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ふわ……。
春の温かなそよ風が、僕の鼻腔をくすぐりながら通り過ぎてゆく。
ぽかぽかと、体ばかりでなく心までをも温めてくれそうな日差しが、僕の全身をそっと抱きしめてくれているかのように包み込む。
住宅街の中を歩いていても、たまに植えられた桜がその姿を見せ、目を楽しませてくれるこの季節。
河川敷に沿った並木道なんかだったら、もっとたくさんの桜が花びらをこれでもかと言わんばかりにまき散らし、足先からもその桜色の存在を思う存分感じられるだろうけど。
それでも僕は、ちょっと薄汚れた印象すら受ける静かなこの住宅街の雰囲気が大好きだなの。
幼い頃から慣れ親しんだこの町。
今歩いているこの道は、いつも通っていた通学路からは少々離れていて、ほとんど足を踏み入れた経験はなかったように思う。
だけど今日からは、それこそ毎日のように、ここが僕の通り道となることだろう。
やがて、住宅が密集して立ち並ぶ地域を抜けると、畑や田んぼが目立つようになってきた。
その向こうには、周辺の景色と比べると若干高めで綺麗な建物の姿が見え隠れしている。
「それにしても、今日は暖かいな……。絶好の入学式日和だ」
徐々に大きく視界に映り込んでくるあの建物は、高校の校舎だ。
塀に囲まれた広い敷地内に、いくつかの棟が建てられている。
都立神龍学園。
それがその高校の名前で、僕が今目指している場所でもあった。
今日は入学式。
僕は今日から神龍学園に通うことになった新入生のひとりだ。
真新しいブレザータイプの制服に身を包み、気分も晴れやか。
温かな日差しも、僕を祝福してくれている。
正門が近づいてきているというのに周りに誰もいないのは、登校する時間とは完全にずれているから。
気持ちが高ぶって早めに来てしまった……というわけでは、もちろんない。
なにを隠そう、僕は初日から大遅刻をしてしまった身なのだ。
それなのに焦っていないのは、今さら焦っても仕方がないというのもあるけど、なんといっても僕の何事にも動じない、どっしりと構えた大らかな性格の賜物と言えるだろう。
「さてと、僕のクラスはどこかな」
大遅刻なんてまったくこれっぽっちも気にせず、クラス発表の貼り紙などがしてあるはずの体育館横の掲示板辺りをきょろきょろと見回していると……。
その人は風のごとく、いや疾風のごとく、いやいや嵐のごとく、突如として目の前に現れた。
☆☆☆☆☆
「おい、そこのお前! 新入生だな!? 入学式から遅刻とは、いい度胸してるじゃないか!」
生活指導の先生であるかのような物言いで、雷鳴のごとき大声を伴って現れたその人は、しかし、教師ではなかった。
ブレザー姿。
襟もとにはネクタイではなくリボンが結ばれ、視線を下げればスカートがそよ風に揺らめいている。
両手を腰に当て、リボンの上からでもそのボリュームが存分に感じられる大きな胸をビシッと張って威風堂々と立っている姿は、女性ながらに凄まじいほどの凛々しさをかもし出していた。
サイドテールにまとめた長く綺麗な黒髪がそよ風にたなびく様も、その凛々しさを際立たせる要因となっているだろうか。
どうやら彼女は、この学校の女子生徒のようだ。
とすると、風紀委員とかそういった立場の人で、遅刻した僕を注意しに来た、といったところか。
おそらくは上級生だと思われる彼女は、僕の返事がないのを見ると、ツカツカと早足でにじり寄ってきた。
少々つり上がり気味ではあるものの切れ長の目は眼光鋭く、眉尻も上がり眉間にはシワもできている。
怒りの形相、いや般若の形相、はたまた悪魔の形相か。
僕は思わずあとずさる。
「逃げるな!」
再び落とされたいかずちによって、繰り出されつつあった逃げ足は一瞬で止まる。
悪魔の形相をした彼女は、もう僕のすぐ目の前まで迫ってきていた。
そんな状況下にあっても、その女子生徒から春風に乗ってふわりと微かに漂ってくる爽やかな心地よい香りに、つい頬が緩んでしまう。
背の低いほうである僕よりも、彼女の目線のほうが、わずかに上……。
彼女は右手を伸ばし、人差し指と中指の二本を使って僕のアゴを持ち上げると、ぐいっと顔を近づけた。
目と目が合う。
ヘビに睨まれたカエル状態の僕。
この胸のドキドキは、きっとトキメキとかそういった類のものではないだろう。
「お前、名前は?」
すぐ目の前から質問を投げかけられ、彼女の吐息が僕の鼻先をかすめる。
とはいえ、今の僕は恐怖の念に支配されている状態。
怯えた視線を返しながら、素直に答えとなる言葉を紡ぎ出すことしかできない。
「射干玉……除夜です……」
「除夜、か……。射干玉という名字も変わっているが、名前のほうも独特だな」
「はい、よく言われます」
実際のところ、変わった名前なんて、あまりいいものではないと思う。
絶対に最初は間違われたり読めなかったりするし。
僕の場合は、とくに名字のほうか。たいてい、なんて読むの? と訊かれてしまう。
もっとも、変わっているからこそすぐに覚えてもらえる、という利点もあるかもしれないけど。
「除夜の鐘……。百八つの煩悩の回数叩くというやつだな。とすると、お前は煩悩だらけの人間ということか?」
初対面なのに失礼な、と思わなくもなかったけど。
でも、こういったことも、よく言われてしまうことだ。
だいたい除夜ってだけなのに、どうして鐘までつけてしまうのか。
除夜というのは、大晦日の夜のことを表しているだけだというのに……。
それに除夜の鐘だとしても、百八回鳴らすというのは、百八つの煩悩を振り払うという解釈の他にも、十二ヶ月二十四節気七十二候の一年間を示すとか、四苦八苦で四×九+八×九で百八だとする説なんてのもあるというのに。
あまりに間違われるので調べまくった知識が、頭の中を駆け巡る。
されどカエルの僕は、ヘビな彼女に歯向かえない。
「……そんなんじゃ、ないです……」
一瞬の沈黙ののち、せめてもの抵抗として、小さくこう答えることだけしかできなかった。
「すまんな。少々調子に乗りすぎた。気を悪くしないでくれ」
怯えきった僕の様子を見て、さすがに罪悪感を覚えたのか、彼女は僕のアゴから指を離し、正常な会話位置を取るように一歩下がった。
そして一旦のどを鳴らすと、こんな名乗りを上げた。
「私はこの学園の生徒会長をしている、二年の華神桜蘭だ。よろしく頼む」
なるほど、生徒会長だったのか。
立場上、風紀委員よりもさらに上、ということになるわけだし、入学式からの大遅刻にお叱りを受けたのも頷ける。
よく見れば、彼女の右腕にはしっかりと、生徒会長と書かれた腕章がつけられていた。
……と、あれ?
今ってちょうど、入学式が行われている最中なのでは……。
確か、入学式と始業式を同時に行うスケジュールになっていたはずだから、二年生の先輩だとしても、会場の体育館にいなければいけない時間帯なんじゃ……。
そんな考えは表情にも出ていたのだろう、「どうした?」という会長の問いかけに、僕は率直な疑問をぶつけてみることにした。
「ふむ……。なんだ、そんなことか」
会長は、事もなげに答えを返してくれた。
「私は入学式だとか始業式だとか、あんな面倒な式なんぞに出たくない。だからエスケープした。ただそれだけのことだ」
それは、「当然だろう? なにか問題あるか?」とでも言わんばかりの、堂々とした答えだった。