き起こる。骨と肉とが引き裂かれ、打ち砕かれていく。包丁は首狩蜥蜴の胸の奥へ、奥へと、噴水のように鮮血を吹き上げながら進んでゆく。それを食い止めようと、首狩蜥蜴は残ったもう一方の腕で包丁を掴む。だが、それも悪あがきに過ぎない。必死にもがき足掻く全身からは、流血と同時に力も失われてゆき、やがて骸へと果てていった。人間の身長ほどの長さを誇る包丁は、その半分以上が地面の中に埋まっていた。
虐殺を終えたばかりのヴァランディンは、さらなる敵を求めてX字の容貌を前方に送る。血の色をしたセンサーアイが捉えたのは、未だに死闘を続けるスティンガーの姿。獲物を前にした獣が歓喜に打ち震えて吐息を吐き出すように、顔の両側にあるラジエーターが熱気を放出する。ケイやエリナが止める暇もなく、ヴァランディンは鋼鉄の躯体を進めていた。
キョウカは滅多矢鱈に繰り出される一対の包丁に苦闘を続けていた。受け止めるにはスティンガーの出力では不十分だ。弾かれてしまえば隙が生まれる。回避に徹し、好機を窺うしかなかった。
『――なんだ?』
そのセンサーに反応がある――背後から迫る存在が、眼前の敵よりも危険だとスティンガーは告げる。回避行動の指示が脳にダイレクトに伝わり、キョウカは体を旋回させ――
戦慄。
黒い機体は、記憶にある姿よりも禍々しい。それが敵勢力だと告げられれば、疑うことなく交戦の判断をしていたに違いない。
『ヴァランディン……!』
『下がれ』
邪魔だ、と言外に匂わせるように低く吐き捨てると、ヴァランディンは掌を突き出す。衝撃波の放射、吹き飛ぶ首なしの肢体。絶句する香曽我部キョウカ。
追撃は続く。首狩蜥蜴が墜落するのを待たず、さらに衝撃波を放ち、成すすべのない敵を翻弄する。一度では終わらない。着地の余裕も与えられず、延々と宙で四肢を振り乱す姿は竜巻に翻弄される無力な小動物のようだった。そのまま大通りに達した首狩蜥蜴は、無人のファーストフード店の壁面に叩きつけられる。そこへ執拗に衝撃波の追い討ちをかける。壁面もろとも首狩蜥蜴の全身は砕かれようとしていた。
その間にも黒い悪夢は歩みを止めなかった。全身から放熱を続けながら、ヴァランディンは二振りの包丁を奪い取り、皮膚の裂傷を斬り刻む。まさに調理するように、皮を削ぎ、肉を削り、骨を割っていった。首狩蜥蜴がとうに絶命した後も、包丁の動きはしばらく止まらなかった。
■
『もう止せ。死んでいる』
キョウカは黒い腕を掴み、過ぎた殺戮を止める。スティンガーの装甲に焼け付くような熱が走る。ヴァランディンは、いつオーバーヒートを起こしてもおかしくない状態だった。
『やり過ぎだ、ヴァランディン……彼女が怯えている』
『……………………』
真紅のX字が、ケイとエリナ、そして恐怖を孕んだ瞳でこちらを見つめるルリネに向けられる。ルリネは体力の尽きたエリナに肩を貸しながら、ヴァランディンと十分な距離を置いて佇立していた。これ以上近づきたくない、と無垢な瞳は語っているようだ。ヴァランディンの装着者にはそう見えた。
彼女の姿を見つめるヴァランディンには、殺気も憎悪も狂気も、ましてや勝利の陶酔さえもない。敵と対峙していたときの獣じみた覇気は、元からそんなものなどなかったように消え去り、代わりにただ深い悲しみだけが漆黒の身体から滲み出ていた。
ルリネの視線に耐え兼ねたように、ヴァランディンはその場を去ろうと踵を返す。だが、
『待ちなさい』
スティンガーは単分子刺突剣を向けて呼び止める。
『君には聞きたいことが山のようにある。逃がすわけにはいかない』
『……………………』
黒は黙す。
『私たちに協力する気があるのか? 私たちと共闘し、彼女を守る気が、君にあるのか?』
『……………………』
『先ほどの戦い……あれはまるで私怨だ。君は、AMIAを濫用しかねない。装着者として不適切だ。君を危険だと判断した場合、AMIAを剥奪する義務が私にはある』
『……………………』
重なる問いかけにも反応を示さないヴァランディンに、キョウカは次第に焦燥を覚える。
『――加えて、君には不可解な点が多すぎる。訓練を受けたわけでもなく、我々の機関にも属していない君が、そこまでAMIAを――ヴァランディンを使いこなせる理由が分からない。君は脅威となりうる。私たちに協力しないというのならば、実力行使もやむを得ない』
『……奪う気か』
そこで初めて、ヴァランディンの装着者は、小さく呟いた。
『そうだ。君が私たちの敵となるのであれば』
『……俺から、力を奪う気か。ようやく手に入れた力を、お前は奪うというのか』
ヴァランディンの装甲が格納される。胸部の紅玉色のコアへと。
その装着者が、四人の前で姿を顕にする。
無表情は硬質な怒りを湛え、人形のような瞳はありのままに情景を映していた。
「……どうして」
ルリネは、驚愕に声を失う。
漆黒のAMIA、コードネーム・ヴァランディンの装着者、その名は。
「これは渡さない。俺の、俺だけの、力だ」
冴島ユウトは、胸に光る赤色を、狂おしそうに掴んでいた。
Chapter.1 "Broken Pieces__2012.04.09" End.
章タイトルは、Apocalyptica 7thアルバム "7th Symphony" 収録、"Broken Pieces" より。