Prologue.2
黒き鋼の獣
灼熱、血を
「敵が、こっちに向かってる……!?」
無線通信を受けながら、九条エリナは背後に庇う「少女」へと視線を向けた。怯えるように縮こまって、両腕で自分を抱きしめて震えている少女。今回の敵の獲物にして、無慈悲な神の作為によって不幸に見舞われた一般人だ。彼女に敵と戦う力などない。エリナが守り抜かなければならない。彼女自身の力で。
『恐ろしいのは速度だけじゃない、さらに厄介なのはヤツの唾液だ。触れると身動きが取れなくなる。留意しろ。私たちもすぐに向かう』
無線機の向こうで、キョウカが唇を噛み締めているのが容易に想像できた。
「りょ、了解です」
緊張で声が裏返りそうになるのを必死にこらえる。エリナが守るべき相手は年端もいかぬ非力な少女。恐らくは高校生だろう。だが、エリナ自身とて、敵と対抗できる力を持っているという点を除けば、被保護者の少女と違いはない。命を危険に晒すには、精神的にも肉体的にもまだ若すぎる。
それでも、エリナは戦わなければならない。戦う力を持っていることが、戦う理由だと――エリナはそう信じている。
「敵が来たら、私が食い止める。だからその隙に、あなたは逃げて」
そう言って、後方の路地を指差す。被保護者は頷くので精一杯のようだ。
「私が守らなきゃ――私が、絶対に!」
無意識のうちに決意が口を衝いて出る。あるいは、それは彼女自身に対する叱咤激励か――
湿気を帯びた羽音と共に、敵が姿を現したのはまさにそのときだった。昆虫の如き薄翅を背負った人間。悪意に満ちた微笑さえ見て取れそうな、真っ赤な口腔を覗かせながら飛来する敵影。
わずかに上方から接近――予想の範囲内。
「来なさい……!」
実に、実に醜悪極まりない顔が、眼前に迫り、
「ガァァッ!」
何重にも張り巡らされたワイヤー群が、敵の醜怪な肢体に絡みつく。
極微細のワイヤーは、いったい如何なる物質で構成されているのか。それを正しく知るものはいない。そのワイヤーは、九条エリナの指先から射出されていた。彼女の両手は純白のグローブに包まれ、指腹の位置にある射出孔から、それは顕現する。ワイヤーはエリナの意志に従って現れ、空間に固定される。あたかも蜘蛛が巣を巡らせるように。物理法則を一切無視した、まさに超能力と称すべき異能。
彼女らは、その特殊能力をアニマと総称する。
魂の力を現象に変換する、生命の叫び。
人命を弄ぶ怪物どもに対抗しうる、唯一の武力。
「今のうちに逃げて!」
がくがくと痙攣するように頷いた少女が、入り組んだ路地へと消えてゆく。場に残されたのは敵と自分、一対一。
まだだ。まだ甘い。
指先からさらにワイヤーが射出される。アニマの力の源は精神力だ。九条エリナの闘争心が高ければ高くなるほど、ワイヤーの質も向上する。悲鳴にも似た奇声を上げる化け物は、徐々にワイヤーの中に埋まっていった。その有様は蜘蛛の捕食風景を連想させた。惜しむらくは、裸身の化け物を裁断してのけるにはワイヤーが太すぎることだろうか。
「このまま、一気に――!」
今や、怪物は微動だにできないほど雁字搦めになっていた。ワイヤーに巻かれているのではない。エリナの闘争心に巻かれているのだ。
圧殺は目前――だが、その闘争心が圧壊するとき。
「邪魔、だアアアアアア!」
九条エリナのアニマは、臨界へと達する。
「うそ……」
ワイヤーの監獄は、内部から打ち破られた。堅牢な罠を突破したのは、怪物の両腕に生えた鎌だ。容易く、軽快に、料理をするように。新たな兇器はエリナの魂を引き裂いた。
一瞬。ほんの一瞬だけでも、自分が敗北し、無残な死体へと変貌するイメージを抱いてしまった。怪物にはそれで十分だ。アニマの力を抑制させるには、それは十分すぎるショックであった。
「そんな、私のアニマが……」
自分でも気付かないうちに、エリナは後退していた。アニマを使えない彼女は、もはやターゲットの少女と何も変わらない。怪物にとっては絶好の獲物で、非力な一般人だ。
「どうして……なんで!」
不甲斐なさを感じる余裕さえ、少女には残されていなかった。ワイヤーの一片さえも出ないグローブを相手に向けて、空しい叫びを続けるのみ。
人型の怪物は明らかに楽しんでいた。両の鎌をこすり合わせ、どこから切り刻んでやろうかと品定めするように、血の滲み出たような真紅の瞳で少女を見据えている。本来のターゲットなど既に忘却の彼方にあるらしい。
少女の耳元では、無線通信で仲間の声が送り届けられている。何かを叫んでいるようだが、彼女の聴覚さえ、もはや意識の底に沈殿していた。
死。
純粋な死の予見。
全身の感覚の麻痺、筋肉の痙攣、呼吸不全――あらゆる身体の異常が、一緒くたになって死の幻想を引き連れてくる。やがて訪れる死に備えている。
「シィィ……」
怪人の醜貌が、少女の首に定まる。
断頭台のように、あるいは稲を収穫するように、彼女の美貌もろとも刈り取ってしまおうというのだろう。
化け物の跳躍。誰かの叫喚。鎌の凍えるような輝きと、そこに映る、自己の死を見つめるエリナの姿――
そして、轟然たる、衝撃。
「……え?」
エリナの見た自己の死は、幻覚だった。腰を抜かし、路地に座り込んだ姿勢のまま、夢心地で前方に目を向ける。
地に伏していたのは化け物だ。見えざる力に叩き伏せられたかのように、無様に地面に伏している。
一体何が起きたのか。
エリナが状況を理解するよりも早く、二度目の衝撃が訪れる。そう、まるで、目に見えない隕石が化け物に降り注ぐかのように。燃え盛る烈火のような熱風が、辺りに吹きすさぶ。
「グゲゲゲゲ……!」
アスファルトに接吻しながら、怪物は驚嘆の表情をあらわにしていた。身動きが取れない。空気よりも軽い薄翅一枚さえ、一ミリたりとも動かすことができないようだった。あまりの衝撃に神経が麻痺している。
さらに、轟音。怪物が平伏していた地点を中心として、およそ半径三メートルが、鉄塊の直撃を受けたように陥没する。反動で跳ね上がる化け物の肢体。薄翅は背中から剥離し、無残に宙をひらひらと散華する。
そこへ、四度目の衝撃。その正体は、漆黒の物体だった。人間サイズの何かが空中から怪物めがけて落下してきたのだ。
その姿は、人型にして人にあらず。全身を覆う黒の鋼鉄は、香曽我部キョウカのものと同じ機甲兵器。しかし、それは無骨で荒削りなキョウカの機甲兵器のフォルムとは異なる。装着者の体格に合ったサイズにカスタマイズされ、極限まで洗練された流線型の躯体はエリナの知る機甲兵器ではない。ましてや、その鬼と見まがう顔容に宿る、血の色をしたX字のセンサーアイは人間のそれを越えた憎悪を孕み――
「あ、あなたは……」
エリナは恐怖していた。化け物を組み敷く、闇色の機甲兵器の禍々しさに。
機甲兵器は、無言のまま鋼の掌を化け物の顔に押し当てる。
「グ、ガ、ガ、ガ、ガ、ガ!」
化け物の悲鳴は、もはや人間のものとは遠くかけ離れていた。強力な力で押さえつけられているのだろう、顔面はひずみ始める。随所にひび割れが走り、緑色の体液が聞き苦しい呻吟と共に込み上げてくる。
機甲兵器の掌から、低く唸るような音が鳴り響く。同時に、目には見えない灼熱の波が周囲に撒き散らされた。
「ガアアアアアアアアアアアアア!」
悲痛。先ほどまで命を狙われていたエリナが同情を禁じえないほど、怪物はもがき足掻いていた。だが、機甲兵器は慈悲の一片も見せはしない。
炸裂――熱波。
鋼の掌から、膨大なエネルギーが解き放たれる。化け物の顔が弾け飛び、緑色の血液が驟雨のように飛散する。
「ひっ――」
エリナの足元に、化け物の目玉がぼとりと落ちた。視神経のように伸びているのは、一匹の百足であった。そのおぞましい光景に、エリナはようやく悟る。化け物の身体を構成していたのは、無数の百足だったのだ。首をなくした裸体から、先を争って百足どもが溢れ出てくる。
エリナの目前で、眼球が圧壊した。黒の機甲兵器が、憎悪そのものを踏み潰すように、百足を容赦なく屠り捨てたのである。
無意識のうちに、機甲兵器を見上げる。紅のX字センサーアイが、エリナを見下ろしている。その奥には、人間の瞳が、一人の人間が、いるはずだった。しかし、エリナには感じられない。血よりなお赤い眼光の主は、果たして本当に同じ人間なのだろうか――
『エリナ、大丈夫か!』
香曽我部キョウカの機甲兵器が、空から姿を現した。だが、エリナの無事を確認するよりも早く、黒に染まった機甲兵器を目にして動きを止める。
『その機体は……まさか、ヴァランディン……?』
うわ言のようなキョウカの呟きは、あたかも幽霊を語るようだった。
黒の機甲兵器――ヴァランディンは、キョウカの問いにも、エリナの視線にも答えることはなかった。無言のまま背面のジェネレーターが細動すると、その眼と同じ色の粒子が流出する。その光は外套のように、あるいは翼のようにヴァランディンの黒躯を包み込むと、天空へと上昇していった。
そこに残されたのは状況を飲み込めないキョウカと、得体の知れない恐怖に怯えるエリナ、そして依り代を失って蠢く無数の百足のみ。
「キョウカさん、あの……あの機体は……?」
『あれは、紛れもなくヴァランディンだが――しかし、ありえない。そんなはずは――』
常に冷静なキョウカとの付き合いは長いものとなるが、これほど狼狽する彼女を見るのはエリナにとって初めてだった。
消え入りそうなキョウカの呟きを、エリナは耳にする。
――あの装着者は死んだはず、と。
これは、黒き獣の物語。
怒りの物語。
意志の物語。
Prologue, end.
章タイトル"Engage"はOVA「戦闘妖精雪風」OP曲「Engage」より。