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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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6/6

第五幕半

一、日記

 ふと、秀兵衛は足を止めた。

 視線の先には、先ほど自ら斬り伏せた男の遺体がある。

 その懐から、何かが月光を弾いてかすかに光っていた。

 秀兵衛はゆっくりと近づき、その傍らにしゃがみ込む。

 血と土で薄汚れた衣の内に手を差し入れ、一束の紙を取り出した。

 指先に伝わるのは、乾いた古い紙の感触。端はぼろぼろに擦り切れ、幾度となく開かれたことを物語る折り目が深く刻まれていた。

 秀兵衛はそれをめくり、影の落ちる行間を辿るように目を細めた。

「ふむ……どうやらこれは、この男の日記らしい」

 低く呟き、掠れた声でその一節を拾い上げる。

「六月十五日。流行り病に罹ったと見られる男に薬を与えた。

 七月四日。薬は効く様子を見せず、そればかりか感染者は増える一方だ。

 七月廿八日。男は死んだように動かなくなった。村全体に病が及んでいる。……もう、斬るしかない。

 八月十一日。身体が焼けるように痛い。苦しい。……遂に私も罹ってしまったか」

 そこで言葉を切り、日記を閉じる。

「どうやらこの男は、風来の薬師として村々を渡り、病を食い止めようとしていたようだ。……だが、最後には自らも侵され、疫鬼の器にされてしまったのだろう」

 冷たい夜風が吹き抜け、墓地の草を寂しげに揺らした。男は最期まで人を救おうとし、救えぬ絶望と共に妖に堕ちたのだ。

 スミレはしばらく沈黙を守っていたが、やがて夜露に濡れたような、か細い声を漏らす。

「……そうですか。……治せない病なら、仕方ないですよね。……姉も、この方に斬っていただければ、あるいは……」

 言葉が、消え入るように途切れる。

 秀兵衛はわずかに眉を寄せ、彼女の横顔をじっと見つめた。その視線に宿る「何か」に気づいたスミレは、はっとしたように顔を上げ、取り繕うように慌てて首を振った。

「なんでもありません! それより、やはり秀兵衛さんも、ある程度は妖が見えるのですね」

 あまりに不自然で、あまりに唐突な話題の切り替え。

 その裏に隠された真意を問い詰めたい衝動に駆られたが、秀兵衛はあえてそれ以上踏み込まなかった。今はまだ、その時ではない。

 夜の静寂の中で、日記の束を静かに懐に収める。

「……ああ。そのことについては、町奉行所へ向かう道すがら、説明しよう」

 スミレは拒むことなく、素直に頷いた。

 二人は、死者の眠る墓地を後にする。

 深い闇の中、冴えざえとした月明かりだけが、点々と続く道筋を照らし出していた。

 重なり合う二人の長い影は、歩みを進めるたびに歪み、やがて静かに離れてはまた近づく。

 夜はまだ深い。

 しかし、江戸を覆っていた疫鬼の悍ましい気配は、もうどこにもなかった。

 秀兵衛とスミレは、銀色の月光に導かれるように、静まり返った街道を歩き出した。



 二人は深い夜の帳に包まれた町奉行所へと到着した。

 固い木戸を開けて中に入ると、立ち込める炭の匂いと紙の香。奥ではいつもの同心が、険しい表情で別の男と話し込んでいた。

 だが、秀兵衛の姿を認めるや否や、同心は話を切り上げ、重い足取りを軽くして近づいてくる。

「おお、秀兵衛か。待っていたぞ。……で、どうだった? 妖はいたのか?」

 「妖斬り」は公には存在しない、影の組織だ。太平の世において異形の存在を認めるわけにはいかない幕府にとって、彼らは「居ないはずの掃除人」である。だが、この同心のように実態を知り、裏で手を引く者は極少数ながら確かに存在する。

 奉行所という公の場でありながら、彼らの間には奇妙な密約が成立していた。

 秀兵衛は一歩前へ出て、周囲の耳目を意識しながら深く頭を下げた。

「ええ、おりました。本体は、ご教示いただいた村の近くの墓所に。旦那の貴重な情報のおかげで、迅速に仕留めることができました。心より感謝いたします」

 あえて衆人環視の中で大袈裟に礼を述べる。

 周囲の与力や同心たちが、何事かと聞き耳を立て、怪訝な視線をこちらに寄越してくる。彼らには、秀兵衛が「腕利きの密偵」か、あるいは「何らかの難事件を解決した協力者」に見えているのだろう。

 同心は周囲の視線を気にする様子もなく、豪快に笑って肩を叩いた。

「それは重畳! 骨を折らせたな」

 彼は懐から、革の巾着袋を取り出し、秀兵衛の手にねじ込んだ。

「これは前金だ」

 受け取ると、掌にずしりとくる硬質な重み。金貨と銀貨が、命の値段としては十分すぎるほどに詰まっていた。

「後日、念のために俺の方で村を回って状況を確かめておく。成果料はその時だ。……まあ、お前のこれまでの働きを見れば、疑う余地などないのだがな」

 同心はそう言いながら、横目で周囲の詮索好きな同僚たちを鋭く見据え、わずかに顎を引いた。

 ――これ以上は立ち入るな。

 その無言の圧力は、秀兵衛という牙を隠し通すための彼なりの気遣いでもあった。

 用は済んだ。秀兵衛はもう一度深々と礼をし、奉行所を辞した。

 

 月は天頂へと昇り、江戸の町は銀色の静寂に沈んでいる。

 舗装された石道を二人の足音だけが規則正しく叩く。しばらく無言で歩いた後、秀兵衛は隣を歩く影に問いかけた。

「スミレ。お前、この先はどうするつもりだ?」

 スミレは足を止め、夜空を仰いで少し考え込んだ。

「復讐は終わったが、住む所は相変わらず無いのだろう?」

 その問いが核心を突いたのか、彼女はゆっくりと視線を落とし、裾をぎゅっと握りしめた。

「……そうですね。……また、一人ぼっちです」

 夜の冷気に溶けてしまいそうなほど、か細い声。先ほどまでの「視る者」としての鋭さは消え、そこにはただの、行き場のない少女が立っていた。

 秀兵衛は、仮面の下で小さく溜息をついた。

 彼女を放り出すことは、今の自分にはできなかった。それが打算か、あるいは消えかけた人間としての情か、自分でも判然としない。

「なら、ウチでしばらく面倒を見てやる。……ただで置くわけにはいかない、仕事は山ほど与えるぞ。それでもいいか?」

 一瞬、江戸の風すら止まったかのような静寂が流れた。

 次の瞬間。

「はい、よろしくお願いします!」

 スミレの顔が、陽が昇ったかのようにぱっと明るくなった。

 満面の笑み。そこには先ほどまで纏っていた暗い執念も、冷徹な殺気も微塵も感じられない、どこにでもいる年相応の少女の表情があった。

 秀兵衛は眩しそうに、少しだけ目を細める。

 その正体も、目的も、完全に信用したわけではない。だが、冷え切っていた己の心の一部が、彼女の笑顔によってわずかに解れ始めていることに、彼は気づいていた。

 夜風が、新しく生まれた「家族」のような二人の間を穏やかに吹き抜ける。

 遠くで犬の鳴き声が、平穏な夜の訪れを告げるように響いた。

 本拠地へと続く道は、月明かりに照らされ、どこまでも白く輝いて見えた。



二、新しい日常

 それからの日々は、静かに、だが確実に色を変えていった。

 秀兵衛は、必ずスミレが寝静まってから横になるようにした。囲炉裏の火が小さく爆ぜ、彼女の穏やかな寝息が一定のリズムを刻むまで、暗闇の中で決して目を閉じることはない。耳だけを極限まで研ぎ澄ませ、僅かな物音にも意識を向ける。

 夜の木材が軋む音、風に揺れる戸の震え、遠くで響く犬の遠吠え。そのすべてを「敵」か「否」か選別し終えてようやく、彼は浅い眠りに落ちる。

 そして朝は、必ず彼女より先に起きた。

 東の空が白む前、夜の残滓が漂う頃に目を覚ます。音を立てぬよう布団を抜け、足の裏に冷たい床の感触が伝わる頃には、すでに全身の感覚を完全に覚醒させている。

 ――まだ、信用はしていない。

 寝首を掻かれぬための、最低限の生存本能だった。

 食事もまた、ほとんどを秀兵衛が担った。

 米を研ぎ、火の加減を見ながら一粒一粒を炊き上げる。味噌を溶き、干物を焼く。包丁を握るその指先は、戦場に立つ時と同じく、一切の無駄がない。

 スミレに許すのは、野菜や魚を切る程度の雑用のみ。鍋の前には決して立たせなかった。

 ――毒を盛られぬため。

 あまりに露骨なその警戒を、彼女は敏感に察しているのだろう。だがスミレは何も言わず、ただ淡々と、頼まれたことだけを丁寧にこなしていた。

 日中の彼女の仕事は、薪割りや洗濯だった。

 裏手に積まれた丸太を前に、最初は不慣れだった斧の扱いも、瞬く間に板についた。振り下ろす軌道に迷いがなく、乾いた音とともに薪が鮮やかに割れる。

 意外なほどの筋力。

 その細い体のどこに、これほど力強い一撃を秘めているのか。秀兵衛は時折、遠目にその姿を観察し、思考を巡らせる。

 ――孤独で生きてきたゆえの術か。それとも、血筋がもたらす別の「異能」か。

 昼間、秀兵衛が船頭として川に出ている間は、受付と帳簿を任せた。客から代金を受け取り、帳面に記録をつける。文字は決して流暢ではないが、一筆一筆に迷いがなく、実務をこなすには十分だった。

 最初は客の視線を避けがちだった彼女も、次第に場の空気に馴染み、常連客と短い挨拶を交わすようにさえなっていた。

 夜。妖斬りの依頼がない日は、二人で鍛錬を重ねた。

 月明かりが青白く照らす庭で、小刀を持たせて向き合う。足の運び、間合い、重心の沈ませ方。

「振りは小さく、しかし鋭く放て」

 秀兵衛が教える動きを、スミレは吸い込むように吸収していった。まだ技術としては浅い。だが、無駄を削ぎ落とす早さは、天性の資質を予感させた。

 妖斬りの依頼が舞い込んだ際、秀兵衛は迷わず彼女を同行させた。

 本来ならば、戦う力のない者を連れ歩くのは自殺行為だ。守るべき対象が増えることは、剣士にとって最大の足枷となる。

 だが、今の彼にとって、彼女を一人で拠点に残すことこそが最大の懸念だった。

 ――背に腹は代えられぬ。

 最初のうちは、夜の路地や廃屋に巣食う小妖(しょうよう)ばかりだった。だが、彼女を連れたことで戦いは劇的な変化を遂げる。

 スミレは後方で「眼」となった。秀兵衛には見えぬ妖の気配を察知し、その座標を正確に告げる。

「左奥、三歩先。……今、消えました!」

「右の軒下。もう、飛びます」

 それは、新しい「視界」だった。

 集団で現れる妖に対しても、以前のような死角は存在しなくなった。背後からの奇襲を未然に防ぎ、敵が動き出す前に剣を置いておくことができる。

 ある夜、数多の小妖を斬り伏せた後。血の匂いが冷たい夜気に溶けていく中で、秀兵衛はふと己の手元を見つめた。

 以前よりも、遥かに戦いやすい。

 それは単なる技術の向上ではなかった。かつて妖斬りの仲間を信じていた頃にさえなかった、研ぎ澄まされた一体感。

 背後に、自分とは違う「眼」がある。

 その存在が、静かに、しかし確実に彼の剣をより鋭く、冷徹なものへと変貌させていた。



三、雨音と茜色

 昨夜から降り続く雨は止む気配がなく、隅田川や江戸川は濁流となって咆哮を上げていた。

 水位は危険なほどに高まり、流れは荒れ狂う。朝早くから川岸に集まった船頭たちの顔も険しく、協議の結果、本日の運行は大幅に制限されることとなった。

 くじ引きの結果、秀兵衛とスミレは非番となった。

 先日、同心から受け取った成果料は、懐を重く満たしている。たまには殺気も剣も忘れ、ただ流れる時間に身を任せるのも悪くない。そう思い、秀兵衛は重い腰を上げた。

 支度を整えようとして、ふと隅で片付けをするスミレに目をやる。

 出会った時から変わらぬ、土埃と苦難に晒されてきた粗末な衣。幾度も洗濯を繰り返したせいで色は褪せ、袖口には細かなほつれが目立っている。丁寧に扱われてはいるが、年頃の娘が纏うには、あまりに不憫な代物だった。

「……少し町へ出るぞ。付き合え」

 秀兵衛の声に、スミレは短く返事をして傘を手に取った。

 雨の江戸は、しめやかな静寂に包まれていた。

 屋根を打つ単調な雨音、濡れた石畳を叩く下駄の音、行き交う人々の蛇の目傘。店先には雨除けの藍染めが張られ、煙るような街並みに提灯の灯りが淡く、暖かく揺れている。

 二人は番傘を差し、肩を並べて軒下の見世棚を巡った。

 濡れた木の香りと、どこかの台所から漂う煮物の匂いが、雨に溶けて鼻腔をくすぐる。

 しばらく無言で歩いた後、秀兵衛は独り言のように口を開いた。

「スミレ、新しい着物を着たくはないか?」

 スミレが、弾かれたように隣を振り向く。

「欲しければ一つ買ってやろう。……好きなものを選べ」

 彼女は一瞬、言葉を失ったように目を丸くした。それから、内に灯火が宿ったかのように顔を輝かせる。

「いいんですか? ……ありがとうございます!」

 その混じりけのない歓喜に、秀兵衛は照れ隠しのように小さく頷き、足早に古着屋の暖簾をくぐった。

 店内には、木綿や絹、色とりどりの着物が所狭しと並んでいる。

 スミレは迷う様子を見せながらも、一つ一つを慈しむように見て回った。指先で生地の厚みを確かめ、目を凝らし、鏡の前で何度も見比べる。その真剣な眼差しは、妖を追い詰める時とは全く別の、清らかな光を宿していた。

 やがて、彼女はある一着の前で足を止めた。

「……あれが、良いです」

 それは、深い茜色の地に、雪のような白の模様が控えめに散らされた木綿の着物だった。派手すぎず、だが芯の強さを感じさせる上質な品。彼女の性格を写したような一着だった。

 秀兵衛は一度それを見て、迷わず懐から小銭を取り出した。

「旦那、これを頼む」

「あいよ。……妹さんかい?。気前のいい男はモテるぜ、兄ちゃん」

 店主の清々しい笑みが返ってくる。それが商売上の追従であっても、今の秀兵衛には悪い気はしなかった。

 家路を急ぐ道中、雨足は幾分弱まっていた。

 拠点に戻ると、スミレは早速奥で新しい着物に袖を通した。

 しばらくして、衣の擦れる音と共に彼女が出てくる。

 鮮やかな茜色は、彼女の透き通るような白い肌に驚くほどよく映えていた。これまでの「汚れを知る少女」から、どこか気品のある「柔らかな女性」へと、印象が劇的に変わっている。

 スミレは嬉しさを抑えきれない様子で、その場でくるりと一回転した。茜色の裾がふわりと円を描き、雨上がりの湿った空気を優しく揺らす。

「……似合っていますか?」

 少し遠慮がちに、だが確かな期待を込めて彼女が訊く。

 秀兵衛は、思わず口元を緩めた。

「……ああ。似合っているよ」

 その刹那、スミレは春の日差しのような笑みをこぼした。

 囲炉裏の火が爆ぜ、二人の影を茜色に染め上げる。

 それは、この歪な場所で生まれた、初めての穏やかな「家族」の光景だった。


 午後。

 外ではまだ、粘りつくような雨が降り続いていた。囲炉裏の火はいつの間にか小さく揺れ、湿った空気の中に、爆ぜた薪の微かな匂いが漂っている。

 秀兵衛は膝を折り、低い机の前に静かに座っていた。手元にあるのは、先日斬り伏せた「器」――あの薬師が遺した日記だ。

 紙は血と土に汚れ、ところどころが擦り切れてはいたが、綴られた文字は驚くほど端整であった。薬師という職ゆえの教養か、あるいはその男の生真面目な性分か。筆運びは穏やかで、一画一画に慈しみさえ感じられる。

 秀兵衛は一文一文、指の腹でなぞるように読み進めていた。

 欠落した箇所が多く、慎重に文脈を繋がねば意味が通らない。だが、その過剰なまでの慎重さが、ある一節を鋭く浮き彫りにした。

「……っ」

 手が止まる。

 思考が凍りつき、視線が紙面の一点に縫い留められた。

 秀兵衛は、確かめるようにその行を低く音読した。

「三月廿六日。近くの村が一晩にして壊滅したとの報せあり。伝え聞くところによれば、その村は一面、底知れぬ泥に覆われていたという。名を――『亀井村』と呼ぶらしい」

 ――亀井村。

 その名が、頭の奥底で鐘のように重く響いた。

 胸の奥で、古い傷口が引き絞られるような痛みが走る。

 どこかで聞いた名だ。

 いや、知っている。身体が覚えている。

 だというのに、なぜ、今この瞬間まで忘却の彼方に追いやっていたのか。

 一晩にして壊滅。

 一面の泥。

「……泥……」

 脳裏に、濁った茶褐色の色が滲み出す。

 足元が底なしに沈み込んでいく感覚。耳を劈く絶叫。

 指先から滑り落ちた、小さな竹とんぼ。

「――はっ」

 秀兵衛は思わず息を呑み、日記を握る手に力がこもった。

 思い出した。

 亀井村。それは――自分が生まれ、育ち、そして全てを失った故郷の名だ。

 あの夜。

 山が唸りを上げ、地が崩れた。溢れ出した泥が濁流となって家々を呑み込み、村の息の根を止めたのだ。

 目の前で無残に潰れる家。必死に手を伸ばしても、二度と届かなかった家族の体温。

 なぜ、今までこれほど鮮明な光景を忘れていたのだろう。なぜ、思い出そうとしなかったのか。

 胸のざわつきは止まらない。あの日、地獄のような泥の中で、自分は確かに――「誰か」と出会ったはずだ。

 泥にまみれ、死を待つばかりだった己の耳元で、静かに語りかけてきた男。

 だが、その顔だけが、どうしても思い出せない。

「あの男は……一体、何者だった……」

 記憶の輪郭だけが鋭利に残り、肝心の中身が抉り取られている。まるで、何らかの巨大な意思によって、意図的に削り取られたかのように。

 あの日の真相を知りたい。あの泥の正体は何だったのか。

 今すぐにでも、地図から消えたはずの亀井村へ向かいたい衝動に駆られる。

 復興はなされたのか。生き残った者はいるのか。そして、あの夜に泥の中を平然と歩いてきた男の正体は。

 知りたいことは、深淵の底に沈む石のように数えきれない。

 だが、秀兵衛は震える指先で日記を静かに畳んだ。

 込み上げる感情を鉄の檻に閉じ込めるように、深く、長く、息を吐き出す。

「……今夜、か」

 町奉行所からの依頼、あるいは「淵」の気配。妖斬りとしての責務を放り出すわけにはいかない。

 もし、今夜このまま何事も起きなければ――。

 その時は、過去という名の泥濘へ足を踏み入れよう。

 外では、雨が少しずつ弱まっていた。雲の切れ間に、わずかな光が兆している。

 この様子なら、夜には止むだろう。

 囲炉裏の火が、最期の一踏ん張りのようにぱちりと力強く弾けた。


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