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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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第五幕

一、常闇の残響

 秀兵衛がアヤメを斬った夜の翌朝。

 夜の狂乱が嘘のように、東の空から白々とした陽光が差し込んだ。しかし、妖斬りの本拠地には、焦げた木材の腐臭と、乾ききらぬ血の鉄錆びた匂いが重く淀んでいた。

 秀兵衛は夜明け前から起き出し、瓦礫の山を一つひとつ黙々と片付けていた。焼け落ちて炭化した梁を運び出し、まだ使えそうな板を選り分け、崩れかけた壁を仮の支柱で繋ぎ止める。

「……っ」

 手のひらはすでに豆だらけで、裂けた皮膚から滲む血が泥に汚れ、鈍い痛みを訴えていた。だが、秀兵衛はそれすらも意識の外へ追いやっていた。ただ、骨がきしむほど身体を酷使している間だけ、胸の空洞を埋め尽くそうとする「余計な思考」が薄れる気がしたのだ。

「淵鵺、か……」

 ぽっかりと空いた胸の中で残響する一つの単語。昨夜、アヤメが死の間際に吐き出した言葉だった。おそらく、彼女の産みの親だろう。だとするならば、それは正しく、妖斬り壊滅へと導いた、妖の親玉というべきものだろう。しかし、「淵鵺」という単語は同心から聞いた覚えはない。江戸のどこかで居を構えて、自らは裏で糸を引くことに徹しているのだろうか。なんにせよ、情報収集が必要だ。

 陽が高くなると、作業を切り上げて川へと向かう。

 かつて仲間たちが、ある者は冗談を飛ばし、ある者は欠伸をしながら担っていた川渡し。それをただ一人で続けていくこと――それが、言葉を持たぬ彼なりの弔いの形だった。

 川面はどこまでも穏やかで、昨夜の惨劇など知らぬ顔で光を反射している。秀兵衛は舟を押し出し、重い櫂を取った。水を切る一定の音だけが、淡々と繰り返される。

 客を対岸まで運び、手渡されたわずかな銭を受け取る。それで粗末な握り飯を買い、口に運ぶ。だが、何を噛み締めても、味は砂を噛むように無機質だった。咀嚼し、飲み込む。それはもはや食事ではなく、ただこの「異質な肉体」を維持するための、空虚な作業の一部に過ぎなかった。

 夜が来れば、闇に紛れてやってくる同心から妖の報せを受け取る。

 提灯の灯りを頼りに街外れや湿った山道へと赴き、人知れず怪異を屠る。かつてはそこにあったはずの恐怖も、正義感も、あるいは復讐の火照りさえも、今では義務という名の灰に変わっていた。

 刃を振るい、妖の返り血を浴び、呼吸を整え、帰る。

 それだけだ。そこにはもはや、剣劇の昂ぶりなど微塵も存在しなかった。

 もし報せがなければ、独り、本拠地で復興作業の続きに没頭する。

 青白い月明かりの下で木材を組み上げ、屋根を葺き、壊れた門を据え直す。静寂の中で木槌を振っていると、ふと背後に、誰かの気配を感じることがある。

 豪快な笑い声や、冷淡な視線。親しげに肩を叩く手の感触。

 振り返れば、そこには冷たい月光が瓦礫を照らしているだけだ。それでも、彼は振り返る癖をやめられなかった。

 眠りは常に浅く、閉じた瞼の裏にはいつも同じ光景が焼き付いている。

 立ち上る炎、仲間の断末魔、そして――灰となって消えた女の横顔。

 目覚めれば、まだ星の残る夜明け前。

 秀兵衛は再び立ち上がり、泥に汚れた手で、昨日の続きを始める。

 昼は船頭として生計を立て、夜は名もなき修羅として妖を斬り、あるいは壊れた「居場所」を独り再生し続ける。

 それが、半分妖へと堕ちた男に許された、贖罪のすべてだった。

 時に、船頭の仕事は舟を漕ぐだけでは務まらない。長い川を渡るあいだ、客を退屈させぬよう、世間話を交わすのもまた役目であった。天気の話、近頃の物価、町の噂話。どれも取り留めのない内容だが、客にとってはそれが一種の「安心」という名の重石になる。舟の揺れと水音に紛れ、言葉は実体のない泡のように流れていく。

 秀兵衛は、かつてはそうした雑談が得意ではなかった。言葉の機微を拾うよりも、剣の理を解く方が性に合っていたからだ。だが今では、必要に迫られ、角の立たない無難な受け答えを身体に覚え込ませていた。自分の内面に決して踏み込ませぬ程度に相槌を打ち、適当な問いを返し、貼り付いたような笑みを作る。感情を一切伴わぬその作業は、闇の中で剣を振るうのと同じく、ただ磨き上げられた「技」のひとつになっていた。

 ある日の昼下がり。空は高く澄み渡り、川面には柔らかな陽光が粉々に砕けて揺れていた。舟には数人の客が乗っている。商用と思しき町人風の男がひとり、大きな荷を抱えた女がひとり、そして――年若い、十代半ばほどの少女がひとり。少女は口数が少なく、乗船した時から一言も発さず、ただ静かに座っていた。

 川の半ば、流れが最も深くなる頃。男がふと、思い出したように声を上げた。

「そういや、源次郎さんはどうしちまったんだい? 最近、ちっとも見ないが」

 櫂を引く手が、ほんのわずかに止まりかけた。

 だが次の瞬間には、何事もなかったかのように再び水を掻く。静かな波紋だけが、秀兵衛の動揺を飲み込むように広がった。

 源次郎たちが死んでから、表向きの川渡しを維持するために新しい船頭を数人雇い、人数だけは揃えていた。だが、昔からこの渡しを使う常連は、船頭の顔も名も覚えている。いずれ問われる時が来るとは覚悟していた。それでも、こうして不意にその名を突きつけられると、胸の奥底に鉛のような冷たいものが沈んでいく。

 秀兵衛は視線を川面に落としたまま、凪のような声で答えた。

「……彼は最近、酔っ払った末に高所から落ちて、大怪我を負ったそうです」

 口にした瞬間、自分でもそれがひどく稚拙で即席の偽りだとわかった。だが、今の彼の声は震えず、言葉も淀みなく続いた。皮肉なことに、妖の力は彼に「完璧な仮面」を与えていた。

「命に別状はないようですが、腰をやりましてね。しばらくは、働けぬとか」

「なんだ、そうかい。あの人、酒が強いくせに無茶するからなあ」

 男は苦笑し、いかにも源次郎らしいと納得したように頷いた。女も「気の毒にねえ、しっかり養生しなきゃ」と相槌を打つ。話題はすぐに別の噂話へと移っていった。舟の空気は、何事もなかったかのように、緩慢な「日常」へと戻る。

 秀兵衛は淡々と櫂を動かし続けた。川は静かで、風も穏やかだった。

 だが、胸の奥だけが、泥を飲んだように重い。嘘を重ねるたび、自分がどこへ向かっているのか、何を繋ぎ止めようとしているのかがわからなくなる。それでも、この平穏を守るためには、真実を血反吐と共に飲み込むしかなかった。

 やがて舟は対岸へと近づく。岸辺の土が見え始め、水の流れが緩やかになる。

 その時だった。

 ふと、射抜くような視線を感じ、秀兵衛は顔を上げた。

 少女が、じっとこちらを見ていた。

 瞬きもせず、まるで秀兵衛の着物の下に隠された異形の刻印や、凍りついた魂の芯までを見透かすかのような、あまりに澄んだ眼差し。

 秀兵衛が視線を返すと、少女は何も言わない。ただ静かに、彼という「存在」の揺らぎを眺め続けていた。




 数日後の夕方。

 空は燃えるような茜に染まり、川面には長く伸びた影が、黒い蛇のように身をよじらせていた。今日の渡しも、これで最後である。対岸――血と灰にまみれた妖斬りの本拠地がある方角へ戻る舟に、数人の客が乗り込んできた。

 その中に、あの顔があった。

 少女だ。前回と同じように静かに乗り込み、隅に腰を下ろす。周囲を観察するように巡るその視線は、幼さに似合わぬほど冷徹で、落ち着き払っていた。秀兵衛は気づかぬふりをして櫂を握ったが、胸の奥で小さな違和感が棘のように疼いた。

 舟が岸を離れ、夕闇の静寂に櫂の音だけが規則正しく響く。

 やがて、ひとりの客が世間話の延長で口を開いた。

「そういや、源次郎さんはどうしちまったんだ? 今日も姿が見えねえが」

 その言葉に、空気がわずかに凝固した。

 まただ、と秀兵衛は奥歯を噛み締める。何度聞かれても慣れることのない問い。櫂を握る手に、不自然な力がこもる。

 ――また、あの「怪我をした」という嘘を、吐くしかない。

 そう覚悟し、重い口を開こうとした瞬間だった。

「源次郎さん、高熱を出して倒れているのでしょう? 最近流行りの病で」

 少女の鈴を転がすような声が、静かに、しかし鮮やかに割って入った。

 秀兵衛は思わず視線を向けた。少女は穏やかな笑みを浮かべている。しかしその瞳の奥にあるものは、凪いだ海のように底知れず、試すように秀兵衛の芯を射抜いていた。

 なぜ、この娘がそんなことを。

 混乱が脳裏をかすめるが、周囲の客はすでに彼女の言葉を真実として受け取り、秀兵衛に同意を求めていた。少女の放つ静かな圧に背を押されるように、秀兵衛は辛うじて頷く。

「……ええ。そうです。流行り病です」

「やっぱりな。あんなに元気だった源次郎さんを寝込ませるとは、厄介な流行りだ」

 客たちは納得し、話題はすぐに別の噂話へと流れていく。舟の空気は再び和らぎ、夕暮れの平穏が戻った。だが、秀兵衛の内側だけは、濁流のようなざわつきが収まらなかった。

 対岸に着き、客たちは各々の家路へと散っていく。

 夕焼けの残滓は消え、辺りには夜の冷気が忍び寄り始めていた。

 だが、少女だけが動かなかった。舟の上に留まり、秀兵衛を見上げる。

「私、行くアテがないんです。お金もありません。……だから、しばらく秀兵衛さんの家に泊めていただけませんか」

 あまりに唐突で、不自然な申し出。秀兵衛は眉をひそめ、拒絶を突きつける。

「申し訳ないですが、それはできません。私とて余裕はないのです」

 少女は少しだけ目を細め――そして、くすりと笑った。

 その柔らかな笑みの中に、隠しきれない毒が混じる。

「そうですか。……では、これはどうですか?」

 彼女はゆっくりと首を傾げた。その動作一つにさえ、得体の知れない重みが宿る。

「源次郎さんって……本当は病気でも、大怪我をしているわけでもありませんよね?」

 心臓が、鐘のように大きく脈打った。

 仮面の下で血の気が引く。だが秀兵衛は、崩れかかる「人としての貌」を必死に繋ぎ止め、首を振った。

「……彼は、確かにそう言っていました」

「まだ否定しますか。……分かりました。これで納得いただけないのであれば、私も大人しく引きましょう」

 彼女は一拍の沈黙を置き、夜の帳の中で、決定的な言葉を紡いだ。

 「私、あやかしが見えるのです」

 周囲の空気が一気に凍りついた。

「……そして、今のあなた。あなたの身体からも、普通の人には見えない『濁った糸』が溢れています」

 少女の瞳が、暗闇の中で獣のように澄んで見えた。

「本当のことを話しますか。それとも……私をこの川に沈めますか?」



二、スミレという少女

「来い」

 短く告げると同時に、秀兵衛はスミレの細い手首を掴んだ。

 夜の帳が完全に下りた渡し場には、もはや物言わぬ川のせせらぎしかない。ここで長く問答を続けるのは、あまりに無用心だ。秀兵衛は抵抗する隙も与えず歩き出し、少女は驚いた様子もなく、むしろ慣れた足取りでその背に従った。

 道中、秀兵衛は鉄の仮面を被ったかのように一言も口を開かなかった。

 頭の中では、千々に裂かれた最悪の可能性が猛火となって渦巻いている。

 ――あまりに出来すぎている。

 ――淵鵺が送り込んだ、新たな「毒」か。

 ――あるいは、アヤメのように、懐に潜り込んでから全てを腐らせるための駒か。

 しかし、彼女が放った「妖が見える」という言葉の、あまりに澄んだ響きが意識の端にこびりついて離れない。あの時の眼差しは、死を前にした者の覚悟、あるいは全てを悟った者の諦念に近いものだった。

 やがて、本拠地の外れに辿り着く。

 外から見れば、ただの荒れ果てた朽ち木のような古屋。だがその周囲には、秀兵衛が心血を注いで施した隠形おんぎょうの細工と結界が張り巡らされている。

 秀兵衛がいくつかの符を指先でなぞり、結界を解くと、大気がわずかに震え、隠されていた「道」が姿を現した。

 その瞬間、スミレの目が、ほんの少しだけ大きく見開かれた。

 ――やはり、見えている。

 常人には決して知覚できぬ「世界の歪み」を、彼女は確かに捉えていた。秀兵衛は内心の警戒を最大まで引き上げ、重い戸を押し開けた。

「入れ」

 板張りの部屋に上げると、まず火を起こした。爆ぜる火の粉が、互いの影を壁に不気味に揺らす。秀兵衛は手早く、粥とわずかな干し魚を盆に乗せて差し出した。

 毒を疑われ、拒絶されるならそれでも構わない。むしろ、それこそが彼女の正体を見極める試金石となる。

 だが、スミレは迷いなく椀を受け取ると、静かに口に運んだ。

 空腹を装って貪ることも、怯えて震えることもない。その箸運びは、どこか育ちの良さを感じさせるほどに洗練され、上品だった。

 食べ終えると、彼女は椀を丁寧に置き、凛と背筋を伸ばした。

「スミレと申します」

 秀兵衛は腕を組み、仮面の奥の瞳で彼女を射抜くように見据えた。

「お前は何者だ。……隠し事は通用せんぞ」

 もはや船頭としての温和な仮面を被り続ける必要はない。声には、妖を討つ際の冷徹な殺気が滲み出ていた。

 スミレは、少しだけ困ったように眉を下げ、微笑んだ。

「どうやら私は、代々、妖が見える家系らしく……。血の呪いというべきでしょうか、私もそれを継いでしまったようなのです」

 秀兵衛は沈黙したまま、彼女の挙動を、呼吸の一つ一つを観察した。

 確かに、かつての妖斬りの中にも「視る」ことに特化した血筋は存在した。だが、それらはすでに淵鵺の襲撃で絶え、あるいは散り散りになったはずだ。

 

 ――もし別の家系なら、なぜ今になって現れた。

 ――今まで情報が一切ないこと自体が、不自然すぎる。

 彼女を傍に置くことは、心臓の横に毒針を忍ばせるのと同義だ。

 秀兵衛はわずかに重心を落とし、いつでも抜刀できるよう指先を柄に近づけた。その殺気に呼応するかのように、室内の温度がわずかに下がった、その時だった。

「私には、姉がいました」

 スミレが、夜風に消えそうなほど静かな、しかし確かな声で言った。

 秀兵衛の目が、鋭く細まる。

「姉は剣に優れ、昔から『妖斬り』に入りたい、と口癖のように語っていました。だから私は、その名も、そのお役目も知っています。……あなたが、その生き残りであることも」

 ――なに……。

 秀兵衛は思わず息を呑み、目を見開いた。

 本拠地には連れてきた。だが、自分たちが何者であるかなど、一言も口にしていない。その禁忌の名を、彼女は迷いなく、まるで家族の名を呼ぶかのように口にしたのだ。

 パチリ、と薪が爆ぜる音だけが、死んだように静まり返った室内に響く。

 秀兵衛はスミレを凝視した。

「姉の名は……」

 スミレが、真っ直ぐに秀兵衛を見つめ、続きを紡ごうとする。

 その名は、救いか、それとも破滅への導火線か。秀兵衛の胸の奥で、かつてない激しい警告が鳴り響いていた。



三、キクと流行り病

 「姉の名は――キク。……存じませんよね。当然でしょう。私の家族は皆、数ヶ月前に流行り病で、人知れず亡くなったのですから」

 その声は、囲炉裏の火に溶けるように静かで、どこか現実味を欠いていた。名を告げた瞬間、閉ざされた室内の空気がわずかに重さを増す。

 キク。

 秀兵衛は記憶の底、血に塗れた数多の顔の中からその名を探る。だが、どれほど意識を凝らしても、思い当たる面影はない。

 ――本当に、見知らぬ名だ。

 ――それとも、俺が忘れているだけか。

 スミレへの疑念がさらに深まろうとした、その時だった。

「秀兵衛、おるか」

 聞き慣れた、低い声が戸口から響いた。

 秀兵衛は一瞬だけスミレに鋭い視線を向けた。訊きたいことは山ほどある。だが、この深夜の訪問が何を意味するか、彼は熟知していた。

 今は、己の「役目」を優先すべきだ。

 秀兵衛は立ち上がり、音もなく戸口へ向かう。

「……ここに」

 戸を開けると、案の定、馴染みの同心が立っていた。夜の闇の中、彼が持つ提灯の明かりが、不安げに左右に揺れている。

「おお、話してるところを悪かったな。……だが、急ぎだ」

 どこか歯切れの悪い、迷いを含んだ口調。普段の彼には珍しい様子に、秀兵衛は瞳の奥で目を細めた。

「実はな、妖が出たかもしれんのだ。……いや、今回ばかりは俺も、自分の耳を疑っているのだが」

 同心は頭を掻きながら、困惑を隠しきれない様子で眉を寄せる。秀兵衛は沈黙を守り、ただ続きを促した。

「近頃、江戸の至るところで流行っている病を知っているか? 隣町ではすでに死者も出ているという、あの奇病だ」

「……聞き及んでおります」

 短く答える。川渡しの客たちが、怯えた顔で囁き合っていた話だ。

「……あれが実は、妖の仕業ではないかという話が出ている。いや、馬鹿げているとは思う。だがな、その病……どんなに腕のいい医者が診ても、薬を処方しても、一向に快方に向かわんのだ。まるで、命そのものを何かに吸い取られているかのように……」

 どんな名医でも、治せない。

 秀兵衛の思考が、冷徹に動き出す。

 ――毒か、呪いか。あるいは、微細な妖気による内側からの侵蝕か。もしそうであれば、それはもはや「病」ではなく、「捕食」と呼ぶべきものだ。

「病の出所は広域で、特定はできん。だが、一番ひどいのは外れの貧民街だ。……とにかく、一度見てきてもらえぬか」

「心得た」

 秀兵衛の返答は即座だった。迷いはない。

 同心は安堵したように短く息を吐くと、「頼んだぞ」と言い残して闇へと消えていった。提灯の灯火が遠ざかり、再び静寂が部屋を支配する。

 秀兵衛はゆっくりと戸を閉め、振り返った。

 スミレが、いつの間にか立ち上がっていた。

 炎に照らされた彼女の瞳には、不安とも、恐れとも違う、何かを見定めているような硬質の光が宿っている。

 ――この少女を、ここに残していくわけにはいかない。

 もし彼女が淵鵺の刺客であれば、背後からこの拠点を潰される。あるいは、本当に「視える」家系の生き残りならば、一人にすること自体が彼女を危険に晒すことになる。何より、彼女の語った「姉の死」と、この「流行り病」……あまりに重なりすぎている。

 秀兵衛は、己の獲物を掴むように、静かに、しかし断固とした口調で命じた。

「……お前も来い」

 その声は、もはや船頭のそれではなく、戦場へと赴く「妖斬り」の響きだった。

 スミレはわずかに目を見開いた後、抗うことなく、小さく頷いた。

 夜の闇が、二人を飲み込もうと口を開けて待っていた。



三、病の深淵

 秀兵衛は仮面を着け、その下に口と鼻を塞ぐように布を巻いた。スミレにも同じように布を巻く。また念のため、彼女には護身用に、妖を斬れる特殊な小刀を与えた。しかし、秀兵衛は彼女を戦わせる気など毛頭なかった。

 夜の闇が近づく頃、二人は該当の町の入り口へと近づいた。

 その場にスミレを立たせ、自分の視界に入る範囲に収め、かつ彼女が感染しないように心がけた。彼女は何か言おうと口を開きかけたが、結局何も言わずに頷いただけだった。

 秀兵衛は背後に残した彼女の視線を感じながら、病の沈む町の肺腑へと足を踏み入れていく。

 空気が、重い。

 ただ湿っているのではない。まるで見えない泥水の中を歩いているような、粘りつく圧迫感だった。布越しに呼吸を極限まで細く絞る。回生によって変質した強靭な肺腑でなければ、最初の一歩を踏み出した瞬間に内側から腐り落ち、膝をついていただろう。

 慎重に、しかし迷いなく進む。

 布の繊維を通り抜け、肺の深淵に冷たい「何か」がじわりと染み込んでいくのを感じる。それは酸素を拒絶し、血の巡りを呪い変える、実体なき毒。

 ――疫鬼えきき、か。

 町は死に絶えたような静寂に支配されていた。

 本来なら夕刻、炊事の煙が立ち上り、家路を急ぐ足音や子供の笑い声が路地に満ちているはずの時間だ。だが今は、代わりに湿った咳と、絶望の縁を彷徨う呻きだけが、低い霧のように漂っている。

 通りに横たわる人々は、皆どこか壊れていた。

 肩を落とし、焦点の合わぬ目で虚空を追い続ける者。壁にもたれ、何かに取り憑かれたように自身の肉体を掻きむしる者。あるいは、既に事切れたまま、腐敗すら拒絶された骸となって転がっている者。

 狂ったように皮膚を引き裂き、爪を立てている者もいる。

 その剥がれた指の隙間から、血に混じって、どす黒い瘴気が膿のように滲み出していた。

 秀兵衛の眼には、それがはっきりと見える。

 これは、人の医術が救える「病」ではない。妖気が内側から肉体を食い破り、命を養分として外へ溢れ出しているのだ。

「……」

 秀兵衛は足を止めない。躊躇いが生じた瞬間、この重圧に飲み込まれることを本能が察していた。

 一歩、また一歩。

 空間のわずかな歪みを拾い、流れを読み解こうとする。

 妖気は五色の霧のように混ざり合い、不定形にたゆたっている。しかし、その密度は完全に均一ではない。微かな淀みがあり、不気味な濃淡がある。

 しかし――。

(流れが、散りすぎている……)

 核が、見えない。

 「流転の型」をもってしても、この町そのものが巨大な、中心のない病巣のように感じられた。どこへ行っても同じ濃度。同じ圧迫。

 奇妙なことに、奥へ進むほど、空気はむしろ希薄になり、静寂は澄んでいく。

 まるで、この厄災には「心臓」が存在しないかのように。

 秀兵衛が広場へと足を踏み入れた瞬間、泥のように座り込んでいた町人たちが一斉に顔を上げた。

「……助けて……」

「お願いだ、誰か……」

「苦しい……熱い……」

 それは死の淵にある者の、か細く粘りつくような懇願。

 落ち窪んだ眼窩に宿る恐怖、震える指先。どの顔に浮かぶ絶望も、紛れもない純粋な人間のものであった。彼らの身体からは確かに黒い瘴気が糸を引いて漂っているが、その下にある悲鳴は、あまりにも「本物」だった。

 秀兵衛は拳を握りしめる。仮面の下で、奥歯が軋んだ。

(どれも、本物の人間だ。……だが、この「嘆き」のどこかに本体が潜んでいるはず……)

 胸の奥の冷えが、じわじわと四肢へ広がる。感染の侵蝕は確実に進んでいた。

 しかし、斬れない。無実の人間を手に掛けるかもしれないという忌まわしい予感が、かつてあれほど鋭かった彼の刃を重く沈ませる。

 その時だった。

 背後から、そっと肩に細い手が置かれた。

 反射的に身を翻し、一気に間合いを取る。

「スミレ……!」

 思わず、剥き出しの殺気が混じった声が出る。

「こんな場所に来るなと言ったはずだ! ここはもう、病の海だぞ!」

 それは幼子を叱りつけるような、切迫した叫びだった。

 だが、スミレは動じない。降り注ぐ五色の毒霧の中に立ちながら、彼女の佇まいは仮面越しにも分かるほどに、冷徹なまでに静止していた。

「私……どこに『本体』が居るか、視えています」

 秀兵衛の動きが、凍りついたように止まる。

「なに……?」

 驚愕が思考を白く染める。半人半妖へと至り、人ならざる感覚を得た自分ですら掴めぬ正体を、ただの少女が、何の下準備もなく断定した。

 スミレは迷いのない眼差しで、広場の隅を指し示した。

「あそこです」

 指の先。道の端。

 痩せさらばえた一人の男が、蹲っていた。立つ気力すら奪い尽くされたのか、泥にまみれた手で地面を掻き、全身を激しく震わせている。

「……たすけて……」

 乾いた、喉が裂けそうな苦悶の響き。

 秀兵衛は吸い寄せられるように、ゆっくりと歩み寄った。

 至近距離で男の瞳を覗き込む。

 そこに映るのは、剥き出しの恐怖と、無慈悲な死への絶望。それらは、秀兵衛がかつて江戸の町で目にしてきた「人の末期」そのものだった。

(分からない。……俺には、見抜けぬ……)

 妖に近づくほど、かえって「人の感情」のいろが読み取れなくなっていくのか。疫鬼の気配は、巧妙に町人の悲嘆に溶け込み、霧と化している。

(もし、違っていたら。……このまま一般人を斬れば、俺は――)

 最悪の光景が脳裏をよぎる。秀兵衛の指先が、刀の柄の上でわずかに震えた。

 その背後で、スミレがもう一度、言った。

 氷の刃のように、鋭く、透明な響きで。

「信じてください」

 短い一言。

 だが、その声には根拠のない自信ではなく、理の深淵に触れた者特有の重みがあった。

 秀兵衛は、固く目を閉じる。

 一度きりの奇跡を願うには、自分はもう、人としての清廉さを失いすぎている。

 ならば――。

 ゆっくりと、最期の「人」としての息を吐き出す。

「……分かった」

 次の瞬間、目にも止まらぬ速度で抜刀。

 銀閃が夜を裂き、蹲っていた男の肉体を、無慈悲に両断した。

 刹那。

「ギィィィィィィィッ――!!」

 人の喉が鳴らせるはずのない、金属を擦り合わせたような絶叫が、裂けた肉の中から爆ぜた。

 男だったはずの身体から、黒い霧が噴水のように噴き出す。

 一瞬、その悍ましい姿が露わになった。

 腐り崩れた複数の顔。無数に蠢く口。膨れ上がり、脈打つ粘液質の肉塊。

 それこそが病魔の根源、疫鬼えきき

 だが、姿を晒したのは一瞬だった。疫鬼は即座に霧へと霧散し、四方八方へと散らばっていく。宿主を殺されたことで、次の寄生先を求めて拡散したのだ。

 広場に、再び重苦しい静寂が落ちる。

 秀兵衛は血の付着していない刀を下ろしたまま、呆然と立ち尽くしていた。

(……いた。確かに、奴の『核』はそこにいた)

 震える拳を握り直し、振り返る。

 そこには、妖気の霧の中でただ一人、揺らぎ一つない透明な瞳でこちらを凝視する、スミレの姿があった。

「疫鬼は、もうこの村にはいないようです」

 静寂の中で、スミレが独り言のように呟いた。彼女は目を細め、夜の湿り気を探るように顔をわずかに傾ける。

「……微かに、奴の妖気が残っています。この村より北東。また別の病巣があるのかもしれません。行ってみましょう」

 秀兵衛は思わず眉をひそめた。

「スミレ……。お前、それほどの距離の妖気を辿れるのか?」

 その問いに、スミレは一瞬だけ目を見開いた。本当に、瞬きひとつ分だけの時間。まるで「うっかり手の内を見せすぎた」とでも言うような、奇妙な動揺。

 だが、彼女はすぐに頭を掻き、年相応の少女のような困り顔で笑った。

「実は……妖気って、私には色や匂いみたいに見えるんです。一度覚えてしまえば、風に乗ってくる微かな残り香を追うのは、それほど難しくなくて……」

 言葉はひどく曖昧だった。だが、それ以上の理屈を説明する気がないことは、彼女の頑なな沈黙が物語っていた。

 秀兵衛はしばらく彼女の背中を見つめていた。

 疑念は消えない。むしろ、その「視る力」のあまりの万能さに、背筋が凍るような危うさを感じている。

 だが――。

「……まあ、よい。今は奴を絶つのが先だ。案内しろ」

 それだけ吐き捨て、彼は再び夜の闇へと歩み出した。

 

 二人は村を離れ、北東へ向かった。

 空は死にゆく者の血のような茜色に染まり、やがて藍色の闇に飲み込まれていく。道中、秀兵衛はほとんど口を開かなかった。

 先を行くスミレの足取りは驚くほど軽く、迷いもない。まるで夜の森に張り巡らされた、目に見えぬ「死の糸」に導かれているかのようだった。

 やがて、次の村の輪郭が見えてくる。

 境界に差し掛かった瞬間、秀兵衛は仮面の下で顔を歪めた。

 濃い。

 先ほどの村と同程度の妖気の霧が物理的な質量を持って押し寄せてくる。喉の奥が焼けるように痛み、半ば妖へと転じている自分の肉体でさえ、細胞が一つひとつ壊死していくような凄まじい侵蝕を感じていた。

 村の惨状は、前の場所の凄惨に引けを取らないほどだった。

 地面を掻きむしりすぎて指の骨が露出した者。呼吸を忘れ、口を大きく開けたまま石像のように固まった者。空気そのものが腐り、絶望が熟成されていた。

「……こっちです」

 スミレは迷いなく腐臭の芯へと進む。ある長屋の前で立ち止まると、彼女の声から一切の感情が消えた。

「この人です」

 そこには、壁にもたれて座る男がいた。

 秀兵衛が刀に手をかけた瞬間、男の顎が、骨の砕ける音を立ててありえない角度まで裂けた。

「グァアァァァッ!!」

 噴き出した黒い霧の中から、妖気をまとった触手が数本、弾丸のような速さで飛び出した。蛇のようにうねり、秀兵衛の首筋を狩り取ろうと迫る。

 だが。

「――遅い」

 一閃。

 銀光が走ると同時に触手は虚空で断たれ、墨汁のような黒い妖気を噴出した後、霧散した。秀兵衛はそのまま、宿主ごと「核」を断ち切る。疫鬼は断末魔を上げる暇もなく、再び霧へと散った。

「……攻撃は得意ではないようだな」

「ええ」

 スミレは静かに頷いた。血の飛沫ひとつ浴びていないその姿は、あまりにも浮世離れしている。

「あれは本体を守るための、最低限の防衛本能に過ぎません。奴の本領はあくまで『蝕む』ことにありますから」

 

 それからも、同じ「作業」を繰り返した。

 江戸の北。さらに西。

 どの村も同じ妖気の霧に覆われ、どの場所でもスミレは一度も迷わなかった。

「この人です」

「次はあちら。……早くしないと、妖気が混ざります」

 まるで疫鬼の居場所を、最初から地図に書き込んでいるかのような正確さ。

 秀兵衛はそのたびに刀を振るい、宿主の肉を裂いて現れる触手を断ち、霧を散らしていった。

 やがて、日が完全に落ちた。

 最後の村で分体を斬り終えたとき、秀兵衛は冷たい夜空を見上げた。星は瞬いているが、地上には依然として薄暗いモヤが停滞している。

 霧は、まだ消えていない。

 わずかに、だが確実に。風の流れとは無関係に、どこか一点から絶え間なく溢れ出してきている。

「……まだ、いるな。……あれらはすべて、手足に過ぎん」

 秀兵衛はゆっくりと刀を鞘に収めた。

 隣に立つスミレを見る。彼女もまた、同じ南の空の果てを見つめていた。

 彼女の瞳に宿る、奇妙に澄んだ光。

 それは恐怖でも、使命感でもない。

 まるで、待ち焦がれていた「何か」に出会おうとしている、歓喜に近い熱を帯びていた。


 最後にスミレが連れて来たのは、最初の村のすぐ裏手に位置する、忘れ去られた古びた墓地であった。

 日は地平に沈み、連なる墓石に漆黒の影を落としている。ここは人の訪れぬ不毛の地のはずであったが、傾いた墓石の列の向こうに、ひとつだけ、異質な「動かぬ影」があった。

 軽装の男である。

 長旅で薄汚れた三度笠を深くかぶり、痩せこけた肩を落として蹲っている。その姿は、あまりに風景に馴染みすぎていて、逆に薄ら寒い違和感を放っていた。

「……あれが、最後の核です!」

 スミレが、押し殺した震える声で言った。

 秀兵衛は無言で頷き、鯉口を切る。鞘から覗く刃が、闇の中で青白く火花を散らすかのように鋭く光った。

 一歩、足を進めるごとに、大気が物理的な重さを増してゆく。湿った土の匂いに混じり、熟しすぎた果実が腐り落ちた時のような、吐き気を催す甘い死臭が鼻腔を刺した。

 その時である。

 三度笠の男が、軋む音を立ててゆっくりと振り向いた。

 言葉は、ない。

 だが、秀兵衛の足は本能的な拒絶反応によって思わず止まった。

 顔は――修復不能なほどに爛れていた。

 皮膚は無残に裂け、ところどころ黒く壊死した肉が露出している。にもかかわらず、そこには一滴の血も流れず、ひどく乾ききっていた。虚ろな瞳が、ただまっすぐに秀兵衛という「生者」を射抜く。

 生きている者の目ではない。だが、意識のない死人とも違う。それは「病そのもの」が意思を持ってこちらを凝視しているような、底知れぬ悪意の塊だった。

 背後で、スミレが悔恨と覚悟を混ぜ合わせた声で語り続ける。

「私は……本体の場所を見抜くことはできても、非力ゆえ、自ら奴を斬ることは叶いませんでした。だから、秀兵衛さん……あなたをここまで連れて来たのです」

 彼女は、己の傲慢さをなじるように深く頭を下げた。

「自己都合なのは分かっています。この病を、この呪いを終わらせるために……最後のお願いです。秀兵衛さん。奴を、斬ってください!」

 祈りにも似たその声が夜気に溶け終わるより早く、男の姿が掻き消えた。

 瞬きひとつ。

 次の瞬間、腐敗した死臭と共に、男は秀兵衛の目前に現れていた。

 感情の一切を欠いた爛れた腕が、大気を引き裂く轟音を立てて振り下ろされる。

 秀兵衛は反射的に刀を抜き放ったが、その手応えに戦慄した。

 これまでの分体とは違う。

 霧のように散るどころか、その腕には鋼のような剛性と、吸い込んだ命を全てぶつけてくるような、圧倒的な「執念」が宿っている。

 男の剣筋は、もはや人の領域を超えた冴えを見せていた。

 三度笠の下で爛れた顔が揺れるたび、斬撃が空を裂き、乾いた音が寒々しい墓地に木霊する。

 速い。

 秀兵衛は思わず奥歯を噛み締めた。

 その太刀筋は、己が心血を注ぐ「流転の型」と寸分違わぬほどに練り上げられている。いや、死を恐れぬ妖力を纏っている分、一太刀が鉄塊のように重く、そして剃刀のように鋭い。

 右から来る。鋼が触れ合う火花と共に受け流す。

 間髪入れず、暴風のごとき左からの返し。

 身体を独楽のように捻り、死角へと滑り込ませていなす。

 わずかな隙も、瞬きの猶予も与えぬ凄まじい連撃であった。

 寄生される前、この男は修羅のごとき腕を持つ侍だったに違いない。

 高潔な魂はすでに病魔に食い尽くされ、死にきれぬ執念と、殺戮の技だけが歪んでこの世に留まっている――そんな不気味な気配が漂っていた。

 男は一切の呻きも、荒い呼吸も発しない。

 ただ虚ろな瞳のまま、精密な機械のように刃を振るい続ける。

 土を蹴り、間合いを詰め、幾度となく刃が重なり合う。

 激しい衝撃が掌から腕の芯までを痺れさせ、骨が軋む悲鳴が聞こえるようだった。

 秀兵衛は受け、流し、必死に退く。

 しかし、一歩下がれば背後の墓石が壁となり、逃げ場をじわじわと削り取られていく。

 そのとき、男の動きが異質な変化を見せた。

 剣を弾かれ、互いの呼吸が交差した刹那――。

 男の顎が外れ、その口が耳元まで大きく裂けた。

 次の瞬間、そこから無数の「根」のごとき触手が噴き出した。

 黒く、ぬらりと光るそれらは呪わしい妖力を帯び、蛇のようにうねりながら秀兵衛の全身を絡め取らんと襲いかかる。

 秀兵衛は目を見開いた。

 剛剣と触手が、同時に死の十字を形成して迫る。

 上空から振り下ろされる必殺の斬撃。足元を執拗に薙ぐ触手。そして、意思を持つかのように背後へ回り込む影。

 円を描く「流転の型」を組み直す暇さえ、敵は与えない。

 受ける。流す。躱す。

 しかし、そのすべてが防戦一方の「守り」に過ぎなかった。

 触手は刃に絡みつき、重く、粘りつくように剣筋を狂わせ、致命の間合いを奪い去る。

 一本を断ち切っても、地から、闇から、次なる触手が休む間もなく襲いかかる。

 墓石が粉々に砕け、土が爆ぜ、石片が礫となって宙を舞う。

 退路は完全に塞がれ、絶望が首元まで迫っていた。

 秀兵衛は肩で息を荒げた。

(攻める隙が、どこにもない……!)

 そのとき、背後から凛とした声が響き渡った。

「秀兵衛さん、惑わされないで!」

 それはスミレの声であった。

 彼女の透明な瞳には、この混沌とした戦いの中に潜む「真実」が映っていた。

「その男は、ただの抜け殻……器に過ぎません!

 真の核は、その器の中に隠れている!」

 刹那、秀兵衛の思考が氷のように澄み渡った。

 どれだけ肉を削ごうとも、骨を断とうとも、この傀儡の身体そのものを相手にしていては徒労に終わる。核を、この厄災の根源を斬らねば、夜は明けぬ。

 逆に言えば――核さえ斬れば、全てが終わる。

 次の一撃を薄紙一枚の差で受け流しながら、秀兵衛は爛れた男の顔を、その裂けた口の深淵を見据えた。

 そして気づく。

 疫鬼は、防御を固めているようでいて、同時に己の本体を外界へと露わにしているのだ。

 そう。

 男の口奥から溢れ出す、あの無数の黒い触手によって。

 あれはただの武器ではない。

 暗い胎内に潜む核が、外界を捕食し、操作するための「道」そのもの。

 秀兵衛は、静かに呼吸を整えた。肺の奥に染み渡る冷たい瘴気さえも、今は研ぎ澄まされた力の一部に換える。

 刃をわずかに引き、大地を掴むように重心を深く落とす。

 狙うは、男の剣でも、四肢でもない。

 蠢く触手の根源――暗黒の喉奥。

 秀兵衛は、狙いを定めた。

 爛れた男の剣が閃く。それは、絶望を練り上げたような鋭く重い一撃。

 受けた瞬間、骨を伝って腕に痺れが走る。だが、極限まで磨き上げた流転の型は崩れない。円を描くように力を受け流し、刃を滑らせるようにしてその威力を外へと逸らした。

 その刹那――。

 視界の端、死角から迫ってきた一本の触手が網膜をかすめる。秀兵衛は踏み込みと同時に独楽のように腰を捻った。

 横薙ぎ。

 鋭い風切り音と共に刃が空気を裂き、不浄な黒い触手を深々と斬り裂いた。ぬらりとした、泥を断つような不快な感触が掌に伝わる。

 直後、斬り口から濃密な妖気が噴き出した。まるで、溜まっていた怨嗟の血潮が爆ぜるように、黒い霧が視界を埋め尽くす。

 男――疫鬼が、天を仰いで絶叫を上げた。

 それはもはや、人の喉が鳴らせる響きではない。幾重にも重なった、死にきれぬ者たちの怨念が墓地に反響し、大気を震わせる。

 男の身体が大きくのけぞり、よろめくように数歩後退した。千切れた触手が痙攣し、のたうち回りながら地面を叩く。

 秀兵衛は追わない。荒ぶる気を鎮めるように、静かに呼吸を整える。

 吸って、吐く。

 足裏に確かな土の感触を確かめ、己という存在を繋ぎ止める。

 再び、疫鬼が死の暴風となって迫った。

 今度は先ほどよりも踏み込みが深い。なりふり構わぬ狂気を孕み、間合いを強引に詰めながら斬撃の雨を降らせてくる。

 右。左。袈裟。逆袈裟。

 息をつく暇さえ与えぬ、鉄錆の匂いがする連撃。

 秀兵衛は刃の円環を崩さず、そのすべてを水のように受け流す。だが、攻勢に転じるためのわずかな「余白」すら奪い去る猛攻であった。

 ――来る。

 生存本能が、首筋を撫でる冷たい殺気に反応した。

 だが、次の一撃は正面からは来なかった。

 気配が、一瞬にして消え、背後に現れる。

 振り向くより先に、身体が最適解を選んだ。

 秀兵衛は地を蹴り、跳ぶように前方へ身を投じる。背後の空間を、黒い影が無慈悲に薙ぎ払った。

 そのまま着地と同時に反転。弾かれるように振り返り、大上段から刀を振り下ろす。

 縦一閃。

 空中でうねる触手を、正中線に沿って真っ二つに斬り伏せた。

 裂けた断面から再び汚濁した妖気が噴き上がる。疫鬼は、先ほどを遥かに凌ぐ断末魔を上げた。

 その瞬間――狂おしい連撃が、嘘のように止まる。

 大きな、決定的な隙。

 秀兵衛の眼が、仮面の奥で鋭く光った。

 「流転」が「収束」へと変わる。

 踏み込む。

 地面を砕き、泥を跳ね飛ばすほどの勢いで間合いを消失させ、男の懐深くへ滑り込んだ。

 一瞬の、真空のような静寂。

 そして。

 横一文字。

 男の胴を、無慈悲な速度で斬り裂いた。

 肉と骨を断つ感触は、ほとんどなかった。代わりに、刃が何か硬く、生物の理から外れた異質なものに触れる。

 裂けた肉体の深淵から、黒く、禍々しく凝縮された妖気が露わになった。

 それが――疫鬼の真核。

 心臓のように脈打ち、周囲へ呪いを発散し続ける「病の種」。

 秀兵衛は一歩踏み込み、切っ先をその一点へ据えた。

 「これで終いだ」

 迷いは、すでに無い。

 一突。

 刃が真核の芯を正確に貫いた。

 瞬間、墓地全体を揺るがすような絶叫が、夜の帳を突き破る。

 黒い妖気が暴れ狂う竜巻となって吹き荒れ、渦を巻き……やがて力なく霧散していく。

 江戸を蝕んでいた厄災、疫鬼。それは今、完全に消滅した。

 その終焉を見届けながら、スミレは先ほどまでの少女らしさを削ぎ落とした、低く、氷のような声でただ一言。

「……死ね」

 それは慈悲なき、深い恨みを底に沈めた言葉だった。

 やがて、本来の墓地の静寂が戻る。

 秀兵衛はゆっくりと長く息を吐き、静かに刀を鞘へと収めた。その瞬間、鉛のように重く身体にまとわりついていた瘴気が消え、ふっと浮遊感に近い軽さを感じる。

 病を振り撒いていた妖気が、完全に浄化されたのだ。

 次の瞬間、先ほどまでの冷徹な表情が嘘のように、スミレが弾けるような足取りで駆け寄ってきた。

「秀兵衛さん! 本当に、本当にありがとうございました!」

 ぱっと顔を輝かせ、無邪気なまでの労いの言葉を重ねる彼女。

 秀兵衛は小さく頷き、一歩退いた。

 しかし、彼の視線は自然と、物言わぬ骸となった男へと向かう。

 軽装に、泥に汚れた三度笠。どこか風来坊のような姿のまま、ただの屍として横たわっている。

 利用され、蹂躙され、最後は斬り捨てられた「器」。

 男はもう二度と、その眼を開くことはなかった。


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