表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

4/6

第四幕

一、アヤメの独白

 ――始まりは、空虚だった。

 名も、体温も、惑いもない。ただ、淵鵺ふちぬえ様の深淵なる意思だけが、昏い渦となって思考の髄に刻まれていた。

『妖斬りを、根絶やしにせよ』

 それが私の輪郭であり、この世に形を成した唯一の理由だった。

 闇の底で骨を組まれ、汚泥の血を流し、女という器を与えられた時、そこには恐怖も歓喜もなかった。ただ「行け」と命じられ、その通りに歩き出したに過ぎない。人の世に紛れ、人の言葉を模倣し、人の皮を被る。それが「創妖(そうよう)」として産み落とされた私の、最初の役割だった。

 妖斬りという組織に入り込むのは、拍子抜けするほど容易かった。

 剣を振るい、怪異を断てば、彼らは疑いもしなかった。強さは信頼に直結し、信頼は背中を預ける免罪符となる。命を懸ける価値があるか――それだけを天秤にかける連中だ。情など、初めから存在しない乾いた世界。

 だから、絆など生まれるはずもなかった。少なくとも、私の内側には。

 酒を酌み交わし、死線を潜り、共に夜明けを迎えても、胸の奥底は常に凍てついたままだった。笑顔を貼り付け、言葉を紡ぎ、戦友を演じる。その一つひとつが、任務という名の劇の一部に過ぎなかったからだ。

 ――ただ、誤算はあった。

 信頼という名の牙を剥くためには、妖を斬り続けねばならなかったこと。

 同胞を、だ。

 夜の闇に潜む、私と同じく淵から生まれた者たち。あるいは、理を外れて堕ちた哀れな同類。彼らを一閃で屠るたび、耳の奥にこびりついて離れない音があった。

 肉を断つ響き。断末魔の絶叫。泥に還りゆく瞬間の、助けを求める掠れた声。

『なぜだ……。お前も、こちら側の者だろう』

 幾度もそう呪われた。そのたびに私は、沈黙で応えた。刀を拭い、鞘に納め、何事もなかったかのような「人」の顔で本部へ戻る。すべては使命のため。淵鵺様への忠誠のため。そう自分に言い聞かせ続けて。

 けれど、声は消えてはくれない。

 眠りに落ちるたび、斬り捨てた同胞の数だけ、夢に死の色彩が溢れた。血に濡れた己の手。引き裂かれた喉。恨みがましく見開かれた眼。

 私は妖だ。情など、持ち合わせているはずがない。

 幾千回も、そう繰り返した。

 それでも――憎しみだけは、肥料を与えられた毒草のように、私の中で確かに育っていった。

 妖斬りへの、底知れぬ憎悪。

 同胞を斬らせ、その血を吸うことでしか成り立たない、この歪んだ仕組みへの憎しみ。

 人でありながら人を捨て、妖でありながら妖を狩る。そんな中途半端な境界ふちに縋る存在。自分たちは特別だと信じ込み、正義の面をして刃を振るう慢心。

 ――ああ、やはり。妖斬りは、憎い。

 秀兵衛を斬った瞬間、その感情は初めて鮮明な形を成した。

 彼は、よく出来た「駒」だった。従順で、愚直で、死んだ師の影を追い続ける哀れな子供。一点の疑いもなく仲間を信じ、剣を振るうその姿は……ひどく、反吐が出るほどに目障りだった。

 躊躇など、あるはずがない。

 任務は果たされた。本部は壊滅し、使命は完遂された。

 それなのに。

 なぜだ。

 泥の中に伏した彼の残骸を前にして、胸の奥に沈殿したこの澱は。

『源次郎……さん……ごめ……なさい……』

 あの今際の際の声が、今も鼓膜を掻き毟って離れない。

 私は妖だ。創妖だ。淵鵺様に研ぎ澄まされた、無慈悲な刃だ。

 それ以外の何者でもないはずなのに。

 ――それでも、やはり。

 妖斬りは、憎い。

 この感情だけは、被った人の皮の下で唯一脈打つ、偽りのない真実。

 だから私は、前を向く。二度と振り返りはしない。

 たとえ、この憎悪が私自身を蝕み、泥の底へと引きずり戻す呪いだとしても。


二、回生

 ――闇の底で、何かが軋む音がした。

 冷たい。いや、冷たいという概念すら、もはや意識の岸辺には届かない。

 柳島秀兵衛は、ただひたすらに落ちていた。底のない漆黒の淵へ、輪郭を失いかけた意識だけが、泥のように沈んでいく。

 身体を断ち切られた瞬間の感触は、すでに遠い。

 痛みも、熱も、恐怖も――すべてが溶け去ったあとに残されたのは、世界との均衡が音を立てて崩れ去る、絶望的な予感だけだった。

 ――『契り』が、壊れていく。

 人と妖の境界を辛うじて繋ぎ止めていた、あの細い線が裂け、内側から名もなき混沌が溢れ出していた。

 そこへ、別の異質な力が、強引に重なった。

 札。

 源次郎から託された、あの小さな紙片。

 仮面の内側に仕込まれていたそれは、今や秀兵衛の胸の奥で、心臓の代わりを務めるかのように熱く燃え上がっていた。紙であるはずのものが形を失い、死にゆく者の凄まじい念となって、彼の血管を駆け巡る。

 ――生きろ。

 それは声ではなく、魂に直接刻まれる命令だった。

 源次郎の執念、悔恨、そして愛弟子を生かしたいという、ただ一つの祈り。それが崩落した契りを繋ぎ直し、溢れ出た妖気を受け入れて、新たな形へと鋳直していく。

 均衡は、もはや元には戻らない。

 だが、絶望の淵で、歪な新星が生まれようとしていた。

 その瞬間。

 秀兵衛は、この世で最初の息を吸い込んだ。

「――っ……!」

 闇が、鮮やかに割れる。

 冷え切った夜気が肺を拡張し、胸が大きく波打った。掌に触れる地面の感触。湿った土の匂い。押し潰された草の命。

 ――生きている。

 ゆっくりと、指を動かしてみる。肉体はそこにある。

 だが、何かが決定的に違っていた。

 鼻をくすぐるはずの濃厚な血の匂いは、不自然なほどに色を失っている。舌の奥にこびりついていたはずの鉄の味も、どこか遠い他人の記憶のように感じ取れなかった。なにより、黒かった長髪が、色を落として真っ白くなっている。まるで、生気を失ったかのようだ。

 立ち上がろうとして、一瞬だけ視界が揺らぐ。

 しかし、身体の内側に満ちる「力」は、以前の比ではなかった。

 重力を感じさせないほどに、身体が軽い。地面を蹴る感覚が曖昧であるにもかかわらず、どこへ踏み出し、どう動けばいいのかが、本能の次元で理解できる。

 視界が、不気味なほどに澄んでいく。

 闇の中で、輪郭だけが青白く浮かび上がる世界。物の形ではなく、気配そのものが脈打つ「流れ」として視える。

 ――妖に、近づいた。

 それはもはや、否定しようのない断罪だった。

 同時に、胸の奥は凪のように静まり返っていた。

 かつて彼を突き動かしていたはずの激しい怒りも、引き裂かれるような悲しみも、もはや燃え上がらない。あらゆる感情が、厚い氷の膜越しにしか伝わってこない。

 それでも、理解した。

 自分が、この世のものではない強さを手に入れたことを。

 秀兵衛は足元に転がっていた仮面を拾い上げた。割れてはいない。だが、内側に貼られていた札は、すでに灰となって消えていた。

「……一度きり、か」

 呟いた声は、驚くほど冷静で、そして透明だった。

 ゆっくりと顔を上げる。夜の帳の向こう、アヤメが消えていったであろう方角を見据える。

 彼女はもう、ここにはいない。任務を終え、次の惨劇を求めて闇へと紛れたはずだ。

 秀兵衛の瞳に、復讐の炎は宿っていない。

 ただ、凍りついた冬の月のような、鋭利な決意が宿っていた。

「……今度は」

 言葉は、最後まで口にしなかった。

 だが、その足は迷いなく、闇の深淵へと向かって踏み出された。



三、新生の契約

 夜気を切り裂くように、秀兵衛は一歩を踏み出そうとした。

 ――アヤメが消えた、あの死と裏切りの残り香が漂う方角へ。

 だが、その足を止める声があった。

「……おい、秀兵衛……なのか?」

 躊躇いがちで、しかし極限の恐怖に裏打ちされた震える声。闇の端から、頼りなげな提灯の明かりがゆらりと揺れながら近づいてくる。

 姿を現したのは、これまで幾度も妖斬りに情報を流し、共に江戸の裏側を覗いてきた馴染みの同心だった。

 彼は、焼け落ち、血の色に塗り潰され、死の静寂に支配された本部の惨状を目にした瞬間、膝を折らんばかりに硬直した。

「な、なんだ……これは……。何があったんだ、いったい……!」

 足元に転がる、かつての仲間の無惨な骸に気づき、彼は悲鳴を飲み込んで後ずさる。提灯を持つ手は激しく震え、乱れた光が、地を這う血の海を不気味に明滅させた。

 秀兵衛は、音もなく、緩慢に振り返った。

 かつての彼なら、この惨劇を前にして声を荒らげ、あるいは絶望を露わにして説明を試みただろう。だが今は、違う。

「……妖斬りは、壊滅しました」

 その声は、驚くほど平坦で、どこまでも澄んでいた。

 同心は息を呑む。言葉の意味を理解できないまま、それでも異様な圧を放つ秀兵衛の瞳に射すくめられ、続きを促すように凝視した。

「妖による襲撃です。内部に、裏切りがありました」

 それ以上、踏み込んだ言葉を継ぐことはしなかった。仮面越しに見える世界の真実を、人である彼に説いたところで、闇を深めるだけだと分かっていたからだ。

 しばしの沈黙のあと、秀兵衛は一歩、同心の前へ踏み出した。その足音は、湿った土を捉えているはずなのに、まるで風が撫でるように無音だった。

「これからは――」

 夜の深淵に溶け込むような、透明な響き。

「私が、妖斬りを引き継ぎます」

「……なに?」

「正式な組織ではないことは承知しています。ですが、妖は消えない。斬る者がいなければ、この町は内側から腐り、壊れる」

 秀兵衛は、まっすぐに同心を見据えた。

 その瞳には、もはや激情の炎は宿っていない。代わりに、万年溶けることのない氷のような、静かな決意が居座っていた。

「今後、妖に関わると思われる案件は、すべて私に回してください。……私が、始末します」

 同心は唇を噛み、周囲を覆い尽くす死と夜を見回した。

 やがて、彼は重く、長い息を吐き出す。

「……分かった。正直に言えば、あんたが今、何者なのか……俺にはもう、分からん」

 そう前置きしてから、彼は消えかけた提灯を持ち直した。

「だが、これまでも、あんたらは確かに『掃除』をしてくれた。……今回も、頼らざるを得ない、ということだな」

 秀兵衛は、わずかに首を縦に振った。その動作一つにさえ、かつての生身の人間が持っていた「揺らぎ」が欠落している。

「それで……今回の件なんだが」

 同心は懐から、手垢に汚れた書付を取り出した。

「妖かどうかは断言できん。ただ……南の外れの町で、人が夜な夜な姿を消している。血の跡も、争った形跡もない。ただ、朝になると昨日までそこにいた人間が、一人、また一人と、煙のようにいなくなるそうだ」

「……心得た」

 秀兵衛は短く応じた。

 新しい力を馴染ませるには、ちょうどいい贄だ。アヤメと再会するその時までに、この異質な肉体を、完璧な「刃」へと研ぎ澄ませておかねばならない。

 同心が何かを言いかけ、結局、口を閉ざして去っていく。

 秀兵衛は再び、闇へと向き直った。アヤメの残した冷たい気配とは別の方角。

 新たな怪異が、獲物を待つ場所へ。

 夜の帳に消えゆくその背中は、以前よりもわずかに、だが決定的に――人としての輪郭を失って見えた。



四、毛の深淵

 同心から聞いた名を頼りに、秀兵衛は夜の町外れへと足を向けた。

 そこは、まるで地図から零れ落ちたかのように静まり返っていた。崩れかけた塀の向こう、数十年は忘れ去られたような廃屋が、腐敗した闇を溜め込んで沈んでいる。

「……ここか」

 一歩、敷地に踏み込んだ瞬間だった。

 ――ぎしり。

 不快な軋みと共に、廃屋の闇が「意志」を持ってうねった。

 次の瞬間、大蛇のような太さの毛の塊が、触手となって床下から突き出し、秀兵衛の足元を薙いだ。

「――っ!」

 身体が、思考を追い越して動く。回生を経て「人」を捨てかけた肉体は、物理的な質量を無視するように地を蹴り、襲いくる毛の束を紙一重で躱した。流れるような抜刀。ざくり、と湿った手応えを残して毛が断たれる。

 しかし、切り落とされた毛の先端は、なおも意志を持つ虫のようにぴくりと蠢き、秀兵衛の影を追いかけてくる。

 ――斬れる。だが、この感触は……。

 安堵する暇はない。廃屋の奥から、ずるり、ずるりと、重い濡れ雑巾を引きずるような這行音が響き始めた。

 秀兵衛は静かに戸口を潜り、中へ踏み込んだ。

 そこは、もはや人の住処ではなかった。天井から床、梁、柱に至るまで、黒く湿った「毛」が血管のように張り巡らされた異形の巣だ。

 その中央に、山のような巨大な塊――毛羽毛現(けうけげん)が鎮座していた。

 どこが胴で、どこが顔なのかも判別不能な毛の堆積。だが、無数の毛の奥底に、底冷えするような何百もの「視線」を感じ、秀兵衛の肌が泡立った。

 次の瞬間、巣を形成していた無数の毛が一斉に牙を剥いた。

 四方八方、逃げ場を塗り潰すように伸びる黒い筋。

 秀兵衛は歯を食いしばり、刀を振るった。源次郎に叩き込まれた、最短で一点を貫くための型。一足一刀、確実に敵を仕留めるための「点」の剣。

 ざん、ざん、と斬撃の音が虚空を打つ。

 だが――追いつかない。

 一本斬れば、背後から二本。二本を薙げば、足元から三本が這い寄る。

 毛の一本一本が学習しているのだ。間合いを測り、刀の軌道を避け、秀兵衛の「次の一手」を数で封じ込もうとしている。

「……くっ」

 肩口を鋭い毛先がかすめ、着物が虚しく裂けた。

 斬り落とした毛が床で再結合し、再び触手となって秀兵衛の足首を狙う。源次郎の型は、心臓を持つ敵を殺すための剣だ。しかし、この妖には「心臓」という一点が存在しない。

 ――多すぎる。この型では、捌ききれん。

 一撃ごとに「止まる」源次郎の型は、この止まることのない毛の津波とは致命的に相性が悪かった。

 毛の壁が、じりじりと包囲網を狭めてくる。廃屋の空気は獣の腹の中のように粘り、重い腐臭が肺を圧迫した。

 秀兵衛は初めて、回生後の自分の限界を悟った。

 ――身体は強くなった。だが、技がまだ「人」の理に縛られている。

 絶望的な数の触手が、いよいよ秀兵衛の頭上を完全に覆い尽くし、一斉に振り下ろされた。

 迫りくる毛の津波。それを前にして秀兵衛は深く、長く、息を吸った。

 目で追うことをやめ、耳も、匂いさえも意識の外へと追い出す。代わりに、回生によって変質した感覚のすべてを、廃屋の空間そのものへと全方位に拡張した。

 一本の触手がどこから生じ、どの角度で急所を狙っているのか。背後の闇で、今、何本が鎌首をもたげているのか。毛が床を擦る微かな振動。空気の流れの歪み。

 ――視える。

 いや、もはや「把握」している。

 次の瞬間、彼は悟った。

 一太刀ごとに、止まってはならない。斬り、構え、次を待つ――それは「人」の心臓を守るための、古びた過去の剣だ。

 左から右へ、一閃。その勢いを殺さず、流れるように身体を捻り、円を描いて右から左へ。

 刀が、止まらない。

 身体が、止まらない。

 斬撃は「点」の連続であることをやめ、絶え間なく溢れ出す「奔流」へと変貌した。

 押し寄せる毛の触手は、自らの力を逆手に取られ、翻弄され、成すすべなく断ち切られていく。秀兵衛は力で抗わない。ただ受け流し、刃に乗せ、己の加速へと変換する。

 ――これが、俺の。

 源次郎の型をなぞるのではない。アヤメの神速を追うのでもない。この異質な肉体で生き残るために、魂が選び取った独自の理。

 『流転の型』。

 舞うような回転とともに刃が疾走り、廃屋を満たしていた無数の毛が、雪が溶けるように次々と断ち落とされていく。床に落ちた毛は、もはや蠢く力さえ奪われ、ただの塵と化していった。

 気づけば、逃げ場を失わせていた触手の檻は霧散し、中央に――不気味に蠢く、異様に太い毛の「核」が剥き出しになっていた。

「……そこか」

 秀兵衛は地を、爆ぜるように蹴った。

 質量を失ったかのような身体が宙を舞い、廃屋の天井近くまで跳ね上がる。

 高く、真上から。

 刃を天に掲げ、重力と、内側に渦巻く妖気の流れを、切っ先の一点へと束ねる。

 ――斬る。

 上から下へ、垂直の落雷のごとく。

 刀は、叫びを上げる間もなく本体を真っ二つに両断した。毛羽毛現は、耳を裂くような断末魔を上げ、その声ごと夜の闇に溶け、跡形もなく消滅した。

 廃屋に、冷徹な静寂が戻る。

 秀兵衛はゆっくりと刀を納め、裂けた衣服を整えた。胸の奥に残っているのは、勝利の昂ぶりではない。ただ、刃を研ぎ終えた時のような、冷たく確かな手応えだけだ。

 開かれた戸口から、外の闇を見つめる。

 その視線の先。かつての信頼と、最悪の裏切りが待つ方角。

「……次は」

 その名を、あえて声には出さない。

 アヤメ。

 次に会う時、必ずこの「流転」の刃で彼女を捕らえてみせる。

 秀兵衛は一言も発さず、夜の帳へと溶け込んでいった。



五、影の刺客

 ――淵の底は、常に、永遠に夜だった。

 そこは江戸のいかなる地図にも属さず、粘りつくような湿り気を帯びた闇。水でもなく、土でもない。ただ、果てのない深淵へと魂を引きずり込むような濃厚な気配だけが満ちている。

 その中心、澱んだ静寂の中に、アヤメは微動だにせず跪いていた。

 ここが、主である淵鵺ふちぬえの座。

 この身が産み落とされた原風景でありながら、未だにその底を知ることは叶わない。

 唐突に、闇の膜がわずかに揺らいだ。

 ……違和感。

 アヤメの眉が、鋭く動く。創妖としての感覚は、かつての仲間の誰よりも、そして人間という種の限界を超えて鋭敏だった。だからこそ、あり得ない「混じり物」を感じ取った瞬間、確信より先に本能が警鐘を鳴らした。

 気配。

 遠い。しかし、あまりにもはっきりとしている。

 ――あの、泥臭いほどに愚直な気配。

 一度は、この手で、確かに断ち切ったはずのもの。

「……秀兵衛」

 名を呼ぶ唇が微かに震え、アヤメの指先が畳を強く噛んだ。

 あり得ない。あの時、確実にこの刃は彼の息の根を止めた。骨の砕ける感触も、臓腑が熱を失っていく様も、鮮明に掌に残っている。鼓動は止まり、瞳からは光が失われていた。

 それなのに。

 再び、感じる。しかも奴は、その気配を隠そうともしていない。

 むしろ――毒々しいまでに放っている。

 まるで、闇の底にいるこちらへ、居場所を誇示するように。

 アヤメは目を閉じ、意識の糸を遠方へ、江戸川の流れへと伸ばした。かつて妖斬りの本部があった、あの血塗られた瓦礫の地。

 そこから、かつての秀兵衛とは似て非なる、濃厚な妖気が波となって広がっている。

(……誘っているのか、私を)

 罠だ。それ以外にあり得ない。

 だが同時に、氷結していた彼女の胸の奥に、わずかな熱が灯る。

 それは怒りとも苛立ちとも違う。かつて一度だけ認めた「駒」が、地獄から這い上がってきたことへの、静かな、そして歪んだ歓喜。

「しぶとい奴……」

 目を開いたアヤメは、目の前の深淵に向かって、ゆっくりと頭を垂れた。

「淵鵺様」

 闇の奥底で、巨大な何かが蠢いた。それは音ですらなく、空間そのものが震えるような応答。

「……妖斬りが、生きております」

 一瞬、言葉を継ぐのを躊躇った。それが「事実」であると己の喉に認めさせるまでの、僅かな間。

「私がこの手で殺しました。ですが、奴は戻ってきた。……しかも、隠さず放っております。あえて、居場所を」

 静謐な時間が、闇を塗り替えていく。

「罠でしょう。ですが、軽視すべきではありません。……まずは、刺客を」

 影の揺らぎがアヤメの周囲で濃さを増し、実体化していく。

「影を操る者を。……『影女』を送り込んでください」

 アヤメの唇が、ほんのわずかに歪む。それは微かな冷笑か、あるいは。

 淵の奥底から、凍てつくような肯定の意思が返った。

 次の瞬間、空間が飴細工のように歪んだ。

 闇が集積し、形を成す。しなやかな女の輪郭。だが、その顔には目も鼻も口もない。影が幾重にも重なり、表情という概念を拒絶している。

 影女の足元からは、波紋のように黒い影が広がり、床の木目へと溶け込んでいった。

 新たに生まれた「死」の具現は、無機質に首を傾げる。

 アヤメはその冷たい気配を確認し、短く、命じた。

「行け。……秀兵衛を、今度こそ泥に還してこい」

 影女は音もなく、一瞬で闇へと沈み込んだ。

 再び訪れる静寂。

 アヤメはただ、見えない遠くの気配を、鋭い眼差しで見つめ続けていた。

(……今度こそ、全てを終わらせる)


 

 秀兵衛は、かつて妖斬りの本部であった「無」の場所に立っていた。

 夜は墓所のように静まり返り、遠く江戸川のせせらぎだけが、死者を弔う読経のように低く響いている。焼けた柱の炭の匂い。崩れた土壁の埃。かつてここを満たしていた勇猛な声も、酒の匂いも、今はもうどこにもない。

 彼は深く、長く、吐息を沈めた。右手はすでに、吸い付くように刀の柄にかかっている。

 目は開いているが、焦眉の敵を追ってはいない。意識を、皮膜を剥ぐように周囲の空間全体へと全方位に広げる。鼠一匹の忍び足、羽虫の羽ばたき一つ。そのすべてを、己の神経系に直結させる。

 回生を経て、世界は変質した。音よりも早く「予兆」が届き、風が吹く前に「空気の歪み」が皮膚を刺す。

 静寂の均衡が、一瞬だけ、いびつに折れた。

 秀兵衛の瞳が、獣のそれのように鋭く細められる。

 視界のどこにも人影はない。草木も揺れず、虫の声すら途絶えた。だが、そこに――「非在」の何かが確実に実体化していた。

 地面が、ぬるり、と歪んだ。

 夜の闇が泥のように盛り上がり、音もなく人の輪郭を形成する。

 影女。

 顔も表情も拒絶した漆黒の女が、地面から半身を這い出させ、泥のごとき腕を伸ばした。

 影の手。

 光を吸い込むような絶対の黒が、秀兵衛の胸を、心臓を掴もうと迫る。

 速い。だが――。

 秀兵衛の肉体は、すでに最適解を選び取っていた。

 重力を感じさせぬ足運びで半歩ずらし、紙一重の虚空へ身体を逃がす。影の指先が、彼の着物の端を虚しく掠めた。斬撃を繰り出そうとした刹那、影女は水が地面に染み込むようにして沈み、消えた。

 訪れるのは、一瞬の静寂と、次なる死の予感。

 秀兵衛は構えを解かない。気配の「道」を視る。

 右。背後。左。上――。

 影は三次元の檻となり、あらゆる死角から現れては消える。殺気さえ希薄な、無機質な捕食の意志。

(……流れだ。点を見るな)

 影が現れる寸前、空間にわずかな沈降が生じる。沈む直前、波紋のような余韻が残る。

 秀兵衛はそれらを一つの旋律として捉えた。

 避ける。止まらない。流れる。

 回転の遠心力に刃を乗せ、円を描く斬撃が「流転」の軌道を描く。

 背後。首筋を狙い伸びる影の腕。

 秀兵衛は振り返らない。回転の極致に達した刀を、ただ「道」に置く。

 ――確かな、硬質な手応え。

 空を斬る音ではない。闇の深奥に隠された、異質の「核」を断つ感触。

 影女の動きが凍りつく。

 黒い身体が崩壊を始め、その中心部から影よりもさらに濃い、漆黒の結晶が露わになった。刃はその急所を、一片の狂いもなく貫通していた。

 影女は叫びすら上げず、ほどけた墨のように夜へと溶け、霧散した。

 再び訪れる静寂。

 秀兵衛は呼吸を乱さぬまま、ゆっくりと刀を鞘に滑らせる。

 ――カチリ。

 その硬質な残響が夜に溶けた、その瞬間だった。

 崩れかけた塀の上。

 空気そのものが、熱に浮かされたように「ゆらり」と揺らめいた。



六、再戦

 塀の上から、凍てつくような声が夜気を切り裂いた。

「秀兵衛。……やはり生きていたか」

 その声を聞いた瞬間、秀兵衛の胸の奥底に、一塊の氷が落ちた。

 振り返る必要はない。背後で爆ぜるような殺気が、彼女の存在を何よりも雄弁に物語っていたからだ。

「アヤメ。……ここで、今度こそ終わらせる」

「それは――」

 言い終えるより早く、彼女の輪郭が掻き消えた。

 次の刹那、視界のすべてを銀閃が埋め尽くす。

「こっちの台詞だ!」

 火花が夜の闇を鮮烈に爆ぜさせる。

 秀兵衛は反射を超えた直感で刀を掲げ、その必殺の居合を受け止めていた。

 重い。かつてその身を断たれた時と同質の、いや、さらに重みを増した絶対的な死の圧力。腕の骨が軋む衝撃が走る。だが、今の秀兵衛の肉体は、微塵も揺るがなかった。

 二人は同時に弾かれるように後退し、再び睨み合う。

 静寂。アヤメは淀みない所作で刀を鞘へ滑り込ませた。一切の無駄を排したその姿勢は、次なる抜刀が光速を超えることを告げていた。

 抜刀。抜刀。抜刀。

 目にも止まらぬ神速の斬撃が、絶え間なく降り注ぐ。

 だが、秀兵衛はもはや止まらない。一太刀ごとに思考を挟み、一撃ごとに静止していた、かつての「人」の剣士はもういない。

 流れる。受けた力を円の軌道に預け、そのまま自身の推進力へと変換する。

 「流転」の刃がアヤメの神速と噛み合い、火花の礫が降り注ぐ廃墟を青白く照らし出した。

 アヤメの双眸が、狩人のそれのように鋭く細められる。

「ふっ……型を変えてきたか。面白い」

 鍔迫り合いの最中、彼女の声音が一段と低く沈んだ。

「ならば、これはどうだ」

 アヤメが大きく距離を取った瞬間、大気が墓所のように重く沈下した。

 濃密、かつ圧倒的な妖気が彼女の細い身体から噴き出す。黒い炎のような影が彼女を包み、その骨格を、存在そのものを歪めていく。

 揺れる髪の隙間から、逆立った猫のような耳が覗き、背後では先端が不気味に二つに裂けた長い尾が、意志を持つ蛇のように蠢く。

 妖――猫又(ねこまた)

「それがお前の正体か」

 秀兵衛の声は地を這うように低い。

 アヤメは艶然と笑った。その瞳はすでに、知性を湛えた獣のそれに変わっている。

「そうだ。私は最初から、お前たちを喰らう側だ」

 彼女の裂けた口がゆっくりと開く。

 次の瞬間、肺腑から灼熱の火球が吐き出された。

 夜空を橙の凶光が焼き、腐敗した大気が悲鳴を上げる。

「妖は斬れても、火は斬れまい?」

 彼女の周囲を、意思を持つ燐火がゆらゆらと浮遊する。空気が焼ける、鼻を突くような匂い。

 アヤメが再び踏み込む。

 高速の斬撃。秀兵衛がそれを受ける。

 その直後、死角から火球が撃ち出された。刃を受けた直後、身体に生じる不可避の「硬直」を、正確無比に穿つ連撃。

 横へ跳ぶ。だが着地した瞬間には、すでに次の斬撃が鼻先を掠める。

 受ける、逸らす、火球を躱す。

 斬撃、火球、斬撃、火球。

 光と刃が網の目のように視界を埋め尽くし、逃げ場を塗り潰していく。

 地面は焦げ、瓦は粉々に砕け散る。

 間合いに入る隙がない。攻撃に転じる余裕など、どこにもない。

 完全なる攻防一体。彼女の周囲には、触れれば死を招く「絶望の結界」が張られているかのようだった。

 アヤメは薄い唇を吊り上げた。

「どうした、秀兵衛。先ほどまでの威勢はどこへ行った!」

 火と刃が夜を裂き続ける。

 暴風のような連撃の渦中。

 しかし、その中で――秀兵衛の呼吸だけは、鏡のような静寂を湛え、深く、鋭く、整い始めていた。

 降り注ぐ火と刃。その嵐の中で、秀兵衛はただ防戦に徹しているように見えた。

 だがその実、彼の全意識は針の先のように鋭く、一点へと収束していた。襲いくる刃でも、爆ぜる火球でもない。それらを繰り出し続ける根源――アヤメ、そのものへ。

 「流転の型」の本質は、ただ円を描き続けることにはない。それは相手の発するあらゆる「流れ」を、自身の血肉として取り込み、理解するための受容器でもあった。

 斬撃が虚空を裂く。火球が夜を焼く。

 避ける。受ける。逸らす。その絶え間ない反復の中で、秀兵衛は頭脳を冷徹な算盤へと変え、冷酷に数を刻んでいた。

 火球の描く弾道。撃ち出される拍子。熱の生まれる位置。そして、何よりもその「総数」。

(……一定だ)

 再び、アヤメの喉奥から凶悪な燐火が吐き出される。

 その刹那、アヤメの肩がわずかに、本人も気づかぬほど微細に跳ねた。妖といえど、無から有を生むには対価を要する。爆発的な連撃は、確実に彼女の「内側」を削り始めていた。

 そして――秀兵衛は、その限界を視た。

 火球は常に彼女の周囲に一定数しか存在しない。新たに無尽蔵に湧いているのではない。あらかじめ練り上げた火を、順番に解き放っているに過ぎないのだ。

(――弾が、切れる)

 秀兵衛の瞳が、仮面の内側で黄金色に爆ぜた。

 アヤメが残る全ての火球を、空間を塗り潰すように一斉に放つ。夜空が呪わしい橙色に染まり、逃げ場を完全に断つ。

 常人ならば、あるいは以前の彼ならば、生存を願って後方へ退いただろう。

 だが。

 秀兵衛は、踏み込んだ。

 死の雨の只中、最短距離を、前へ。

「なっ……!」

 アヤメの驚愕を置き去りに、秀兵衛は火の隙間を縫うように身体を捻る。すれ違う灼熱が頬を焼き、前髪を焦がす。だが、その痛みが届く前に、彼の刃はすでにアヤメの懐へ届いていた。

 ただ一度、閃光が走る。

 湿った音が夜風に混じり、アヤメの横腹から鮮血が散った。

「な、なぜ……なぜ、この私が……!」

 アヤメは獣のような身のこなしで大きく後退し、自らの傷口を凝視する。

 秀兵衛は、静かに、そして巌のように構えを直した。その呼吸には、乱れ一つない。

「お前は逐一、抜刀と納刀を繰り返す。……それはお前が過去、どんな難敵であろうと一閃で仕留めてきた、絶対的な自負の現れだろう」

 静かな声が、夜を凍らせる。

「それがお前の、唯一にして最大の『クセ』だ」

 秀兵衛の切っ先が、月の光を集めて冷たく揺れる。

「左下から、右上へ。どんなに速度を上げようとも、お前の刃は必ず同じ軌跡を辿る。……だからこそ、読み易い」

 かつてアヤメが彼に投げつけた言葉が、そのまま彼女を刺し貫く。

「黙れ……黙れッ!」

 屈辱に顔を歪めたアヤメが、叫びと共に再び口を開く。残された妖力を振り絞り、先ほどよりも狂乱した密度で火球を吐き散らす。

 斬撃、火球、斬撃、火球。

 焦燥に駆られた攻撃は、鋭さを増しながらも、同時に単調さを露呈していく。

 「流転」を続ける秀兵衛の動きは、避けるたびにアヤメへと近づき、受けるたびに致命の角度を研ぎ澄ませていく。

 アヤメは気づかない。

 自らが放つ火の玉が、一つ、また一つと、確実に減り続けていることに。

 彼女は、弾薬を分けて撃つことで「持続」させていたに過ぎない。

 そして。

 最後の一つ。

 絶叫と共に放たれた橙の軌跡が、夜を切り裂いた。

 その瞬間、秀兵衛は爆ぜた。

 先刻の倍。空間を飛び越えるような圧倒的な加速。

 一直線。

 迫りくる最後の大火を、顔の真横で受け流す。髪が、衣服が、火花を散らして焦げる。だが、視界のすべては眼前の「敵」のみを射抜いていた。

 距離が、消失する。

 地を蹴る足音が廃墟に爆音となって響き、秀兵衛の影がアヤメの足元を覆う。

 刃が、今度こそ逃げ場のない懐へと、鋭く突き刺さるように迫った。

「……これで、終いだ」

 静かに告げた瞬間、秀兵衛の刃は迷いなく、最短の軌跡を描いてアヤメの胸を貫いた。骨が砕け、肉が断たれる鈍い感触が、刀身を通じて秀兵衛の腕に伝わる。

 次の刹那、裂けた傷口から鮮血が夜の帳へと噴き出した。鉄の匂いが濃密に広がり、生ぬるい飛沫が秀兵衛の仮面を汚す。

 アヤメの瞳が、大きく、ゆっくりと揺れた。

 その手から名刀が滑り落ち、瓦礫の上で乾いた音を立てて跳ねる。彼女の膝が力なく折れ、身体がゆっくりと前へ傾いだ。

 秀兵衛は即座に距離を取り、一閃、刃を振って血を落とした。流れるように納刀するが、その双眸は最後まで彼女の「死」を見届けるべく、鋭く射貫いたままだ。

 アヤメは口から溢れる血を拭うこともせず、妖しく笑った。

「秀兵衛……強く、なったな……。妖斬りに入ったばかりの時は……あんなに惨めで、今にも折れそうなほど脆かったのに……」

 夜風が、血に濡れた彼女の髪を無慈悲に揺らす。

「ああ……やっぱり、憎いな。その力も……お前という存在そのものも」

 彼女の裂けた尾が、死の間際の痙攣のように激しく打ち振られた。

「だからせめて……道連れにしてやる!」

 絶叫と共に、彼女の全身から制御を失った妖気が噴き出した。

 火。

 それは彼女の命そのものを燃料とした、最後にして最大の狂乱。燃え尽きる寸前の灯火が放つ、網膜を焼くような橙の暴風。

 夜空が一瞬で血の色に染まり、降り注ぐ火柱が秀兵衛を呑み込もうと迫る。

 だが、秀兵衛は動じなかった。

 爆ぜる熱風の中で、彼は静かに、深く、呼吸を整えた。

 迫りくる火球に対し、最小限の動きで、舞うように一歩をずらす。炎は彼の着物を掠めるだけで、虚しく後方へと過ぎ去っていく。

 また一歩。また一歩。

 もはや「視る」までもない。荒れ狂う火の軌道さえも、今の秀兵衛にとっては「流転」すべき自然の流れの一部に過ぎなかった。

 アヤメの表情が絶望に歪む。妖力が底を突き、火球の形が無惨に崩れ始めた。

 やがて、天を指していた炎の牙が、その主へと牙を剥く。

「あ……」

 制御を失った焔が、アヤメ自身の着物を、髪を、白く細い肌を包み込んだ。

 次々に降り注ぐ自らの業火。アヤメはなおも立ち上がろうとしたが、その足はすでに灰へと変わり始めていた。

 秀兵衛は一歩も動かず、ただその終焉を網膜に焼き付けた。

 火に焼かれながら、アヤメの顔がわずかに天を仰いだ。

「……淵鵺様……ごめ……なさい……」

 祈りか、あるいは謝罪か。その声は最後まで形を成さず、崩れ落ちた肉体と共に、夜の闇へと溶けていった。

 火も、妖気も、そして裏切りの戦友も、すべてが消えた。

 残されたのは、焦げ付いた地面を撫でる寒々しい夜風だけだ。

 秀兵衛は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 喉の奥に込み上げてくるはずの達成感も、燃え盛るような怒りも、もうどこにもない。

 あるのは、心臓のあった場所を吹き抜ける、冷たく、底知れない空虚だけだった。

 彼はゆっくりと目を閉じ、わずかに残った「人」の吐息を吐き出した。

 そして再び目を開く。

 沈みゆく常闇の向こう側、かつて自分が信じていた「世界」の残滓に向かって、ぼそりと告げた。

「……さよなら」

 夜の闇は、どこまでも深く、果てしなく続いている。

 その闇の中へ、仮面を被った新しい「妖斬り」は、音もなく背中を向け、歩き出した。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ