Chapter.1-3
黒い瞳は、何を映すのか
それは、四月に入って間もない頃、入学が迫っていた時期だった。
高校から出されていた入学前の課題を終えて、すっかり暇をもてあましていたルリネ。観光でもしようと思い立ち、異郷の土地の東京を一人で巡る。まずは学校周辺から適当に散策を始めて――改めて己の不運を嘆いた。
中学の頃からルリネは自発的でなく、クラスの雰囲気にもなかなか馴染むことのできない生徒だった。誰かに話しかけられればそれなりに会話することができたのだが、普段は黙り込んでいることから暗い少女だと思われがちで、長めの髪を三つ編みにして黒縁眼鏡をかけていたため、どうにも地味な女の子に見えていたのだ。
とはいえ、決して顔立ちが悪いというわけではなかった。むしろ端整だといっても差し支えはないだろう。
気弱そうな可憐な少女。それをどう捉えるか、人間の数だけ答えは異なる。
無論、悪質な捉え方だって生まれてくるのだ。
「別に恐がらなくていいってよォ」
「少ォーし俺たちと遊ぼうって言ってるだけじゃん。な?」
男三人組。大学生だろうか、いずれも体格がよく、髪を金に染めていたり過剰なシルバーアクセサリーを身につけていたりと、いかにも柄の悪そうな青年たちだ。
通りから死角になる路地に、ルリネは誘導される形で連れ込まれていた。逃れようにも恐怖に身体が強張り、悲鳴を上げることもできない。隙をついて走ることなどもってのほかだ。
「なぁ、ヤス達も呼ぼうぜ。いい暇つぶしできんじゃん」
「あー、じゃあ近藤さんにも声かけとけよ。黙らせんのに丁度いいだろ」
段々と会話の内容が物騒なものに変わっていく。今の状態でも逃げることができず、何をされるか分かったものではない。さらに人が増えれば……考えてしまうと体の震えは増すばかりだった。
まさか本当に不良に絡まれるとはルリネも思ってはいなかった。漫画やドラマの中、フィクションの出来事だと信じていたのに。どうすればいいのか、途方にくれる余裕さえない。
「それじゃ、まずは肩慣らしに散歩でもするか?」
下唇にピアスをつけた男が、ルリネの肩に腕を回す。ぐっと自分のほうに引き寄せて、
「キンチョーすんなって、俺たちがちゃんと――ぐえっ!?」
下卑た野太い声は、悲鳴によって途切れた。通りの方から飛んできた鞄が、男の顔面に直撃したのだ。随分と中身が詰まっていたのか、鞄をくらった男は残りの二人を巻き込んで無様に転倒する。
呆気にとられたのも僅かの間、ルリネは誰かに手を引かれていた。
「走れ」
大きくないのに、すっと耳に響く声。体の震えは自然に治まって、手を引かれるまま走り出していた。
ルリネを助けたのは、歳が近いように見える少年だった。凛とした目鼻立ちも印象的だったが、何より澄み切った人形のような黒い瞳が、一瞬だけ周りの状況を忘れ去らせるほど、ルリネの心にある感情を与えていた。
――すごく綺麗な瞳――
「待てクソガキが!」
その想いも、後ろから飛んできた青年の怒声に掻き消される。血眼になって全速力でルリネと少年を追いかけてくる三人組。一方で、こちらはルリネが足を引っ張ってしまっていた。追いつかれるのは時間の問題だ。
それを少年も理解したのか、進路を変えて路地に入る。それはビルとビルの間、ちょうど人が一人通れるほどの狭い道だった。
ルリネを一人、押しやるようにして少年は言う。
「行け」
「で、でも……!」
「行け。大丈夫だ」
少年の言葉は、自信に満ちていた。肯定しか答えを残さない、強い言葉だった。
「……っ」
頭を下げると、ルリネは細い通路に走り出す。少年はそれなりに背丈があるものの、体つきは細身だ。普通に考えて、屈強な青年三人相手に勝てるはずがなかった。たとえ空手や護身術の経験を積んでいたとしても、数と体格の差を埋めることは至極困難だ。
では、少年のあの確信に満ちた表情は、一体どこから出てくるのか。
必死に足を動かしながら、ルリネは心の中で少年の無事を強く願っていた。なんとかアパートまでたどり着き、部屋に飛び込むように駆け込んで、鍵を閉めてドアを背にその場にくずおれた。
肩が激しく動く。動悸が治まらない。
「――ふ、くっ――」
呼吸は嗚咽に変わっていき、目に映る玄関がぼやけてゆく。両腕を抱きかかえるようにして、ルリネは次第に襲い掛かってきた恐怖の余韻に怯えた。予想もしなかった出来事。あのまま、少年が助けてくれなかったら、自分はどうなっていたのかも分からない。もしかしたら、学校に行くことさえできなくなっていたのではないか。
声を押し殺して泣いた。誰にも声をかけてもらえない。誰にも声をかけることができない。深い海の底のような孤独。どうすればいいのか、霧の中にいるように分からない。おまけに、その霧はねっとりとしていて、不快感しか与えてこない。
助けて、と。
知らないうちに、苦しみが零れていた。
だが、
『大丈夫だ』
少年の声が、そしてあの曇り一つない人形のような瞳が、霧を振り払うようにルリネの心に浮かび上がった。自然と心弛びが彼女の中で生まれていた。不思議な心地よさを、少年の姿に覚えていた。大丈夫だと――「少年が」でもなく、「ルリネが」でもない。恐ろしいものすべてが、まるでひとりでに消えてゆくように、何もかもが「大丈夫だ」と言っているように――
心が落ち着いていく。呼吸がゆっくりと穏やかになる。
同時に、少年の安否が気になり始めた。彼を信じてはいたが三対一だ。ひょっとしたら、怪我でも負っているかもしれない。さっきの場所に戻るべきか、足手まといになるから部屋にこもっているべきか……
「……行かなきゃ」
よろめきつつ、何とか立ち上がる。もう一度会いたい。会って、無事を確かめて、きちんとお礼を言わなければ。
震え出しそうになる手に力を込めて、ドアを開く。
そこに、
「――あ――」
目の前、アパートの廊下に、少年がいた。服は所々がひどく破れ、まだ乾ききっていない血の跡もあった。その顔に傷でもあれば、すぐにでも治療が必要な状態に見える。だが、少年にはかすり傷さえ見当たらない。乱闘の痕跡はあるのに、彼は全くの無傷だったのだ。
「あ、あのっ」
無事だった。それを喜ぶよりも早く、少年は僅かに口元を緩める。
「よかった」
なによりも、ルリネの安全を気にかけていた。そんな笑みだった。
ルリネが口を開く前に、少年はその場を立ち去ろうとした。ただし、階段のほうではなく、廊下の突き当りへと。
「ま、待ってください!」
少年は立ち止まり、ルリネを振り返る。その顔に浮かんでいた笑みは、もう無表情になり代わっていた。手に降りかかった雪が、すぐに融けて見えなくなってしまうように。
「あなたがいなかったら、私……さっきは本当に――」
「同じアパートだったんだな」
「え? あ、えと……そうみたい、ですね」
「冴島ユウトだ」
「さえ、じま――?」
少年が何を言っているのか理解できず、一瞬きょとんと眉根を寄せるが、
「あ、私は御堂ルリネ、です」
ぺこりともう一度低頭する。
「そうか。よろしく」
それだけを素っ気なく返すと、少年は――ユウトは、突き当りの部屋へと入っていった。ついさっきの乱闘など、まるで日常茶飯事だと言わんばかりに。
彼の部屋の扉を、ルリネはぼうっと見つめていた。掴みどころのない少年。世間から少し違う位置にいて、静観を続けているような眼差し。自分とはまた違う孤独さを、ユウトに感じていた。
これが、ルリネとユウトの出会いの顛末だ。
■
「――っていうことがあったんだけど」
所々をかいつまんで説明していたが、エリナの表情はなぜか硬い。柳眉を寄せて、何かを思いつめるようにルリネの話に聞き入っていた。
「えーっと……どうかしたの、九条さん?」
「――やっぱりそうだわ」
大きな瞳をルリネに向ける。その輝きの中には、強い熱意があった。
「御堂さん、それって運命の出会いよ。きっとそうなのよ」
「えぇぇ!? そ、そうかなぁ?」
「だって偶然にしては劇的な登場じゃない? 一つのドラマだって出来上がるわ」
「んー……でも、それだけだし……」
「それだけって?」
「同じクラスにもなったんだけど、別に特別な何かがあるって訳でもなくて……普通の友達だよ、冴島くんは」
「普通の友達、ね……」
またもや悩ましげな表情。一体彼女が何を思い煩っているのか、非常に気にかかる。
「冴島くん、学校ではどんな様子なの? 喧嘩っ早いとか?」
「全然そんなことないよ。怒ったところなんて見たこともないし、喧嘩だってしてないし」
「優良な男子学生、ってわけね」
ふんふんと頷くエリナは、まるで頭の中で推理を組み立てる探偵のようだった。
「九条さん、冴島くんのことどう思ってるの……?」
とルリネは切り出す。というのも、エリナの真剣な顔つきが、ユウトに対する恋慕によるものではないと思えてきたためだ。事件の犯人探しをしているような、懐疑に満ちた面持ちだった。
「私? 私は別に……」
エリナは慌てて首を振る。それから、付け加えるようにして、
「ちょっと、気になっただけ」
目を逸らしながらの否定は、まるで言い訳のように聞こえた。
■
充実を感じるほど、時間は早く過ぎていく。退屈な時間は長いのに。これもまた嫌味な仕組みだと、エリナと別れる際に感じていた。
クラスの話や学校周辺のカフェ、ショッピングモールのことなどを話しているうちに、日が空を朱に染め始めていた。高校入学以来初のメールアドレス交換も済ませて、有頂天な気分になっていたルリネは、別れが口惜しくてたまらなかった。
「今日は本当にありがとう。楽しかったわ」
「ううん、私の方こそ……部屋に人を招いたの、初めてだったし」
同じアパートである以上、ユウトと顔を合わせることは幾度となくあったが、自室に招き入れる度胸は持ち合わせていない。大げさではあるが、友達と遊べたという一生分の幸せと感謝をエリナに感じていた。
「それじゃ、また明日ね」
「あ、うん……」
廊下を去っていくエリナの背中を、惜しむように見つめる。やがて階段を下りて姿が見えなくなると、ルリネはしぶしぶと部屋に戻っていった。狭い部屋には一応の家具がそろえてあるが、インテリアに気を使っているわけではなかった。改めて見回してみると、他人を招くには少し殺風景だったかもしれない。唯一の女の子らしさといえば、ベッドの上にある兎のぬいぐるみだけだ。
「……次に九条さんが遊びに来るまで、もうちょっと可愛くしてみようかな」
そうだ、そうしよう、と決意を抱く。
もっと女の子らしい部屋に変えて、いつかはユウトも招こう。
「――あれ?」
冴島くん――?
なぜその名前が出てきたのか。自分でも訳が分からず顔が火照る。
もちろん、招きたくないと言えば嘘になる。前からそう思ってはいたものの、なかなか言い出すことができず、さらには断られた場合のことを考えると、誘いを切り出すことができなかった。けれども、今はどういうわけか、無性に誘いたい。これもエリナのお陰だろうか。
ふふっ、と嬉しさがこみ上げる。始業式の時点では今年もまた静かに一年を送るものかと思っていたが、今はこれからの学校生活が眩しいものに見える。明日が来るのを楽しみにできたのはいつぶりだろうか。
「――っと」
あまりに喜びすぎて頭に血が昇ったのだろうか、風景がぐらりと揺れた。
と、その直後。
ぶつり、と部屋の電気が落ちる。
「て、停電――?」
別に電気を大量に使用するようなことはないはずだ。エアコンもつけていないし、換気扇もつけっぱなしではない。大きく電気を消費する家電を使った覚えもない。
「えっと、ブレーカーどこだっけ?」
幸いにもまだ日が沈む前だ。懐中電灯はなくても問題はない。が、肝心のブレーカーが見当たらない。この部屋に住んで一年が経つにもかかわらず、これまでブレーカーが落ちた経験がなかった。もしや外にでもあるのだろうか。大家さんに連絡をした方が早いだろうか。
とりあえず、と机の上に置いてある携帯電話を開くが、おかしなことに電源が入っていない。電源を入れる操作をするものの、電池が切れたように反応がない。ついさっきエリナとアドレス交換をした際には、電池は十分余っていたはずなのに。
仕方なく部屋をもう一度見回る。ブレーカーは見当たらない。
「おかしいなぁ、やっぱり外かな」
妙な違和感が心の片隅に芽生えていたものの、意識するには至らなかった。まずはブレーカーを見つけ出すことが先決だ。
最悪の場合、ユウトに助けを求めようか、などと考えながらドアを開く。すると、
「え――?」
目の前に、予想外の人物が立っていた。
Ready to break into the world.
To be continued.