Chapter.3-3
獣は語る
ゆっくりと目蓋が開く。目に直接入る蛍光灯の明るさに何度か眩しそうに瞬くと、人形のような瞳は視線を傍らの少女に向けた。
ルリネは食い入るようにユウトの顔を見つめていた。彼が目を覚ましたことを知ると、大きく安堵の溜息をつく。
「よかったぁ……!」
「御堂……」
ユウトは上体をゆっくりと淀みない所作で起こした。ぐるりと首をめぐらせて、珍しそうに部屋の様子を見回している。
「ここは――」
「あ、私の部屋だよ。ごめんね、勝手に入れちゃって」
自分の部屋なのにごめんとはおかしな話だが、ルリネは謝らずにはいられなかった。
「そうか……」
ユウトは呟いて、自分が横になっていたベッドを見下ろす。ルリネの部屋なのだから、それはもちろんルリネのベッドだ。
「あっ、ご、ごめん、床に寝かせるのも駄目だと思ったから、その――」
耳まで茹で上がったルリネは猛烈に手を振ってごまかそうとする。言葉の通り他意なんてなかったし、別にここで謝る必要もないはずだ。だというのに、ユウトが何かを言う前にとりあえず謝っておこうと思考が先走っていた。
ユウトは、慌てふためくルリネを見て、口許をかすかにほころばせた。
「ありがとう」
同じだ。昨日も教室で、同じ表情のユウトから、同じ言葉を聞いた。その度に、ルリネは嬉しくなると同時にどこかもの悲しくなる。
ユウトの笑顔が、とても悲しいもののように思えてしまう。
「……ねぇ、冴島くんは……」
ずっと気にかかっていた。昨日も、一年前のあの日も。
ユウトの表情の理由が知りたかった。どうしても。今なら答えてくれるだろうか。
「御堂――」
名前を呼ばれて、ルリネはユウトの瞳を見返した。そのはずだったのに、なぜか視界がぼやけている。うまく目の焦点が合わせられない。
「なぜ、泣いているんだ」
「え――」
ユウトの言葉が、頬を伝わる熱い感覚をようやく意識させた。長い睫毛が瞬くたびに、大粒の涙が零れ落ちる。止まらなかった。止めようと思っても、次から次へと雫は溢れてきた。
「だ、だって――」嗚咽交じりに言葉を搾り出す。「冴島くん、が……とっても、悲しそうだったから……つらそうな、顔を……!」
ユウトのささやかな笑顔の陰には、いつも深い悲しみがあった。正体の分からない悲しみが。どんなに幸せだろうと、それは全部偽りなのだと語るように。人形のような瞳は、何もかもを諦めてしまった悲しみを抱え続けていた。
その冷たさは、ルリネが背負ってあげることのできるようなものではなかった。きっと誰にも理解されることもないだろう。そう無意識にユウトの瞳は告げていた。
彼が抱く痛みを、ただ遠くから見届けることしかできない自分が、ルリネは許せなかったのだ。今回も、そして一年前も、ユウトにはずっと助けられ続けてきた。せめて、少しでもいいからユウトの力になりたい。そんな小さな願いさえ、自分には叶えることができないのではないか――
小さな声で泣きじゃくるルリネの肩に、優しく腕が回される。
「生きてくれ」
ユウトの囁きは、ルリネの心に纏わりついた悲しみを優しく拭い去った。
「必ず俺が守る。だから、生きてくれ」
「冴島くん――」
思わず見上げた先に――吐息さえ触れそうな距離に、ユウトの決意に満ちた顔があった。
「大丈夫だ」
あの日の光景が蘇る。初めてユウトと出会った日にも、彼は同じことを口にしていた。何もかもが大丈夫だと。ルリネが、でもなく、ユウトが、でもない。どんなことが起こったとしても、必ず大丈夫だと。
触れ合うユウトの腕は、温かい。それは人間の温かさだ。生まれたてのように傷一つない綺麗な腕は、しかし機械や作り物なんかではない。
生きている。確かな命を持っている。
「――話したいことがある」
ルリネから腕を離し、ユウトは立ち上がった。
「後の三人にも聞かさなければならない。大切な話だ」
「大切な……?」
茫然と見上げたルリネは、仮面のように表情を失くしたユウトの顔を目にする。
「ああ。すべてを話す」
だから、とユウトは手を差し伸べた。
「行こう」
■
考えてみれば、一緒に登校するのは初めてかもしれない。下校はだいたい一緒だったが、ルリネは朝に弱いので、いつもユウトだけが先に登校していた。登校といっても、時間は一〇時を回っている。二限目が始まったあたりだ。
昏倒したユウトの介抱はルリネだけがあたっていた。介抱といってもただ側で見つめていただけなのだが。エリナや教師二人組みは、すでに学校にいるはずだ。
こうやって二人きりになるのは――なぜだかとても久しぶりな気がした。
学生服がぼろぼろになってしまったので、ユウトはジャージ姿だった。学校指定ジャージは深い緑色で、生徒の評判はあまりよくない。しかし、片方の袖がなく、もう片方は真っ二つに裂けている学生服を着ていくわけにもいかない。
恐る恐る教室に入ると、黒板に古文を書き連ねていたケイが驚いたように二人を見る。
「おいおい二人そろって遅刻か? というか、冴島、お前制服はどうした?」
「……ひどく汚れて、洗濯している」
「そうか、じゃあ仕方ないんだが……いや、敬語を使えよ、敬語を」
クラスの視線に顔を赤らめながら、ルリネは席につく。座る前に、少し疲労した様子のエリナがアイコンタクトを取ってきた。ルリネも小さな笑みで返事をする。
「――で、上が四段活用の動詞だから、ここの助動詞が連用形になって――」
淀みなく、ケイは授業を続けている。
そこは日常だった。ルリネを守るように、ユウトが、エリナが、そしてケイやキョウカが支えてくれる日常だった。
誰もが命をかけて自分を守ってくれている。昨日までは、なぜ、と疑問にばかり思っていた。しかし、もう思い煩う必要もない。それが彼らだからだ。
昔から、ルリネは誰かの力になりたいと願っていた。何かと引っ込み思案な自分が許せなくて、いつかは自分から行動を起こして、社会に貢献したいと考えるようになっていた。医者であるとか、ボランティア団体に属するとか、それほどまでに大きなビジョンを抱いていたわけではない。ただ一人の人間として、誰かに尽されるだけではなく、自分からも手を差し出して助けてあげたいという素朴な、しかし確かな願いだった。
そうはいうものの、高校生になった今でもルリネは助けられてばかりだ。レギオンに命を狙われている今の状況に限らない。普段の生活においても、ユウトがいなければとても孤独な思いをしていたに違いない。無事に高校生活を迎えられたのもユウトのお陰なのだ。やはり、自分は頼ってばかりで何もお返しをすることはできない。そんな無力感がたまらなく嫌だった。
だが、ユウトは言っていた。
生きてくれと。それだけでいいと告げていた。
ルリネを守る――それがユウトの、いや、レギオンと戦う者の使命だ。命を懸けてまで、自分を守ってくれている。だから、自分は生きていればいい。それこそが彼らにとっての戦う理由になるのだから。
今はただ、生きよう。
御堂ルリネとして、高校生として、人間として、生きていよう。
彼らに対して、自分が何をしてあげられるのか、それは後から考えればいい。
「…………」
ユウトは相変わらず、自然体で窓の外へ視線を遣っていた。
いつも通りの姿こそが、何よりも心強く思えるのだった。
■
「すまん、遅れたな」
息せき切って保健室に駆け込んできたケイ。これで全員がそろったことになる。
話があるからと保健室に集まるように提案したのはユウトだった。これまで極力、ケイやキョウカ、エリナとの接触を避けてきたユウトの進言だ。誰もが驚いていたが、それ以上に今朝の出来事についての真実を、やはり欲していたのは確かだ。
放課後、大多数の生徒は部活に向かい、あるいは帰宅して、校舎にはほとんど生徒はいない。時折、吹奏楽部の奏でる音色が遠くに響くほどだった。
「相変わらず遅いぞ、ケイ」
椅子に腰掛け、腕を組むキョウカの姿は若干威圧的だ。
「しょうがないだろ、今朝遅刻したことを学年主任に責められたんだよ……」
「それは残念だったな」
ケイの抗議も空しく、キョウカはまったく取り合わない。肩をすくめながら、ケイは従容とした表情のユウトに瞳を移す。
ユウトの隣には、場の緊張に気圧されながらも覚悟を決めた様子のルリネが、ユウトの言葉を待ち構えていた。他方、エリナは洗い立てのように輝く白いベッドに腰掛けて、同じく待ち構えていた。その面持ちは若干複雑そうだ。
「それで、話とは?」
一同を代表してキョウカが切り出す。
ユウトはどこを見つめるともなく、人形のような瞳を瞬かせて口を開く。
「すべてを、話しておきたい」
部屋を見回した黒瞳は、最後にルリネに向けられた。その奥に光るのは、やはり深い悲しみだ。だが今は、悲しみを覆い隠すように硬い決意のヴェールが張られていた。
「俺は、人間じゃない」
その言葉は、まるでルリネだけに向けて送られたようだった。
「え……?」
たとえ、明日世界が滅ぶと告げられたとしても、ここまで呆気にとられることはないだろう。言っていることの意味を理解できないだけではない。その言っている内容自体が、ありえない想定だからだった。人間ではない。そんなことがあるわけがない。
「どういう、ことなの?」
上目遣いでルリネは問うた。ユウトの言葉の真意を求めて。
「御堂、見ただろう、俺の腕が斬られたのを」
曖昧にルリネは頷く。まるで実感がなかった。あの時は、ユウトの腕が斬り落とされてしまったように見えたのだが、今はこうして綺麗な両腕がそろっている。あの光景は緊張が見せた幻か何かだったのだろうと勝手に思い込もうとしていた。
「本当に、その、なくなっていたの?」
「ああ。腕だけじゃない。全身に、致命傷を負っていた。俺の意識は、一瞬だが完全に途切れていたんだ」
動かなくなった黒い機甲兵器。たとえ、あの光景が本当だったとしても。
「あの、えっと、AMIAが、治してくれたんじゃないの……?」
キョウカの説明によれば、超能力を機械化したものがAMIAだ。あんな小さな宝石のようなものから鋼鉄の鎧が現れるのだから、傷を治す力もあるのではないか。
しかし、キョウカは静かに首を左右に流した。
「AMIAには、確かに自己修復能力がある。だが、それも一部の装甲だけだ。人間に対する作用はない。それに、傷ついた肉体を修復できるのだとしたら、コネクターを使う必要もなくなる。そうだろう、冴島?」
「ああ。その通りだ」
「じゃあ、どういう……」
意識せず、助けを求める視線を彷徨わせてしまう。
しかし、ケイもエリナも、ユウトの言葉に反駁してはくれなかった。
「俺は――いや、冴島ユウトは」
まるで他人について語るような言い方。
「五年前に死亡している。レギオンの襲撃によって」
淡々と事実を述べる口調は、しかしその場に計り知れない驚愕をもたらした。
「どういう……意味なの? 死んだって、じゃあ冴島くんは? あなたは――」
矢継ぎ早に疑問を吐き出すルリネに、ユウトは静かに顔を向けた。諦めとも、空しさともつかない、儚い面立ちでユウトはルリネを見つめ返す。
「冴島ユウトは死んだ。俺は、冴島ユウトじゃないんだ」
それからエリナ、キョウカ、ケイへと視線を移してゆき、
「すべてを話す。冴島ユウトが、どのように死んだのか。俺がなぜ生まれたのか」
御伽噺でも語り聞かせるように、落ち着き払った様子でユウトは話を始める。
五年前――惨劇が、ひとつの幸せを終わらせた瞬間を。
To be continued.