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君と嫌いな普通をセンチメンタルにしたい

作者: 蜃気羊
掲載日:2026/02/20



「たぶん、いろんなこと、わかりすぎてるんだよ。俺たち」

「わかりすぎると、損なの?」

「どう考えても損でしょ」と夏樹なつきくんは、そう言いながら笑い、コーラを一口飲んだ。


 クラスでは二軍扱いの私のことを夏樹くんが誘うとは思わなかった。六月に入ったばかりなのに、今日はそれほど気温が上がらなかった。だから、夏服になった制服だけじゃ、少しだけ肌寒く感じた。ふたりきりで公園のベンチに座り、大きな芝を眺めている。

 私も、夏樹くんと同じように350ミリリットルの缶コーラを片手にただ、前を向いたまま、なりゆきまかせに始まった夏樹くんの話を聞いていた。


「みんなポジティブすぎて、ちょっと感覚、おかしくなってるよな?」

「えっ」

「だってさ、薬でハイになってるだけじゃん。それっておかしいって思わない?」

 夏樹くんのその言葉で私は、確信を持つことができた。そう思うと、急にバクバクと心臓が激しく音を立て始めた。本当なら、これが恋愛のドキドキだったら、純粋な気持ちだったんだろうなって思ったけど、このドキドキはきっと、それにあたらないような気がする。


「――もしかして、夏樹くんも」

「そうだよ。だって、必要ないじゃん。そんな薬なんかなくても」

「α(アルファ)やってないんだ」

「そう。察しがいいね。沙羅さらちゃんは」

 思わず、夏樹くんを見ると、夏樹くんは、微笑んでくれた。少し強めの風が吹き、奥の木々が揺れ始めた。夏樹くんの長めの前髪も揺れて、その先がすっと通った鼻先に触れていた。両耳にはシルバーのピアスが付いていて、それがキラキラしていた。

 夏樹くんのそのピアスはやっぱり似合っていた。それだけキラキラしている存在だし、クラスでも余裕で一軍だし、モテることだって知っている。

 だけど、αはやってないのに、こんなに陽キャでいれるんだ――。

 

「ということは、やっぱり、沙羅ちゃんもやってないんだね」

 そう聞かれたから、私はそっと頷いたあと、右手に持っている缶を口元に持っていき、コーラを一口飲んだ。

 

 α。

 それは21世紀最大の発明品だって言われている。

 その錠剤を定期的に飲むことで、あらゆる不快な気分がなくなる奇跡の錠剤だ。


「別に精神病んでるわけでもないし、私は別に陽気になりたくなんてない」

「へぇ。クラシックだね」

「自分も飲んでない癖に」

「別に俺なんて、飲む前から陽気すぎだから、たぶん、飲んだら、やばいやつになると思う」

「だから、飲まないんだ。だけど、みんながクラシックだって言ってる、感情もつのって、逆につらくない?」

「そりゃあ、腹立つなって思うことだってあるよ。だけど、イライラしたり、腹立ったりするのだって、楽しいときがあるじゃん」

「えっ、楽しいの?」

「そう、怒りを原動力に変えるタイプだから、俺はいいやって思っただけだよ」

 夏樹くんはそう言ったあと、コーラをまた一口飲んだ。


 αが急速に普及したのはここ5年くらいのことで、αを人々が飲み始めたとき、私たちはまだ、小学六年生だった。

 αのおかげで、日常のあらゆるストレスは消えたらしいし、αのおかげで、精神疾患で苦しんでいた人たちのほとんどは、治ってしまったらしい。

 そして、αを飲む前に深刻だったカスハラとか、パワハラとか、モラハラとか、ハラスメントもほぼ消えてしまったらしいし、いじめとか、自殺とか、殺人とか、そういうのも件数が激減したらしい。


 たった、2年くらいで日本はαによって、日常の些細なことの問題が消えてしまった。だから、国はαを全国民に提供できるようにと、αが無償化されることが決まった。

 αは、オーバードーズの心配もなく、非常に安全性が高いから無償化したって、ニュースで大臣が記者会見していたのをみたことがある。


 だけど、私はαを飲むことができない――。


「夏樹くんは自分で飲むのを選んでないんだ」

「だって、面倒じゃん。なくなったら、ドラスト行って買いに行くの」

「ティッシュとかと同じじゃん」

「だったら、なんで、沙羅ちゃんこそ、α飲まないの?」

 そう言われて、私だって本当は飲みたいんだよって言おうと思った。だけど、ふたりきりで話すのは今、この瞬間がほぼ、初めてだし、もし、クラスで私のことが広がったら、より居心地が悪くなるような気がしたから、私はまだ、夏樹くんのことが信用できないと思った。

 だから、私は残りのコーラを飲みきったあと、立ち上がり、座っている夏樹くんの方を見た。


「じゃあ、もういくね。私、用事あるから」

「そうなんだ。あ、待って。もしよかったら、メッセージでやりとりしよう」

 夏樹くんはスクバから、iPhoneを取り出したから、私は、それくらい教えてもいいかと思い、同じようにバッグから、iPhoneを取り出した。





「ぎゃはは、やばすぎでしょーーー」

 教室に入ると、泉沢彩花いずみさわあやかの大きくて甲高い声と、泉沢の周りにいる、相川美緒あいかわみお春木場陽菜はるきばひながゲラゲラ笑っていた。それを聞きながら、ドアを閉めていると、相川と目が合った。


「おはよー、サラタン!」

「だから、やめてよ。その呼び方」と私は相川に返すと、その返しに対して、何がおもしろいのかわからないけど、三人はゲラゲラ笑い始めた。

 この三人は泉沢の席に集まっていて、泉沢の席の斜めうしろが、私の席だから、私の視線は勝手にそっちのほうを見ていたにすぎなかった。

 三人が笑い続けているうちに、私は淡々と、自分の席まで歩き、そして、あっという間にたどり着いた。


「サラターン、昨日、夏樹となにしてたの? 楽しかった?」

 泉沢がニコニコしながら、聞いてきたから、あ、やっぱり、思ったよりすぐにバレてしまったんだと思った。もしかしたら、夏樹くんが勝手に言ったのかもしれないし、夏樹くんとふたりきりで、公園から、駅まで歩いているところを誰かに見られて、それが昨日の夜のうちに、噂がまわってしまったのかもしれない。

 朝から、最悪だ――。



「いや、別に」

「別にってことないでしょー、もう!」

 相川はそう言いながら、笑い始めると、三人もあわせて、また笑った。とにかく、みんな朝からハイテンションで嫌になる。元々、低血圧な私は朝は弱くて、普通にしんどい。ぼーとした頭のままだし、楽しい気持ちになんてなれない。

 αが始まってから、周りのテンションは朝から、ものすごく高い。そして、ありえないほど、うるさい。

 毎日、フェスでもやってるんじゃないかってくらい、毎朝、教室のなかはうるさい。


 私はすっと息を吐いたあと、席に座り、左側に視線を向けた。別にそっちを見るきなんてなかった。だけど、窓側で集まっている一軍男子のバカ笑いが聞こえて、思わず、視線を向けてしまったからだ。その軍団のなかに夏樹くんがいて、目があった。

 夏樹くんは笑いながら、私に向けて小さく手を振ってきたから、私も小さく振りかえしたあと、バッグを開けた。


「サラタンはさ、いつも『いや、別に』って言うよね」

 どんな気持ちでそんなこと、言ってるんだよ、それ。

「美緒、ウケるんだけど。ホント、いつも言ってるよねー。ねえ、サラタンは夏樹にも、そう言ったの」

「いや、別に」

「ちょっと、陽菜が先に言ってるじゃん」と泉沢がそう言うと、また、三人はゲラゲラ笑い始めた。春木場が『いや、別に』って言って、私のことをそうやって、茶化したことが余計にムカついた。だけど、少なくとも、この教室でイライラする感情を感じ取れるのは、私と、夏樹しか、もしかしたらいないのかもしれない。9割以上の人たちは、αのおかげで、そんな感情すら忘れているんだ、きっと――。


「それで、どうなの? サラタンは? 昨日、夏樹と一緒にいたの見たよ。付き合うの?」と三人のなかで一番最初に笑い終わった、春木場が、私に話しかけてきた。

 春木場は150センチくらいで小柄で、華奢で、整えた黒髪ショートボブが凛とした感じを出していて、なんとなく、近寄りがたいイメージを持っている。

 というか、私がそういうタイプの人間が得意じゃないのかもしれない。たまに腹の底ではなにを思っているのか、わからない不気味さと冷たさを感じるからだと思う。どうせ春木場もαを飲んでいるはずだから、そんな底しれないことなんて、考えていないかもしれない。

 だけど、私は春木場のことをいつも不気味に感じている。


「知ってるんだ」

「夏樹は、彩花の彼氏だよ? 知ってたんなら、ウケるんだけど」

 てか、夏樹くんが泉沢と付き合ってるなんて、今、知ったんだけど――。

 完全に私、とばっちりじゃん。


「ウケるー、だけど、友達でしょ? 友達に『いや、別に』って言うのは変じゃん」と泉沢が言うと、三人はまたゲラゲラ笑い始めた。

「男友達とふたりきりでそう言うこと言うのって、めっちゃ変だね」

「美緒も、そう思うよね。私だってすごく、そう思う。あーあ、早く彩花と夏樹、別れてくれないかなー」

「陽菜、ひどーい! マジでウケるんだけどー。腹筋バキバキになるわー」

 腹を抑えて、机に突っ伏し始めた、泉沢の後ろ姿を見ながら、私は何が起こっているのか、何に対して笑っているのか、これは本当に会話が成立していたのかわからなくなったから、一通り、バッグから道具を出したあと、バッグのファスナーを閉じ、椅子の背もたれにバッグを背負わせ、三人から、視線を逸らし、無理やり入れられた会話から抜けようとした。

 

「サラタン、まだ、終わってないから。私も夏樹のこと、気になってるんだよねー」

 春木場のその低い声に驚き、思わず私は春木場に視線を戻した。すると、春木場はニヤッとした表情をしたから、それが怖くて、私は結局、すぐに春木場から、視線を逸らした。


「えー、陽菜も夏樹のこと、好きなんだ! やっぱり、親友だと、同じ人のこと、気になるって本当だったんだ! テンションあがるわー!」

「じゃあ、美緒も夏樹のこと、好きになろうかな」

「いいね! じゃあ、彩花と美緒、そして、私とサラタン、四人とも夏樹の彼氏になればいいじゃん」

「――いや、別に。あっ」

「最高じゃん。みんな私の彼氏のこと、好きになってくれてありがとう」

 泉沢がそういい終わると、相川と、泉沢だけ、またゲラゲラと笑い始めたけど、春木場だけはニヤッとした表情を浮かべているだけだった。





 帰りのHRが始まる直前、春木場が私の机の上にメモを置いてきて、私はそれだけで、もう、嫌なことに巻き込まれてるんだと思い、胸の奥からじわっと冷たさを感じた。


 春木場を見ると、春木場はすでに、泉沢の机の前で、相川と泉沢の三人でバカ騒ぎをしていた。私は朝の出来事を授業中、ルーズリーフ一枚に、朝起きたやり取りを思い出せるだけ、書いてみた。

 そうすると、その文脈を冷静に眺めると、やっぱり違和感の中心は春木場だった。


 そして、私は確信した。

 春木場はαを飲んでいないことを。


 すっと、息を吐いたあと、折りたたまれたメモを開いた。メモには、こう書いてあった。

 

『話したいから、西浜海岸で話そう』 

 女ふたりで海で話すのかよ――。

 歩いて10分、わざわざ駅と逆側に行くのか。めんどくさ。


 そう思いながら、私はとりあえず、春木場の指示に従うことにした。






 西浜海岸は涼しかった。薄く高い雲に海は覆われていて、雲と雲の間から差し込む、黄色い日差しが沖にいるタンカーを照らしていた。私は自販機でボトルのカフェオレを買い、砂浜を眺めることができるベンチに座った。

 梅雨が始まりそうな、憂鬱な世界に感じるのに、何人かのサーファーが海に出ていて、サーフボードと一緒にじっくりと波を待っていた。


「αやってないんだね。やっぱり」

 左の後ろ側から、声がしたから、声の方を見ると、春木場がゆっくり歩いてきた。左手にはペットボトルのミネラルウォーターを持っていて、ブラブラとさせていた。

 そんな、春木場のことを見ている間に、春木場は、よいしょと言って、私の左隣に座った。


「そう言うってことは、春木場もなんだ」

「当たり前でしょ」

「春木場もα飲んでるのかと思ってた」

「あんなバカになるのなんて、私、ごめんだから。あんなの麻薬と同じでしょ」

「学校ではまともじゃないのに、意外と、まともなこと言うんだね」

「まともじゃない世界になったんだから、あのくらいじゃないと、やってらんないよ。朝のあの感じなんて、バカじゃん。そう思わなかった?」

「そう思ったけど、私のこと、バカにしないでよ」

「あぁ、ごめんね。ちょっと遊んじゃった」

 春木場にぶっきらぼうにそう言われたから、朝のダル絡みも相まって、余計イラついてきた。気持ちを落ち着かせるためにとりあえず、私はカフェオレを一口飲んだあと、すっと息を吐いた。


「朝のあれ、試せてよかったと思ってるんだ」

「え、私のこと、試したってこと?」

「違うよ、あんたじゃない」

「じゃあ、なにを試してたの?」

「αによる色恋の価値観を試してた。普通、自分の彼氏とみんなで仲良くしちゃおうって話になるわけないじゃん。そもそも泉沢だって――」

「まさかの名字呼びなんだ。裏では」

「――あんなの、もう、友達じゃない」

 風が吹いたあと、辺りは急に明るくなった。左側に座る春木場を見ると、黄色い日差しで、黒髪がキラキラしていた。それが、少しだけ綺麗にみえたから、普通に絵になってることに対して、嫉妬したくなった。

 いいよね、かわいいって。

 だけど、さっき春木場が静かにそう言ったから、本当にもう、関係性に一定の線引をしているんだって、思った。


「だって、『別れてくれないかな』って面と向かって、言っても笑い話になるんだから、世の中、イージーモード過ぎるよね」

「最初は私に敵意を持ってるのかと思ってたけど、あの言葉がずっと違和感だった」

 そう言ったあと、私はバッグから、朝の会話を書き起こしたルーズリーフを取り出し、それを春木場に渡した。


「へえ、すごいね」

 春木場が両手で持つ、ルーズリーフは風で端が時折、めくれた。上から順に文章を目でおい、さっき、春木場が言っていたところを見つけた。



・春木場 知ってる? 夏樹は、彩花の彼氏だよ?

・泉沢  だけど、友達に『いや、別に』って言うのは変じゃん

・相川  男友達とふたりきりでそう言うこと言うのって、変

・春木場 早く彩花と夏樹、別れてくれないかなー

・泉沢  ウケる、腹筋バキバキ!



 相川が『男友達とふたりきりでそう言うこと言うのって、変』ってところが、ホント、価値観ぶっ壊れてるなって思った。普通、友達にそんなこと言ったら、関係性なんて、簡単にぶっ壊れるでしょ。なのに、相川はそんなこと、簡単に言っちゃうし、泉沢はそれを疑問にすら思わず、人類兄弟って言わんばかりに、笑い話にして、この会話は終わった――。

 私だって、こんなバカげた価値観の中に入れたら、簡単に陽キャになって、昔よりも、鬱屈して暗い日々から、簡単に脱却できそうなのに。


「意外と、悪意があるよね」

「え、どこが?」

「腹筋のところ」

 ふっと、私は思わず弱く笑うと、春木場も同じように、ふっと笑ってくれた。

「非A界隈で、言われてた副作用のこと、試してみたかったんだよね」

「ヒエーカイワイってなに?」

「え、知らないんだ。αめっちゃ危険だよって気がついてる界隈。あんたもそうなのかと思ってた」

 そんなこと、私は興味がない。そもそも、私は明確なデメリットなんて知らない、むしろ――。

「私は、体質的にダメだって診断されたから、やってないだけだよ」

「体質?」

「そう、家族みんなで体質検査受けに行ったら、私だけ、α健忘症になる可能性、高かったの。だからやってない」


 α健忘症は、αが導入されてから、唯一の社会問題になっている。

 当時はそれほど、クローズアップされなかったけど、唯一の副作用として、報告されていた。もともと、うちの家族は、お父さんもお母さんもみんな慎重だから、世の中の人がほとんどが、受けなかった適合テストをお姉ちゃんと、弟と五人で受けに行った。

 4人とも問題なしだったけど、私だけ、セロトニン受容体に不適合因子が見つかった。だから、家族は昔よりも、幸せそうで、ニコニコしているのに、私だけがその中に入ることができなかった。


「あー、そういうことね。確かにα健忘症はアルツハイマーの80分の1しか、存在しないからね」

「詳しいね」

「私のお兄ちゃん、普通にα健忘症になって、今、施設に入ってるから。話せなくなったよ、うるさいくらいおしゃべり好きだったのに」

「そうなんだ――」

 もしかしたら、私もそうなっていたかもしれないなって、ふと思った。だけど、今の私にしてみたら、それすら、虚しさしかないように感じたから、とりあえず、カフェオレを一口飲んで、口いっぱいに甘さをしっかり感じることにした。


「お兄ちゃんだけじゃないんだ。お母さんも、家に帰ってこなくなったし、お父さんはそのことを深刻に考えないで、ヘラヘラ笑ってるだけ。全部、最低だよ」

「お母さん、遊ぶようになったの?」

「そう、新しい男といちゃついてる」

「そっか。なんか、それも普通のことになっちゃったよね」

「倫理は死んだからね」

 春木場は大きなため息を吐いたあと、ミネラルウォーターを一口飲んだ。ペットボトルはしっかりと濡れていて、冷たそうな雫が数滴、春木場のスカートを濡らした。


「だけど、みんな楽しそうだよ。私だって、こんな体質じゃなかったら、やりたかったな」

「そっか。沙羅って――」

「あ、今、サラタンって言わなかった」

「あんなふざけたあだ名で呼ぶの、嫌だからね。てか、話さえぎらないでよ。沙羅って、多数派になりたいタイプなんだね、二軍のくせに」

「二軍は余計でしょ。――私だって、α使って、一軍になって、普通の女子になりたかった」

「一軍なんて、バカの集まりだよ。ねえ、ひとつ聞いてもいい?」

「なに?」

「夏樹もα、やってないよね?」

「うん、昨日、カミングアウトされた」

「ふーん。あいつも変わってるね」

 夏樹くんが変わってるかどうかなんて、私にはもう、わからない。

 ただ、みんなみたいに陽気になれたら、悩みなんて、すべてなくなるのにって、後味の悪い、思いしか抱かなかった。





 家に戻っている間も、家でご飯を食べている間も、曇りがちな海で、春木場とやり取りしたことを、何度も脳内で再生していた。家族5人でご飯食べながら、いつも通りのハイテンションで、それぞれが所属しているいろんな社会の、いろんな面白い話を聞けるのは結構、ありがたいことなんだって、なんとなく思った。


 どう考えても、うちの家族の場合、αを私以外が飲み始めてから、みんなが笑顔になったような気がする。

 私と年子のお姉ちゃんだって、中学に入って、そうそう、いじめられてたみたいで、つらそうな顔をしていたけど、αを飲み始めてから、すっかり元気になったのを今でも、覚えているし、2つ下の弟だって、αのおかげでメンタルが強くなったのか、サッカーの試合で緊張しなくなって、本当に個人成績がよくなったらしい。

 お父さんも、仕事帰ってきたあとは、疲れ切ってて、無口になってなにも話さなかったのに、今は、会社で毎日ある、ランチミーティングのことばかり話している。お母さんはお母さんで、パートの職場で男の人に口説かれた話とか、職場でお菓子パーティーしたとか、そんな話をよくしている。


 自分の部屋に戻り、iPhoneを手に取ると、夏樹くんからのメッセージ通知が入っていた。 

 ベッドに寝転がり、メッセージを開くと、こう書かれていた。


『昨日は会ってくれて、ありがとう

 悪いけど、今週末、俺の家に来てくれない?』


 ストレートすぎる――。

 恋愛経験なんて、ほとんどない私はこのメッセージに対して、どうやって、返したらいいんだろう。

 普通だったらどうするんだろう――。

 

 とりあえず、メッセージを一旦閉じて、『男子 家に誘われた』で検索をかけてみた。

 『今どき家デートは最高のエンタメ! 誘われたらついていくしかない!』

 『男の子が家に誘うのは好きってことだから行っちゃおう』

 『男の子の本音は好き! 家デートに誘われたら嫌いなんてありえない』

 

 ダメだ――。やっぱり、全然、使い物にならない。

 私みたいに、不安に思う人っているのかな。しかも、夏樹くんは泉沢の彼氏なのに――。

 ため息を吐いたあと、私はブラウザを閉じて、再び、夏樹くんのメッセージを開いた。そして、思ったことを素直に聞いてみることにした。


『泉沢さんと付き合ってるんじゃないの?』

 すぐに既読がついた。そして、すぐに返信が帰ってきた。

『いや、今はただ、付き合ってることになってるだけだよ だから、大丈夫』

 ――そうなんだ。だけど、大丈夫はおかしいような気がする。

『見てほしいものがあるんだ 春木場と一緒に』

『なんだ、早く言ってよ いいよ』

 どうせ、αのことでしょ。って続けて打ち込もうと思ったけど、むやみに夏樹くんを傷つけるような気がしたから、やめることにした。


『むしろ、春木場とふたりきりが怖いから、見守っててほしい 

 沙羅ちゃんと、春木場って仲いいよね?』

 いや、良くないんだけど、別に。むしろ、さっき海でふたりきりで話さなかったら、断ってたかもしれない――。


『うん、いいよ』

 そう返すと、『ありがとう』と両手を合わせてるパンダのスタンプが夏樹くんから送られてきた。





 夏樹くんに言われた通り、夏樹くんの家の近くの駅に着いた。電車はなにもないみたいだけど、30分遅れているみたいで、結構混んでいた。昔だったら、イライラしてる人が多かったのかもしれない。だけど、車内の空気は緩んでて、みんなヘラヘラしていた。学校が終わったあと、制服から私服に着替えて、19時の待ち合わせに間に合うようにしたのに、結局、私の所為じゃないのに遅れてしまった。

 改札を抜けて、すぐに春木場と、夏樹くんがベンチに座っているのが見えた。夏樹くんが先に私に気がついてくれたみたいで、手を振ったから、思わず私も振り返した。

 ベンチの前にたどり着くと、夏樹くんはまた、優しく微笑んでくれた。

 

「よかった、来てくれてありがとう」

「ごめん、電車、なかなか来なくて」

「いいよ。沙羅ちゃんは悪くないよ」

「ごめんなさい」

「沙羅ちゃん、待っている間、春木場さんから、聞いたよ。沙羅ちゃんがα飲めないってこと」

「えっ」

 思わず、春木場を見ると、春木場はぶすっとした表情をして、むしろ私のことをなぜか睨んできた。


「いいじゃん。てか、なんで夏樹に言ってなかったの? 言ってるのかと思ってたんだけど」

「いや、あの――」

「沙羅ちゃん、春木場さんは悪くないよ。会話の流れてきに、そうなっただけだから、悪いのは俺だよ」

「ううん、いいよ、大丈夫」

「じゃあ、夏樹の家に乗り込もう」

 春木場はなぜかニヤッとした表情をしたから、それが普通に不気味だった。





 暗くなった、住宅街を三人で歩いて、比較的、新し目で大きな家の前に着いた。

 駅から、ずっと登り坂を歩き、ずいぶん高いところまで来たなと思った。周りの家も、大きくて、おしゃれな感じの家ばっかりで、こんな場所がこの街にあることすら知らなかった。坂道を登っていくほど、大きい家ばかりだったから、私は何に対してか、わからないけど、そんな大きな家を横目にするたびに、なぞに感心していた。


 夏樹くんの家は、白い塀に囲まれていて、黒い格子の門が付いていた。門の先に二段のコンクリートの段差があり、その先に白壁に黒い玄関扉がついていた。


「すごい、夏樹の家、お金持ちなんだ」

「うちの親、ろくでもないけど、建築会社の社長なんだ」

「家、新しそう」

「それでも、αが出るちょっと前くらいだよ。入って」

 夏樹くんは手慣れたように黒い門を開けてくれたから、私と春木場はゆっくりと、進み始めた。建物は左側に広がっているみたいで、左側にはうっすらとした闇が広がっていて、どこかの部屋から漏れている電球色に芝がかすかに照らされていた。私は思わずコンクリートの階段の一段目で立ち止まると、春木場も私の隣で一緒に立ち止まった。


「ほら、言った通りだろ。また、ろくでもないことやってる」

 夏樹くんは門を閉めたあと、芝のほうを指さした。

「ろくでもないことって?」

「玄関扉、開けたらすぐにわかるよ」

「夏樹、やっぱり、本当にいるかも」

 春木場が静かにそう言ったけど、私には何のことが、本当なのかわからなかった。

「かもな。さあ、入って」

 夏樹くんは、立ち止まっている私と、春木場の隣を通り過ぎ、玄関扉の前にたどり着くと、ピッという機械音がしたあとに重そうな玄関扉を開けてくれた。


 玄関ホールは予想通り、広かった。一面が黒のタイルで、そのタイルは電球色のLEDを反射していた。その先に広がる玄関ホールには白いタイルが広がっていて、それらも冷たそうに電球色のLEDを反射していた。

 だけど、黒タイルと白タイルの境目には、女もののパンプスや、ヒールがたくさん置いてあった。そんなこと、気にしてたら、奥から、たくさんの笑い声が聞こえた。


「こりゃあ、色気づいて、通い詰めるか。夏樹がこんな金持ちだと思わなかった」

「春木場さん、ろくでもない親が金持ちだと大変だよ?」

「夏樹くん、たくさん人いるのにいいの?」

「沙羅ちゃん、むしろ、それを見てもらいたくて来たからいいんだよ。さあ、上がって」

 上がりたくないなと思いながらも、もう、あとには引けない気がした。右側を見ると、大きそうなシューズクロークがあって、その先は闇だった。私がもたもたしている間に、夏樹くんと、春木場さんはもう、靴を脱ぎ終えた。そして、玄関ホールを歩き、左側の門を曲がっていったから、私はすっと息を吐いて、スニーカーを脱ぎ、ふたりの後ろをついて行った。


 玄関ホールを左に曲がると、急に広くて、開放的なスペースに出た。天井は一気に二階分くらいの高さになっているし、左側は二階分の高さのガラスが並んでいた。ガラスには、天井から吊るされている、丸くて白い照明の姿を外の闇に対して、綺麗に映っていた。

 そんなありえない光景に見とれていると、この空間には釣り合わないほどの、下品な笑い声が聞こえたから、そのほうをみると、L字の白くて長いソファーに大人たちが何人か座っていた。


「沙羅ちゃん。こっち」

 夏樹の声がした方をみると、夏樹くんと、春木場は、右側のオープンキッチンにもたれかかっていた。ソファに座っている大人たちはまだ、私達がこの空間にいることなんて気づいてなさそうだった。だから、別に悪いことなんてしてないのに、急に悪いことをしているみたいに感じて、私はできるだけ、足音を立てないように、そっと、夏樹くんと、春木場のほうへ向かい、そして、春木場の隣にたどり着いた。


「ちょっと沙羅、遅いんだけど」

「ごめん、こんな家、初めてだから」

「私だって初めてだよ」

「それで春木場さん、会いたかった人いる?」と夏樹くんはなぜかニヤニヤした表情を浮かべて春木場さんに聞いた。すると、春木場さんは、あれ。と言って、一人の女の人を指さした。

 L字のソファをあらためて見ると、男の人が真ん中にひとりいて、それ以外の7人は女の人だった。男の人を中心に女の人たちは別れていて、L字の短い方に3人座っていた。


「知り合いなの?」

「バカ、違うよ。αで色気づいたうちのママだよ。週四でこの家に来てるんだよ。家のことなんて忘れて」

「結構、通ってるんだね」

「そうだね。α飲む前は、俺んち、キャバレーじゃなかったんだけどなぁ」

 夏樹くんはそう言ったあと、ため息を吐いた。その間も、また、L字ソファの方から、大爆笑が聞こえた。その笑い声は私の学校のクラスでバカ笑いしているチンパンジーたちと、あまり変わらないように思えた。


「じゃあ、あれもαの所為ってこと?」

「そう、昨日、泉沢に試したでしょ。αによる色恋の価値観。それの大人版があれだよ」

「めっちゃ怖いんだけど」

「沙羅ちゃんの言う通りだよ。普通に考えたら、ありえないことだし、普通じゃないだろ。だけど、俺のオヤジの世界では、あれを毎日やるのが普通になったんだよ。妻子持ちで」

「そしたら、夏樹くんのお母さんは?」

「こんなどんちゃん騒ぎしてるのに、二階の自分の部屋で寝てる」

「人のお母さんのこと、悪くいいたくないけど――」

「ドン引きするだろ? 沙羅ちゃん。しかも、このキャバレーのこと、『いいことだね』って認めてるんだよ。マジで普通じゃないよな」

 大人もそういう感じなんだ――。

 私は自分の家のことしか知らなかったから、よその人たちが、αでこんなことになっているなんて知らなかった――。

 私がそんなことを、考えているうちに、隣にいる春木場はキッチンカウンターにもたれながら、するっと、床に座り込んだ。だから、私も春木場と同じように春木場の横に座り込んだ。



「ねえ、沙羅」

「なに?」

「あの母親、あー見えて、昔は子供思いだったんだよね」

「そうなんだ」

「だけど、α飲んでから、こんな本能丸出しの気持ち悪いやつになっちゃった。しかも、6歳の妹、ほっぽりだしてるんだよ。信じられる?」

「え、妹もいるんだ」

「10個下のね。そんなことはいいんだけどさ。妹が2歳のときから、家のこと、放置してこんなことしてるんだよ」

「じゃあ、春木場が妹のこと見てるの?」

 春木場は前を向いたまま、小さく頷いた。そして、細い両腕に力を入れて、両膝をぎゅっと、胸に寄せた。


「姉じゃ、母親代わりにはならないよ」

「――そうなんだ」

 私がそう言い終わるのと合わせて、夏樹くんも私と春木場と同じように、座り込んだ。

「なあ、俺たちが思う、普通ってもう戻らないのかな」

 夏樹くんがそう言い終わる寸前のところで、また、L字のソファの方から大爆笑がした。


「そういえば、昨日、夏樹くんが言ってた、泉沢と付き合ってることになってるって、どういうことなの?」

「あぁ、あれね。俺はあいつのこと、もう10回以上、振ったし、それでも、勝手に付き合ってる設定にされたから、別れ話みたいなこともしたけど、あいつが聞いてくれないんだよ。つまり、俺は一回もあいつからの告白をオッケーしてない」

「えっ、それって、ただのストーカーじゃん」

「そうだよ。だけど、お花畑すぎて、話、聞いてくれないんだよ。こっちがいくら拒否しても、あいつの中では、俺と付き合ってることになってる」

「私はそれを利用して、いろいろ、非Aで言われてること、実験させてもらったけどね」

「おいおい、春木場さん、ひどすぎでしょ」

「いいじゃん。もうαやってるやつなんて人じゃないんだから。沙羅だってそう思うでしょ」

「いや、別に」

「でたよ、『いや、別に』。便利そうだから、今度、私も使おうかな」

 春木場の悪意が感じられて、普通にムカついた。だけど、春木場は私がムカついていることなんて、きっと気にもせず、まっすぐと前を向いていた。きっと、春木場のお母さんをじっと見ているんだと思う。

 αでこんなに家庭を壊されてて、お母さんがあんな感じだったら、ムカつくだろうな――。


 そんな春木場のことをしばらく、黙ったまま見ていた。春木場の目は電球色の照明でキラキラしていたけど、虚しさを秘めているように見えた。

 もし、私が男の子だったら、思わず抱きしめちゃうかもって思うくらい、その姿はなぜか、とてもきれいに見えた。

 春木場はすっと、大きく息を吐いたあと、見上げた。

 そして、数秒間、上を向いたあと、また前を向いた。

「――さて、やろうかな」

 そう言って、春木場がすっと立ち上がった。そして、歩き始めた。


「おい、春木場さん。どこ行くんだよ」

 夏樹くんも立ち上がったのを見た時、夏樹くんと目があった。だから、私も立ち上がって、夏樹くんの後ろを歩き始めた。春木場はキッチンカウンターを右側に回り、そして、キッチンに入っていた。

 人の家のキッチンに勝手に入り込むのも、普通じゃないよって思いながら、私は春木場が何がしたいのか、いまいちわからなかった。


「へぇ、やっぱり、いい包丁だね」

 夏樹くんの後ろに続き、キッチンへ入ると、キッチンカウンターの収納の扉が開いていた。春木場は右手に包丁を持っていて、刃先を真上に向けていた。


「おい、やめろって」

「夏樹、ごめんね。よその家でやることじゃないけど、実際に見たら腹立ってきた」

「母親のこと見て帰るだけって、言ってただろ。やめろ」

「指図しないでよ!」

 またL字のほうから笑い声が聞こえてきて、春木場の怒鳴り声は簡単に消えてしまった。そして、春木場は、バタンと収納扉を閉じて、ゆっくりと歩き始めた。


「春木場、なにする気なの」

「うるさい! あんまり余計なこと言わないでよ! あんたは黙って見ててよ。普通が壊された家族の末路を」

 私は、思わず固まってしまった。夏樹くんも私と同じように動けずにいるみたいだった。そんな私たちの横を春木場がゆっくり歩いていく。包丁を逆手に持ったまま、刃を外側に向けて、ゆっくりL字ソファのほうに歩いていく――。


「夏樹くん!」

 私はわけがわからないまま、とりあえず、夏樹くんのことを呼んだ。だけど、夏樹くんは私の方を振り返らなかった。

「ねえってば!」

「ごめん、沙羅ちゃん。悪いけど、俺は止めたくないかも」

 夏樹くんは、今まで聞いたことないくらい、低くて小さい声でそう言った。

 だけど、それを聞いて、私はものすごく、腹の底からなにか熱いものを感じ、その熱が瞬間的に頭まで登るのを感じた。そのあとすぐに、私は夏樹くんの背中をどんと両手で突き、そして、少しよろけた夏樹くんの背中を右手で思いっきり叩くと、ようやっと夏樹くんは私の方を向いてくれたけど、夏樹くんの表情は戸惑っているように見えた。


「普通が好きなんでしょ! 普通じゃないこと、起きてるから。私たちが春木場のこと、普通に戻してあげないと!」

 もう、自分でもなに言っているか、わからない。だけど、言っている途中から、胸から、苦しさの黒さが逆流したような感覚がして、すぐに両目から涙が溢れしまっていた。


「そんなの、わかってるよ! 止めに行けばいいんだろ」

 そう言いながら、夏樹くんは走り出したから、私も夏樹くんの後ろを走り始めた。リビングをみると、春木場はL字ソファの正面に入り込んでいた。春木場の包丁の刃が揺れるたびに、反射する白い光が一瞬、チラチラした。

 こんな異常な状態なのに、L字ソファに座る大人たちは、さっきと、さほど変わらないままで、逃げる人なんて、誰一人もいないどころか、急に登場した春木場のことを面白がっているような会話が聞こえてきた。


「ママ! これがなんだかわかる?」

 春木場が大声で言っている途中で、ようやく、私と夏樹くんはL字ソファの正面に回り込み、春木場の後ろの位置についた。だけど、お酒のビンと、グラスがたくさん乗っている、ガラスのサイドテーブルに阻まれていて、まだ春木場との距離は近くて遠い。


「あら、陽菜じゃないの。一緒に飲もうよ。このおじさん、すごく可愛いんだよ」

「ちょっと、ちょっとー。おじさんはないよー。いつもみたいに呼んでよ。せーの」

「カズくーーーん!!!」と残り6人の女の人が一気にそう言ったあと、また大きな笑い声が響いた。


「きしょいな。オヤジ」

「いつもこんな感じなの?」

「週四でな。きついだろ」

「きついかも」

 私と夏樹くんが小声でそんなどうでもいいことを、話している間、春木場は黙ったままだった。そして、誰も春木場が包丁を持っていることを言わないし、危機感がまるでないように感じた。

 自分たちの前で、今、何が起きているのか、夏樹くんのお父さんも、6人の女の人も、そして、春木場のお母さんも理解していないように見えた。


「ママ。私ね、もう、ママのこと許せないの」

「許せないって、どんなことかわからないよー。それより、陽菜。私の隣に座りなさいよー。もう、いつも可愛いんだから」

「ふざけないでよ! 私、本当に許せないから」

「だーかーらー。許せないってどういうことかわからないよー」

「やっぱりバカになったよね。子育てほったらかして、私に任せて、寂しいって、泣いてるの無視して、自分は好き勝手にここで、男遊びして、酒飲んで、そんないい加減なこと、もううんざりなの」

「陽菜。可愛い子だね。ねえ、一緒に飲みましょう!」

「ふざけるなーーー!! 死ねーーー!!」

 叫び声を上げながら、春木場は春木場のお母さんに覆いかぶさったから、私と夏樹くんはほとんど、同じようなタイミングで、ガラスのローテーブルを乗り越えた。そして、あらゆる、酒びんや、グラスが倒れ、それらは床に落ち、割れた。

 靴下が濡れて気持ち悪かったけど、私はそんなことなんて、気にせず、春木場の、か弱い足に掴みかかった。ふと、上の方を見ると、夏樹くんがしっかりと、春木場の細い右腕を抑えていた。

 大人たちの笑い声がまた聞こえた。


「やめてよ!!」

 私と夏樹くんを振り払おうと、春木場はバタバタとしているけど、こんな、線が細い春木場を抑えるのは本当に簡単なことだった。

「やめろよ! 普通じゃなくなるだろ。春木場さんが」

「そうだよ。落ち着いて!」

「もう、私、普通じゃないのが嫌なのーーー!!」

 また、春木場が絶叫に似た、甲高い声がリビングいっぱいに響いた。だけど、大人たちは、なぜか笑っていた。


「笑うなーーー!! お前ら、αでおかしくなりすぎなんだよ!!」

 また、ぐっと春木場の両足に力が入るのを感じたから、春木場を抑えるために、私も、ぐっと全身に力を入れた。

「陽菜」

「最後になんか言いたいこと、あるのか!!」

「陽菜が生まれてきてくれて、私、本当に嬉しいんだ。こうして一緒にいられること、ママね、本当に最高だと思ってるんだよ。だから、いつも感謝してるし、陽菜のこと、愛してるよ」

 春木場の力が急に抜けるのを感じた。もう一度、上の方を見ると、夏樹くんが春木場から、簡単に包丁を奪い取った。そのあと、すぐに春木場の力は更に抜けて、気がつくと、春木場は、春木場のお母さんの腕のなかにいた。






「ごめんね」

「いいよ。春木場さんが、お母さん殺したかった気持ちもわかるから」

 三人でリビングをぐちゃぐちゃにしたあとも、大人たちは何事もなかったかのように、笑いながら、片付けをして、また、キャバレーが再開した。だから、私たちも、何事もなかったかのように二階にある夏樹くんの部屋に避難して、夏樹くんがキッチンから持ってきた、缶コーラ三本を中心に置き、私たちは円になって、フローリングに座っていた。

 夏樹くんの部屋は奥にベッドと机があるくらいで、シンプルだった。だけど、ベッドと机にスペースが取られている印象はなく、ひとり部屋としては十分すぎるくらい広かった。


「さすがに人を殺したら、ダメだよ」

 私は、すごく普通すぎることを言ったなと自分で思いながら、コーラを一口飲んだ。

「包丁持って、ママの前に立ったところまでは、本当に殺そうと思った。――だけど、殺せなかった」

「――どうして?」

 夏樹くんが春木場にそう聞くと、しばらく、部屋の中に沈黙が流れた。そして、沈黙の間にも、かすかに大人たちの笑い声が聞こえてきた。

「もう、普通だった過去には戻れないんだって、ふと思ったの。ママをじっと見たとき。あと、妹とお兄ちゃんの顔が思い浮かんだ」

「だけど、春木場、包丁振り上げたじゃん」

「勢いで一気にやったら、そういうのすべて忘れられるかなと思ったけど、無理だった。異常が普通の世界なら、私も異常者になろうと思ったけど――。なれなかった」

 そう言って、春木場もコーラを一口飲んだ。本当に殺人未遂をした直後なのかって、思うくらい、今の時間がものすごくゆっくりとしていて、バカ騒ぎもしていない、この三人の時間が、本当に穏やかに思えた。


「だから、私ね、普通に生きることにした。周りが異常だけど、なんとか生きてみることにしてみる」

「春木場、いいこと言うじゃん。普通が一番だよ。私もさっきの見て、αで陽キャになるって、大変なんだって思った。というか、今まで、α飲めば、私も普通になれるんじゃないかって思ったけど、なりたくなくなった」

「だよな。沙羅ちゃんの言う通りだわ。マジで」

「ねえ、夏樹くん、春木場」

 ふたりがほぼ同時に私に視線を向けたのがわかった。夏樹くんは疲れたような表情をしているし、春木場はまだ、目が赤くて、腫れぼったい顔だった。

 だから、私はこんな、ボロボロになったふたりを笑わせたくなった。


「普通って異常だね」

 そう言い終わると、また大人たちが大爆笑が聞こえた。




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