第三幕
一、ざわめき
秀兵衛が入団してから、十年と少しの歳月が経っていた。
その夜の風は、落ち着きなく湿地帯を撫で、澱んだ水の匂いを運んでいた。
本部の庭先、鈍く光る狐の仮面を手にしたアヤメが、闇に溶けるようにして立っていた。十年経っても背丈はさほど変わらず、その美貌も維持し、それ以上に妖艶さを増していた。月は薄雲の向こう側で形を歪め、降り注ぐ光は絶えず揺らぎ、地面に落ちる影を不安定に揺らしている。
「先に行くよ」
背負った剣の鞘が、微かに衣と擦れる音を立てた。
「単独か?」
秀兵衛の問いに、アヤメは表情を隠したまま、小さく頷いてみせた。
「北の方に、少しばかり厄介な気配があってね。……わざわざ人数を割くほどの大物じゃない。私一人で、適当にあしらってくるよ」
それは、長年の経験に裏打ちされた、いつもの冷静な判断に聞こえた。危険を正しく測り、最小限の力で断つ。妖斬りとしての「模範」のような彼女の言葉に、秀兵衛が疑いを挟む余地はなかった。
「……無理はするな」
秀兵衛の口から出たその一言に、アヤメの足がわずかに止まった。
「大丈夫」
彼女は一度だけ振り返り、唇の端に微かな弧を描いた。
「私、しぶといから。……泥の中でも、どこででもね」
そう言って浮かべた笑みは、いつになく柔らかく、それゆえに二度と交わらぬ者への「言い置き」のように秀兵衛の目には映った。
彼女の背中が闇に消えたあとも、秀兵衛はしばらくその場所に立ち尽くしていた。
ふと、かつて彼女が漏らした言葉が、呪文のように脳裏をかすめる。
――斬り続けたら、戻れなくなる気がした。
ざわつく胸の奥を、正体不明の疼きが走り抜ける。それが、彼女を襲う危機への予感なのか、あるいは、すでに崩れ始めていた「信じていた世界」の悲鳴なのか。秀兵衛には、まだ知る由もなかった。
源次郎は、低く垂れ込めた空を仰いでいた。この十年で彼の顔には、歴戦の傷と皺が増えていた。年相応の貫禄が備わっている。
「雲の流れが、やけに速ぇな……」
独り言のように吐き出されたその言葉は、風にさらわれて闇へと消える。彼はそれから、どこか遠くを見るような瞳で秀兵衛を呼び止めた。
「秀兵衛」
差し出されたのは、煤けた紙に包まれた小さな包みだった。
「持っていけ。お前の任務なら、必要になるはずだ」
「これは……?」
「仮面の内側に仕込む守り札だ。気休めにしかならねぇが、これがあれば妖気の逆流をわずかに抑えられる」
源次郎はそれ以上の理由を語らなかった。しかし、その差し出し方には、単なる備品を手渡すのとは異なる、断ち切りがたい重みと祈りが込められていた。
「源次郎さん、何か……」
「……いいから行け。そして、必ず帰ってこい」
背中を向ける師の姿が、揺れる松明の火に照らされて、ひどく小さく見えた。秀兵衛は喉元まで出かかった問いを飲み込み、胸の奥で騒ぎ続ける不吉な予感を振り切るようにして、闇の中へと駆け出した。
――だが、待ち構えていた戦地は、地獄だった。
想定を遥かに超える少妖の群れ。
知性こそないが、泥の中から次々と湧き出すその数は、まるで秀兵衛をこの地に繋ぎ止めるために差し向けられた「足留め」のようだった。
一匹を断てば、背後から腐臭を纏った爪が迫る。足場はぬかるみ、踏み込むたびに体力を根こそぎ削り取られていく。
――早く戻らなければ。
焦燥が刃を鈍らせ、乱れた呼吸が視界を歪める。秀兵衛は必死に源次郎から授かった札の冷たさを肌で感じ、己を律した。一体ずつ、確実に、そして冷徹に。
ようやく最後の一匹を泥へと還したとき、月はすでに西の空へと傾き、白々と不気味な光を放っていた。
静寂が訪れた戦場。しかし、秀兵衛の胸を満たしたのは勝利の余韻ではなく、心臓を鷲掴みにするような凶兆だった。
「……嫌な予感がする」
呟いた声が、自身の耳にさえ他人のもののように聞こえる。
秀兵衛は血を払う暇さえ惜しみ、泥を蹴って走り出した。
向かう先は、ただ一つ。
仲間の、そして自らの拠り所である――本部へ。
二、本部壊滅
本部の全容が闇の中に浮き上がったとき、秀兵衛が真っ先に抱いた違和感は「音」だった。
板を踏む微かなきしみ、夜風に揺れる縄の音、奥から聞こえる誰かの寝息。この場所を満たしていたはずの「人の営み」が、何者かによって根こそぎ刈り取られたかのような、耳を刺す静寂。
胸の奥に、針で突かれたような鋭い寒気が走る。
一歩、足を踏み出した。
次に鼻腔を突いたのは、逃れようのない「匂い」だ。
潮の香りを塗り潰す、鉄の匂い。生温かく、湿った血の芳香。
「……嘘だ」
言葉にした瞬間、喉が焼けるように乾いた。
門をくぐれば、倒れた松明から黒い煙が蛇のように這い回り、消えかけた火が死にゆく者の鼓動のように不規則に爆ぜている。床に引かれた血の跡は、点ではなく、重い何かを引きずったような無慈悲な線となって奥へと続いていた。
「……ッ!そこにいるのか」
震える声を絞り出し、最初に見つけたのは見張りの男だった。
首はあり得ない角度で折れ、己を繋ぎ止めていたはずの仮面は砕け散っている。晒された素顔には、恐怖さえ浮かべる暇もなかったような、虚無だけが張り付いていた。
ここで、焦燥は明確な「恐怖」へと形を変える。
「源次郎さん……?」
奥へ進むほど、足元を流れる血がぬかるみとなり、一歩ごとに命の重さが草履にまとわりつく。訓練場に転がる三人分の骸。剣は抜かれているが、刃を交えた形跡は驚くほど少ない。
奇襲。それも、気配を完全に消し、相手が「仲間」だと信じて疑わなかった隙を突いたような、残酷な殺し。
頭が理解を拒絶する。だが、一人、欠けている。
アヤメの部屋だけが、嵐の後の凪のように静まり返っていた。血の跡も、争った形跡もない。
――生きている。
その希望は、しかし、肺に溜まった泥のように秀兵衛を苦しめた。
そして、最奥の間。
壁にもたれ、己の血の海に座り込んでいたのは、源次郎だった。
「源次郎さん!」
駆け寄り、震える手で腹の傷を押さえる。
「……遅ぇよ」
吐き出された声は枯れ果て、血の泡がその唇を汚す。
「すみません……俺が、任務になんて行かなければ……」
「いい。お前が、悪いんじゃねぇ……」
秀兵衛は、震える手で傷を押さえる。
「……誰が、やったんですか?」
源次郎は、答えない。
その代わり、残された力を振り絞って秀兵衛の手首を掴んだ。骨が軋むほどのその握力には、彼が遺そうとした最後の意志が宿っていた。
「秀兵衛。……仮面を、絶対に外すな」
「え……?」
「何があってもだ。……お前は、まだ……」
言葉は、それ以上形にならなかった。
掴んでいた手が、重力に従って床に落ちる。
その瞬間、秀兵衛の中で、世界を繋ぎ止めていた最期の糸がぷつりと切れた。
叫びは出なかった。
代わりに、視界から色彩が剥がれ落ち、世界は一段と深い闇へと沈んでいく。
膝をつき、まだ微かな熱を残す床の血に触れる。
「……俺が……斬る」
乾いた声が、低く響いた。
涙も、怒りも、もう通り過ぎた。
残ったのは、ただ一点を穿つような、鋭利で静かな決意。
秀兵衛は立ち上がり、血に濡れた仮面を強く握り直した。
夜は、まだ終わっていない。
この惨劇を招いた「正体」が、すぐそばで自分を見ていることにも気づかず、彼はただ、暗闇の奥へと視線を向けた。
三、裏切りの刃
闇の奥へと足を踏み出そうとした、その一歩目だった。
気配が――遅れて、剥き出しの殺意が背後から走る。
思考よりも先に肉体が跳ねた。半ば反射的に引き抜いた刀が、虚空から飛来した硬質な衝撃を辛うじて受け止める。甲高い金属音が静寂を切り裂き、散った火花が少年の瞳を白く焼いた。
弾かれるようにして距離を取る。
その先に立っていたのは、狐の仮面を投げ捨てた一人の女だった。
薄雲から漏れた月光が、彼女の横顔を非情に照らし出す。鋭く細められた瞳。血の匂いに混じる、かつて幾度も隣で嗅いだはずの、冷たい水の気配。
「……アヤメ」
名を呼ぶ声は、喉の奥でざらついた砂のように掠れた。
アヤメは肩越しに冷淡な視線を投げ、唇の端を僅かに吊り上げた。その表情には、つい数刻前までの「戦友」の面影は微塵もない。
「秀兵衛か。……どうりで、死体の中に見当たらないと思ったよ」
まるで偶然道端で知人と出会ったかのような、あまりにも軽い声音。その無機質な響きが、秀兵衛の胸を鋭く抉った。
「アヤメ……本当に、あんたが。……裏切ったのか?」
「勘違いするな」
低く、地を這うような冷気が秀兵衛の鼓膜を打つ。
「最初から微塵も、お前たちの仲間だったつもりなどない」
次の瞬間、地を蹴る音すら聞こえなかった。
視界が爆ぜるような衝撃。刀越しに伝わる暴力的な圧が腕を痺れさせ、足元の安定を無慈悲に奪う。秀兵衛の身体はなす術もなく吹き飛ばされ、血に濡れた地面を転がった。肺から強引に空気が搾り出され、視界が明滅する。
体勢を立て直す刹那の猶予も与えず、アヤメは静かに距離を取った。
そして――一度、納刀する。
その所作は、凄惨な戦場には似つかわしくないほどに洗練され、研ぎ澄まされていた。
「そんなに奴らの死に顔が恋しいなら」
鞘に収まった柄に、細い指がかけられる。
「今すぐ、お前も同じ場所へ送ってやる」
抜刀。
――世界が、歪んだ。
左下から右上へ。視認したときには既に「結果」としての刃がそこにあった。秀兵衛は必死に刀を掲げるが、その速さを完全に捉えきれない。斬撃が風圧となって叩きつけられ、肩の肉が裂けた。熱と痛みが、思考を遅れて追い越していく。
息を整える隙も、間合いを測る余地もない。ただ、視えないはずの質量が連続して襲いくる感覚。受けるたびに身体の芯がきしみ、腕が鉛のように重くなる。
速い。あまりにも、強い。
かつて隣で見ていた彼女の剣は、この「真実」を隠すための緩やかな舞に過ぎなかったのか。
アヤメは斬り、納め、また斬る。そのたびに、秀兵衛は一歩、また一歩と死の淵へと追い詰められていく。
反撃の糸口など、どこにも見えない。
荒い呼吸が仮面の内側を曇らせ、視界が狭まっていく。闇だけが色濃く沈殿する世界で、ただひとつ確かなのは――今、自分は圧倒的な「死」の前に立たされているということだった。
尚も、アヤメの連撃は続く。
遂に、膝が無残に地を叩いた。
肺は焼けつくように熱く、いくら呼吸を繰り返しても酸素が足りない。両腕は既に自分の肉体ではないかのように痺れ、刀を握る感覚すら、霧の向こうへ遠ざかっていく。それでも、秀兵衛は折れかけた意志で立ち上がろうとした。師を失い、家を失い、すべてを泥に呑まれた自分に、唯一残された「妖を斬る」という使命だけが、彼の肺を動かしていた。
その頭上から、感情の欠落した冷たい声が降り注ぐ。
「秀兵衛。お前のクセは、とっくに見切ってるんだよ」
顔を上げれば、月を背負ったアヤメが、残酷なほど美しい余裕を纏って立っていた。既に納刀されたその佇まいは、まるで勝敗を決した後の静寂そのものだ。
「源次郎に叩き込まれた型があるだろ。踏み込み、受け、返し――無駄を削ぎ落とした、実に正しい型だ。……だがな、型をなぞることしかできない剣は、読むのがこの世で一番楽なんだよ」
アヤメは再び、静かに鞘へ指をかける。
「次にどこへ踏み出すか。どこで力を溜めるか。お前の身体は、饒舌に次の死を教えてくれる」
抜刀の予動。
秀兵衛は反射的に前へと地を蹴った。考えるよりも早く、これまでの年月で何万回と繰り返してきた「信じてきた型」が身体を突き動かす。一瞬だけ、距離が詰まった。
刃と刃が火花を散らし、銀閃が闇を割る。
秀兵衛の刀が、確かにアヤメの喉元を捉えた。
――斬れた。
確かな手応えが、痺れた掌に伝わった。
だが次の瞬間、その歓喜が「死」の誘いであると悟る。切り裂いたのは血肉ではなく、夜風に揺れた着物の端に過ぎなかった。ひらりと舞う布の切れ端が、秀兵衛の視界を嘲笑うように横切る。
「ほらな」
背後から、絶望が囁いた。
「お前は斬った後に、必ず『確認』する。当たったか。効いたか。……その一瞬の迷いこそが、命取りだ」
振り返る間もなかった。
凄まじい衝撃が、刀ごと腕を打ち抜く。乾いた音を立てて秀兵衛の愛刀が宙を舞い、闇の奥へと吸い込まれて消えた。
素手になったことを理解するより先に、膝から崩れ落ちる。
目の前には、完成された死の構えを取るアヤメ。
左下から、右上へ。
幾度も隣で見てきた、あの一閃。
それが自分の命を断つための光であると、秀兵衛ははっきりと理解した。
刃が走る。
一瞬の熱。そして、遅れて訪れる「感覚の断絶」。
視界が激しく傾き、あらゆる音が深い水の底へと遠のいていく。自分の身体に何が起きたのかを思考する余地すらなかった。ただ、胴が綺麗に断たれ、内側からすべてが失われていく感触だけを、倒れゆく途中で冷徹に把握した。
地に伏す寸前、薄れゆく意識の中に浮かんだのは、ただ一人の男の不器用な背中だった。
「……源次郎……さん……」
言葉は、ほとんど息に等しかった。
「……ごめ……なさい……」
その謝罪を最後に、秀兵衛の世界は漆黒へと沈み、永い断絶の時を迎えた。




