Chapter.1-4
軍団、襲来
獣の慟哭は、近い
「それじゃ、また明日ね」
「あ、うん……」
寂しそうな微笑。
決して騙していたわけではないけれど――九条エリナは心中で苦しい言い訳を重ねる。こちらを見送る健気な視線を背中に感じて、エリナは振り向くことができなかった。
御堂ルリネと冴島ユウトの住むアパートから一〇メートルほど離れたところで、彼女は携帯端末を取り出した。しかし、その端末は先ほどルリネとアドレスを交換したタイプのものとは別の機種だ。それも、市販品と同じであるのは外見だけで、中身はまったくの別物となっている。特定回線のみが使用できる無線機のようなものだった。
操作してしばらくの発信音の後、聞こえてきたのは男の――成人男性の声である。
『おう、どうだった、エリナ? 少しは馴染めたか?』
「冴島ユウトと接触したわ。彼のアパートまで行ったんだけど……それ以上は無理ね」
『ちょっ、無理ってお前……』
電話の向こうで、男ががっくりと肩を落としたのが想像できた。
「何?」
『今朝の教室といい、ちょっと焦りすぎじゃないか? 知り合っていきなり家訪ねるって、そりゃほとんどストーカーの域だぞ』
「しっ、失礼ね、ちゃんと一緒に帰ったわよ! 仕方ないじゃないの……それに、彼が“あれ”を悪用していないかどうか、すぐにでも見極める必要があったわ。早いに越したことはない、でしょう?」
『そりゃそうだけどな、物事には段取りってもんが……』
「その段取りとやらを、あなたは教えてくれなかったわ」
『俺だって忙しかったんだ、まさか担任になるとは思ってもみなかったぞ』
「もともと教師になるって時点で、忙しくなることは分かってたじゃないの」
『予想以上だったんだよ、生徒の進路希望調査とか、三者面談の予定とか……』
「分かったわ、もうこの話は止めましょう。埒が明かないわ」
いつまでたっても責任転嫁が続くような気がする。さっさと結果を報告した方がいいだろう。
「それで、冴島ユウトがAMIAを使用したのかどうかの話なんだけど」
『――ああ』
男の声が明らかに変わる。彼にとっても、エリナにとっても、そして冴島ユウトにとっても重大な話だ。彼らが苦労してユウトの居場所を突き止めたのも、すべてAMIAを――秘密裏に開発された特殊兵器を悪用しているのかどうか、その一点を調査するためなのだ。
そしてもしユウトを悪だと判断せざるを得ない場合――エリナたちは、ユウトを止めるためならば武力の行使も辞さない構えだった。
「もしかしたら、一般人を相手に使用している可能性があるわ」
『そいつぁ、穏やかなじゃないな』
男の声がさらに険を帯びる。
「まだ確信はないけれど……ねぇ、一人の少年が、大人三人相手に勝てると思う?」
『どういう意味だ?』
「いいから考えて。高校生の少年が、不良の大人三人相手に喧嘩をしたとして」
『そりゃあ難しいだろ。というか、俺がその状況だったら真っ先に逃げるな。まともに武術かなんか齧っていたとしても、そんな状況なんか御免だな』
「そうでしょうね……」
男も自分と同じ考えらしい。やはり、冴島ユウトはAMIAを不当に利用したのか――
『で? その話がどう関係するんだ?』
「それが――」
ノイズと共にもう一人の声が割って入ったのはそのときだ。三者同時通話は緊急時以外には使用されることのない機能である。
《エリナ、近くに波動関数が増幅している人物がいる! さっきのアパートの住人だ!》
切羽詰った女声が告げた内容に、エリナは心臓を激しく鼓動させた。
女の言葉が暗示する悪夢――狩が始まる。
不条理な、逃れることのできない戦いが。
「どの部屋か特定はできませんか!?」
《やっている――だが間に合わない! ヤツらが先にやってくる!》
「くっ――!」
やってきた道を逆走する。とにかく急がなければ。あの忌まわしい化け物共が誰かを襲う前に、自分が保護しなければならない。
しかし、アパートの一階から確かめていては、果たして間に合うかどうか分かったものではない。エリナより先に化け物がターゲットを見つけた場合、最悪の事態に陥ってしまう。なんとしても、それだけは防がなければならない。
《私もすぐに出る。五分以内にそちらに着く、それまで持ちこたえてくれ!》
「――っ了解!」
『おいおい最悪のタイミングだな……』
《毒を吐く暇があったらさっさと向かえ、ケイ!》
『やってるって! 走ってるって!』
焦燥が喉の奥から迫りあがってくる。もしかしたら。ひょっとして。狙われているのは、御堂ルリネではないだろうか。その危機感を一度抱いてしまうと、もう頭から追いやることはできない。
明日会うと約束した。それを破るわけにはいかない。絶対に。自分は彼女を半ば欺くようにして、冴島ユウトの情報を聞き出した。必要なことといえ、ルリネを利用してしまった。彼女の心からの感情を弄ぶようなことをしてしまった。儚いルリネの表情が脳裏に浮かぶ。
いや、ルリネじゃない。きっと違う。偶然にしてはできすぎている。ターゲットは他の住人に違いない。だからといって喜べるものではないが、動揺しきった心を叱咤するにはそう思い込むしかなかった。
アパートの一階を見回る。どの部屋のインターホンも反応しない。壊れているのではない、それはインターホンを模した単なるオブジェに過ぎないためだ。既に空間は化け物共の「狩場」に摩り替わっていた。激しく扉をノックして住人の反応を確かめるが、手ごたえはない。一階の部屋にはターゲットはいないようだ。
狩の時間が迫っていた。急いで階段を駆け上り、二階の部屋を見回ろうとして、
「っあ――」
ひとつのドアが開く。エリナの意識が揺らぐ。
困り果てた表情のルリネが、部屋からひょっこりと現れた。
「え――?」
眼鏡の少女は面を食らったように一時停止する。帰ったはずのエリナが部屋の前にいたことよりも、その表情があまりにも鬼気迫ったものであるためだろう。
「御堂さん、本当に、あなたが――?」
いくら目を見張ったところで、幻覚ではないルリネの姿は消えない。
心の奥底から絶望が湧き上がり、全身を支配しようとしていた。
それを後押しするように、
ゴォォ――――――――ン…………
遠くから、獣の咆哮のように轟き渡る金属音。
鐘の音――始まりを告げる音――命を賭した戦いの暁音。
「なに……?」
音の発せられた方向へ顔を向けるルリネ。それは遥か彼方、地平線に沈みつつある紅の輝きから直に放たれたような、途方もない重量感を持っていた。
「来て!」
有無を言わさない勢いでルリネの手を掴むと、エリナはそのまま駆け出した。
ルリネの脳裏に明滅するデジャヴ――青年たちから自分を救ってくれた冴島ユウト。
ゴォォ――――――――ン……
二度目の咆哮――前よりもずっと近く――圧迫感と共に。
「九条、さん……! いったいっ、どうしたの……!?」
強引に手を引かれるルリネは息も切れ切れだ。
「ごめんなさい、今はついてきて!」
とにかく走る。開けた場所へ出てはならない。エリナの力、敵に対抗するための武力は、広大な範囲をカバーするには不向きだ。狭い通路に構える方が戦略的に最も効果的だろう。じきに彼女の仲間も駆けつける。それまで、どんな手段を使っても御堂ルリネを守り抜かなければならない。
エリナの脳裏で暗転するデジャヴ――初めて戦いに参加したとき、何もできなかった自分の姿。
ゴォォ――――――――ン
三度目の咆哮――彼女たちのすぐ近く――まるで耳元で鳴らされた警鐘のよう。
戦いを定める音。今回の死闘が、三度にわたって繰り広げられることを暗示する音。
すなわち、開戦の宣告だった。
「……な、なにか変な音が……!」
必死に足を動かしながらルリネが訴える。
エリナの耳にもそれは届いていた。風に吹かれた木々のざわめきによく似た、乾いた葉が擦れ合うような音。だが、次第に音量が増してゆくとともに印象が変わってくる。羽ばたきだ。羽虫がその薄い羽をしきりに動かして、小さな体を飛行させる音。さらに、それとは別に聞こえるのは、囁くような無数の声。
「ひゃっ!」
ルリネが突如その足を止める。
彼女の目の前に、現実にはいるはずのない生物が浮遊していたからだった。背中から生えた四枚の羽と、愛くるしい顔立ち、そして一糸纏わぬ姿は、まさしく絵本の中から飛び出てきたような妖精そのものだった。
「えっ、なに、これ……」
夢心地で、ルリネは茫然とその妖精を見つめる。心まで洗われるコーラスでも歌うかのように小さな口元が開くと、真っ赤な、あまりにも真っ赤な口腔が晒されて、
「キィィィィィィィィィィィィィィッ!」
「うっ――!?」
脳に直接響くほどの高音に、ルリネは思わず耳を塞ぐ。だが、まるきり効果がない。じわじわと頭痛が襲い掛かってきたところで、突然、妖精の金切り声に終止符が打たれた。目の前でその華奢な体が爆竹のように破裂したのだ。
「きゃ――」
顔を庇った腕に付着したのは赤い血液などではない。緑色のべっとりとした液体と、芋虫のような生物だった。
「な、な――」
連続する理解を超えた出来事に、ルリネは絶句するほかにない。
「御堂さん、大丈夫!?」
顔にまで飛び散った緑の液体を拭うエリナの手には、いつの間にか純白のグローブがはめられていた。その指先から蜘蛛の糸のようなワイヤーが垂れると、液体を絡め取っていく。液体は無臭だったが、何かしらの毒素がないとも限らない。放っておくのはまずい。そう判断した末の行動だった。
「そのグローブは……?」
「これはホワイトスネア。安心して、顔に付いた汚れは全部落としたから」
「ホワイト……?」
疑問符を浮かべるルリネの前で、エリナは指先から束のように垂れているワイヤーごと、それに付着した液体と、幼虫のような生物を足元に切り落とした。
「ね、ねぇ、一体何が起こってるの? 今の妖精みたいな生き物は? それと、ホワイト、なんとかって――」
「しっ、少し静かにして」
疑問を弾丸のように吐き出すルリネの口元に真っ白な指を当てると、エリナは警戒した視線を周囲にめぐらせる。その横顔には、昼間のような爛漫とした陽気さはない。
感覚を鋭敏に――次に何が起こるのか、五感を総動員させて早急な感知を計る。それと同時に、敵の行動を省みて、どのように出てくるのか予測を立てる。
敵の狙いは目の前の少女、御堂ルリネだ。彼女の命を奪うまで敵はどこまでも、予想もつかない方法で襲い掛かってくる。今の妖精は、一見小さな人間のようだったが、中身は全くの別物だ。虫の幼虫が人の皮を被っているに過ぎない。だが、エリナの能力――ホワイトスネアが妖精もどきを捉える前に自爆したということは、その自爆こそが目的だったと考えるのが妥当だ。自爆によって、尖兵としての何らかの役割を果たしたのだろう。では、その役割とは何か。次の行動の、どのような布石となっているのか。
「まさか――!」
妖精もどきが撒き散らした緑色の液体と、甲高い断末魔。これが意味するものは。
「御堂さん、走って!」
「え、ちょっ――」
再びルリネの手を取り疾走する。だが、あれほど遠く聞こえていた無数の羽音が、かなり近くなっている。もはや、今となっては騒音と変わりないほどに。
「追いつかれた!」
振り返ったエリナの顔が、濃い絶望の色に彩られる。
空の彼方、焼け付くような紅から暗紫色へと移り変わってゆく天幕に、影絵のように蠢く灰色の竜巻があった。羽音の坩堝。とめどなく溢れ出す水流のごとく、有象無象が押し寄せる。
それは、妖蟲人の大群。
圧倒的な数もさることながら、その怒涛の速度と勢いは見たものを戦慄させる。走って逃げたのでは一分ももたずに追いつかれるだろう。
ゆえに、エリナはその場での戦闘行為を選択した。
「御堂さん、絶対に私の後ろから離れないで」
「う、うん」
ルリネはかろうじて返事だけを返しているものの、状況は到底理解できていないだろう。だが、今は説明するよりもこの窮地を切り抜けることが先決だ。幸いなことに両側は一〇メートルほどの高さのマンション、そして妖蟲人は高度を落とし、道路を這うように低空飛行しながら接近している。分はこちらにある。
「今度こそは、私が――!」
意識を、戦闘意欲を、魂からの叫びを両手に集中させる。掌と一体になった白いグローブを薙ぎ払う。横に、斜めに、縦に。連続。反復。激しいダンスが紡ぎ出したのは、極微細なワイヤーのネットだ。蜘蛛の巣よりも細かく、そして強靭な。マンションの壁面と空中に固定され、迫り来る妖蟲人どもを迎えうつ。
――衝突――
妖蟲人の大群がネットに打ちつけられる。そのたびに人間の手足が舞い、羽が散り、緑色の液体がぶち撒けられる。人の皮を被っていた芋虫は細切れになり、無残な死骸を晒す。
シュレッダーに突進する小人。まさしく特攻だった。
だが、ネットの耐久度にも限界がある。妖蟲人の突撃を受け止めるうち、ネットを構成するワイヤーが断裂を始める。次第にネットには間隙が生じるようになり、そこから飛び出てくる妖蟲人がいる。
「まだ、いけるっ!」
再び、過激なダンス。新たなネットが手前に構築され、死に切れなかった妖蟲人はここで安らかな闇を迎える。
――明らかにおかしい、とエリナは唇を噛み締める。妖蟲人の数は、減るどころかますます増えている。ネットの上を飛び越えて直接襲ってきてもおかしくない。それなのに、まるで自分から死に向かっているように見える。
だが、迷っている暇はなかった。妖蟲人の勢いはもはや止めることも難しく、ミキサーにかけるように緑の液体が散乱する。前方のネットはついに限界を迎えて破断し、群体は第二のネットへと殺到する。
「このままじゃ突破される……!」
ワイヤー一本の生成ならともかく、ネットの構築と維持には精神に相当な負担がかかる。エリナの額には汗が滲み出て、前方に突き出した両手は痙攣を始めていた。
「九条さん――」
背中から聞こえてくる、不安に満ちた呟き。
ここで自分が引き下がるわけにはいかない。ルリネを守れるのは自分だけだ。敵の行動が何を意味していようと、この局面だけは切り抜けなければならない。たとえ命を懸けることになろうとも。そこにあるのは理由ではない。暗黙の了解とも呼べる義務だ。あえて言うならば、理由を必要としないからこそ彼女はホワイトスネアを――アニマと呼ばれる力を発揮することができる。かつては憎んだ自分の身体。人生を破滅に追いやるものとばかり思い込んでいたものが、生きる光明となって今のエリナを支えている。だからこそ、戦う。生きるために。自分が自分であることを証明するように。それこそが、ホワイトスネアを操る九条エリナの信条となっていた。
そして、その力を振るうべきは、不条理な狩りを楽しむ化け物に対してのみ。
九条エリナは己の限界に挑む。
さらに第三のネットを形成し、滂沱と溢れる妖蟲人をせき止める。そして間断なく第四のネットを産み出す。それは今やエリナの目前にまで迫っていた。第四のネットを突破されれば、妖蟲人の渦に巻き込まれる。これ以上の生成は不可能――これが最終防衛線だ。
連続したネット形成により息切れが激しい。たまらず膝が折れてしまうのと同時に、第二のネットが限界を向かえ、決壊する。妖蟲人どもは挑戦を受けて立たんと言わんばかりにネットへの特攻を繰り返す。降り注ぐ緑の液体は驟雨に等しい。激しさは留まるところを知らず、第三のネットもまもなく限界に達した。
最終防衛線、第四のネットにたどり着く妖蟲人の渦。ここからが正念場だ。ネットの維持にいつまで精神を集中させることができるのか。最大でも一分ほどだろうが、とにかく一秒でも長く、化け物の群れを押し留める。
膝は震えて使い物にならない。座り込んだまま、決意を両手に集中させ、
「そん、な――」
舞い上がる妖蟲人の群れ。第四のネットを突き破ろうとせず、突如高度を上げて空から二人めがけて急降下してくる。まさか、こちらが消耗しきるタイミングを見計らったとでもいうのだろうか。咄嗟に、できうる限りのワイヤーを射出するが、体力と集中力の消耗、そして何より敗北感がエリナの心を支配している今、ワイヤーは絹糸よりも脆い。顎をかっと開いて獲物を飲み込もうとする龍の前では、足止めにもならないほど貧弱だ。奔流と化した妖蟲人に、二人は飲み込まれるかに思えた。
「伏せろ!」
男の怒号と共に、ルリネが何かに覆われる。その場に滑り込んできたのは、両腕に小型の機関砲を抱えたスーツ姿の男――東地ケイだ。砲口を軽々と上に向けると、機関砲から暴風雨のようにエネルギー弾が発射される。妖蟲人の渦とケイのガトリング砲、力は拮抗していた。残骸と化した手足や愛くるしい顔、芋虫に緑の液体が、死に巻き込まれて一緒くたに降り散ってゆく。それを全身で受け止めながらも、ケイの機関砲斉射は止まらない。
さらに、上空から妖蟲人の渦を斬り崩す者がいる。紫水晶の輝きを全身に湛えた機甲兵器AMIA――コードネーム・スティンガー。両手に構えたレイピアのごときエネルギーブレードで、縦横無尽に小人どもを斬り伏せる。抵抗なく、流れるように剣閃は死を描く。
無限に湧いて出ると思われた妖蟲人も、新たな二人の力によって徐々に数を減らしていった。辺りにはゴミ溜めのように死骸が折り重なり、地獄の様相を呈している。緑の液体は水溜りのように広がり、死と嫌悪感が残響していた。
掃討に要した時間は、一分にも満たなかった。
「――っぶはぁ! 死ぬかと思ったぞ……」
顔全体を緑色に染めながら、息を止めていた東地ケイは妖蟲人の死骸が混じった唾を吐き出す。新品同様だったスーツも無残だ。
「た、助かった、の……?」
ルリネは被せられていた布――液体でどろどろのケイの上着から顔をのぞかせると、その場の惨状を見て愕然とし、
「あれ、東地、先生?」
「おっ、早速覚えてもらえたとは光栄だ――って、俺のクラスの生徒か?」
「あ、はい、御堂です」
「あー、あのときの眼鏡のお嬢さんか。無事で何よりだ」
緑まみれの自分の姿に顔をしかめながら、ケイは地面に座り込んだままのエリナに視線を遣る。
「よく持ちこたえた、エリナ。立てるか?」
「……私は大丈夫よ」
そうは言い張るものの、立ち上がろうとするエリナの脚は完全に笑っている。
「あまり無理すんな。お前はよく頑張ったよ」
「もう少しで、彼女を死なせるところだった……駄目だわ、こんな有様じゃ」
『そう自分を責めるものじゃない、エリナ』
スピーカー越しの女声と同時に、紫色の機甲兵器、スティンガーが降下する。女性的なラインのボディが装甲を格納していくと同時に、中から白衣姿の美女が現れる。装甲は大きくはだけた胸元の、アメジストによく似た宝石に吸い込まれるように消えていった。
「私たちはチームだ。責任は一人が背負うべきものじゃない。まして、今回はこうして生き残ることができたんだ、素直にそれを喜ぶべきだろう」
銀縁眼鏡を押し上げて、いかにも東洋美人風の女医は言う。
「あっ」
その顔を見たルリネは、思い出したように声を上げた。
「確か、今日の着任式にいた……」
「どうやら、君は物覚えがいいらしいな。香曽我部キョウカ、保健教師だ」
今朝は全校集会に続けて着任式が行われていた。そこで紹介された新任教師の中に、キョウカの姿があったのだ。
彼女は素肌の見えている胸元に全く頓着せず、ルリネが手にしているケイの上着をまるで汚らわしいものでも見るような目つきで一瞥する。
「さっさとそれは捨ててしまいなさい。汚いだけだ」
「……おいおい、俺の気遣いはゴミほどの価値かよ?」
「まあ、今はそんなことはどうでもいい」
「お前……」
「君の名前は?」
「御堂、ルリネです」
ぺこり、と律儀にルリネは頭を下げる。
「ふむ、随分と落ち着いているな?」
「あ、いえ、あまりにも訳が分からなくて、頭の回転が追いついてなくて……」
「そうか」キョウカは頷く。「では端的に説明しよう。君は今、命を狙われている。あの気味の悪い化け物――私たちはレギオンと呼んでいる。そいつらの狩りのターゲットに、君が選ばれた。私達が全力でそれを阻止する。君はただ、逃げることだけを考えて欲しい」
「えー、っと……?」
「困惑するのも無理はないだろう。詳しい事情は後から説明する。今は時間がない」
それだけを告げると、キョウカは胸のアメジスト――装甲兵器、通称AMIAを展開する。花が開くように、胸のコアから装甲が展開し、細い体を覆っていく。一年以上の歳月をかけて、香曽我部キョウカ専用にチューンアップされたAMIA、それこそがこのスティンガーだ。頭部の淡く輝くT字センサーアイが、周囲の状況をキョウカの視覚野にダイレクトに伝え、AMIAの補助センサーによる様々な情報がそこに添付される。AMIAは新たな身体器官と評すことができるだろう。それも、とびきり高性能な。
『次が来る。エリナ、行けるか?』
「……大丈夫、です」
そうは言うものの、エリナの顔には憔悴の色が濃い。膨大な量のワイヤーの形成は、エリナの体力を根こそぎ奪っていた。客観的に見ても限界なのは明白だが、それでも彼女は闘志を失わない。いや、一度失ったそれを取り戻したのか。仲間の到着により、一度は屈しかけていた闘争心が再び芽生えていた。
『私が先行する。エリナはケイと一緒に彼女の守備を頼む』
「まずはここを離れた方がよさそうだな。見たところじゃあ、敵さんの狙いが分からん。俺には、このちっこいヤツラは自分からネットに突っ込んできたように見えたんだが……」
『同感だ。これまでの戦闘データにはないパターンだ。どう出てくるのか、何が出てくるのかまるで見当がつかない。各自警戒を――待て』
ぐしゃり、と。
キョウカの聴覚野に、スティンガーのセンサーで増幅された音波が届いた。音の正体を肉眼で確認することはできない。スティンガーに搭載された戦術プログラムは、音源がおよそ三〇〇メートルの距離にあると算出し、即座に正体をシミュレートしている。それは、まるで水溜りを踏みつけたような――
『何かが来る』
スティンガーの手首から一五センチほどの棒状の柄が突き出し、掌に収まる。その先から白銀の刃が飛び出し、レイピアを模す。スティンガーの第一戦術兵器、単分子刺突剣。妖蟲人を壊滅させた必殺の剣だ。
「数は?」
東地ケイの抱えていた機関砲が転身、粗雑な外見の大型拳銃に変化する。ケイの能力、それは、銃火器の準無限生成。ネゴシエイターの名を持つ、敵勢力制圧用能力だ。その問題点は、実弾を使用できず、既存の銃と全く同じものを産み出すのは不可能であること。あくまでイメージ通りにしか生成することはできないが、逆にその数は彼の精神力の持続する限りきりがない。戦局に合った銃を使用できるのが最大のメリットだ。
『まだ不明だ。だが、一体ではない』
両側をマンションに挟まれている今、敵の進路はこちらの前か後ろかの二択。相手が翼の類を持たない限りは、この場で待ち構えているのが得策だろう。
音源は近づいている。どうやら、足音らしい。
『特定した――敵数は二体』
ぐしゃ、ずしゃ、と耳障りな音は、エリナやケイの耳にも届くほど大きくなっていた。皆の顔に緊張が走る中、ルリネは未だ状況が読み込めず混乱の極みにあるようだった。
「エリナ、接近戦は俺がやる。援護を頼むぞ」
「……了解」
小声で囁きあうケイとエリナ。音はより大きくなる。
場に張り詰めた緊張の膜が、一気に弾けるように――
醜奇な敵はその姿を晒す。
To be continued.