第二幕
一、妖斬りという生き方
夜の帳が下りた本部は、昼間の船着場とは似ても似つかぬ、修羅の揺籠へと変貌を遂げていた。
川船の櫂も、積み荷の縄も、全てが闇の奥へと片づけられた板の間。そこに据えられた松明の火だけが、獣の吐息のように爆ぜ、皆の影を壁に長く引き延ばしている。
秀兵衛を含む新参は、膝を揃えて座らされていた。皆、一様に仮面を着けている。
その正面に立つのは芝田源次郎――妖斬りを束ねる男であり、彼をここへ導いた剣の師だ。
「まず、はっきり言っておく」
源次郎が、重い口を開いた。その視線は、座らされた秀兵衛たちの喉元を、一息に断ち切るような鋭さを帯びている。
「俺たちは幕府の飼い犬じゃねぇし、まして町を救う正義の味方でもねぇ。妖斬りとは、どこにも属さず、誰にも知られぬ……ある種『人殺し』の成れの果てみたいな存在だ」
誰かが息を呑む音が、静まり返った部屋にやけに生々しく響く。
「だがな、覚えとけ」
源次郎はゆっくりと歩き出し、床板を軋ませる。
「人には視えず、触れられず、斬れもしねぇ。そんな理不尽な化け物に爪を立てられるのは、この江戸広しといえど、己の『人』を削り取った俺たちだけだ」
傍らに控える古参の男が、歪んだ笑みを浮かべて言葉を繋いだ。
「ああ、力を得るには『契り』という名の毒を食らうしかねぇ。だが、妖を斬るたびに、お前さんたちの魂はあちら側へと引き寄せられていく」
「限度を越えりゃあ、明日にはお前が『斬られる側』に回るのさ」
別の男が、自嘲気味に付け足した。
「だから仮面を着ける」
源次郎は自分たちが着けている仮面を指でなぞった。
狐、鬼、翁――それらは松明の火に照らされ、まるで生きているかのような不気味な表情を浮かべている。
「これは飾りじゃねぇ。人としての境界を繋ぎ止める『楔』だ。……だがな、楔を打ち込めば、当然感覚は鈍る。敵の格を見誤り、暗闇から届く囁きに惑わされる夜も来るだろう」
秀兵衛は、無意識に自分の掌を見つめた。
まだ、温もりを知る人の手だ。
しかし、骨の芯にこびりついた契りの熱が、そこにあるはずのない、暗い渇望を呼び覚まそうとしている。
「もう戻る道はねぇぞ」
源次郎の声が、鼓膜を震わせる。
「妖を斬るために、己を磨り潰し続ける。そんな地獄に片足を突っ込む覚悟がある奴だけが、ここに居るんだろ!」
突き上げられた怒号のような問いに、秀兵衛は顔を上げた。
仮面の奥で燃える、源次郎の瞳。その冷徹な光の中に、自分の行く末を見た気がした。
恐怖はあった。だが、それ以上に、迷いはなかった。
――ここなら、届く。
あの日、全てを泥に沈めたあの男の脛に、俺の刃が届くはずだ。
恐怖は、いつしか昏い確信へと形を変えていた。
夜半。
本部の裏手に回ると、川面を撫でる風が、剃刀のような鋭さで肌を刺した。
秀兵衛は尚も仮面を着けたまま、膝を抱えて座っていた。
刀を握った掌が、まだ微かに震えている。
「……最初は、誰でもそうなるよ」
不意に背後から届いた声は、夜の静寂に溶け込むほどに穏やかだった。
振り返れば、柱に背を預けたアヤメが、月明かりをその身に受けて立っている。仮面を外た彼女の素顔は、驚くほど透き通り、そしてどこか生身の人間離れした静謐さを纏っていた。
「斬ったあと、手が熱くなる。胸の奥がざわついて、大切な何かをどこかに置き忘れてきたような、そんな感覚」
アヤメは視線を暗い川の流れへと移し、淡々と、しかし慈しむような声音で言葉を重ねる。
「私も、そうだった」
彼女の指が、無意識のように自身の胸元をなぞった。秀兵衛の目には、それが消えぬ傷跡を惜しむ、戦士の仕草に見えた。
「何を失くしたのか、今となってはもう思い出せない。ただ、このまま斬り続ければ、二度と人の淵へは戻れない――そんな予感だけが、影のように付きまとっていた」
「でもね」
アヤメは秀兵衛の方へ振り返り、唇の端に冬の残光のような微かな笑みを浮かべた。
「立ち止まることは、もっと怖い。だから、私は考えるのを止めたの。……その方が、楽になれるから」
それだけ言い残すと、彼女は迷いのない足取りで闇の奥へと去っていく。
「明日も早い。休みなよ」
遠ざかる背中を見送りながら、秀兵衛は独り、安堵に近い溜息を吐いた。この孤独な修羅において、先を進む者の背中を見つけた。その確信が、冷えた身体をわずかに温める。
その夜、秀兵衛は深い闇の底で、久しぶりに安らかな眠りに落ちた。
二、初任務
陽が昇れば、そこはただの川だった。
秀兵衛は泥に汚れた半纏を纏い、船頭として櫂を握る。客を乗せ、江戸川の濁った流れを横切る日々だ。
重い櫂を操り、水の抵抗を掌で受け止める。流れの速さを読み、船の重心を足裏で探りながら、一歩も引かずに支える。源次郎は、その泥臭い労働のすべてを「剣の理に通じる」と説いた。
「水の流れを斬るな。流れに己を預け、殺気を殺せ。船を滑らせるように剣を振れ」
師の言葉を反芻しながら、秀兵衛は客の世間話を聞き流す。人の営みのすぐ隣で、己の肉体が着実に「武器」へと変質していく実感が、冷たい水飛沫とともに肌に刺さった。
仕事を終え、夕闇が迫る頃には鍛錬が始まる。
木刀を振り下ろすたびに、肩の筋肉が悲鳴を上げ、掌の豆が潰れては硬くなる。足運びを繰り返し、呼吸を極限まで細く、長く整えていく。
身体は、期待に応えるように鋭さを増していった。しかし、それと反比例するように、心だけが置き去りにされていく。
食事の味が薄くなる。客の笑い声が、遠い異国の言語のように意味をなさなくなる。
秀兵衛の内の「人」が削れ、空いた隙間に、契りの夜に感じたあの昏い渇望が、静かに満ち始めていた。
やがて、空が紫から漆黒へと塗り潰される。
――夜が来る。
本部の奥、松明の火に照らされた源次郎の眼光が、かつてない冷徹さを帯びた。
「初任務だ」
その一言が、湿った空気の幕を切り裂いた。
向かった先は、川沿いにひっそりと佇む古びた祠だった。
かつては水神を祀っていたのだろうが、今は見る影もなく朽ち果て、夜の闇をより深く溜め込む器と化している。最近、この界隈では不自然に灯火が消え、暗闇に足を取られて転ぶ者が絶えないという。
「『泥返し』の類だ。少妖だが、小細工に長ける。油断するな」
源次郎の低い声を合図に、秀兵衛は狐の仮面を装着した。
視界が、一変する。
仮面を透した世界は、色を失った代わりに、濃厚な死の気配が揺らめく「淵」と化した。祠の影、ぬらりと蠢く「それ」がいた。泥を煮詰めたような漆黒の影が、人の形を歪に真似て、地面を這い回っている。
――視える。斬れる。
頭ではそう感じているのに、秀兵衛の足は地を這う泥に縫い止められたように動かない。
鍛錬の木刀は、確かな手応えを返してくれた。だが、目の前の影には、骨も肉も感じられない。斬っても刃が虚空を泳ぐだけではないか――そんな根源的な恐怖が、少年の心臓を冷たく掌握した。
「……秀兵衛!」
源次郎の叫びが、何層もの膜を隔てたかのように遠く響く。
次の瞬間、影が獲物を見定めて跳ねた。氷の牙のような冷気が、秀兵衛の無防備な喉元へと肉薄する。
――一閃。
風を断つ鋭い音が夜気を裂き、闇が鮮やかに割れた。
秀兵衛の鼻先を掠めた黒い影は、悲鳴ひとつ上げることなく二つに断たれ、墨汁が散るように地に溶けて消えた。
「ぼさっとするな」
傍らに立っていたのは、アヤメだった。いつ抜刀し、いつ鞘に収めたのか。その一連の動作には、羽虫を払うような平然とした無駄のなさが宿っていた。
「初陣で足がすくむのは、恥じゃない。……でも、止まったままだと、次は中身を抜かれるよ」
彼女の声音に揺らぎはない。それは、幾百もの怪異を葬り、すでに「あちら側」の理に馴染んだ者の響きだった。
だが、安堵する間はなかった。祠の奥、空気が肺を潰すような重さを伴って沈み込む。
「もう一匹、親玉がいるな」
源次郎が前に出た。
這い出してきたのは、先ほどとは比較にならぬ濃密な妖気だった。地に貼りつく泥の波が、じわじわと周囲を侵食していく。秀兵衛が息を呑む暇さえ与えず、源次郎が踏み込んだ。
小細工も、威圧もない。ただ「そこに妖が在るから斬る」という、冷徹なまでに純粋な一太刀。
一瞬の静寂ののち、膨れ上がった妖気は、霧散した。
「見たか」
源次郎は振り返らぬまま、抜き身の刀を闇に晒して言った。
「これが実戦だ。鍛錬は、死なぬために身体を動かす『癖』をつける儀式に過ぎねぇ」
秀兵衛は、崩れ落ちそうになる膝を必死に支えていた。仮面を外したとき、頬を伝う汗が異常に冷たいことに気づく。
アヤメがちらりと彼を見やり、唇の端をわずかに上げた。
「生きてるなら、今日は上出来だよ」
その言葉が、凍りついた秀兵衛の胸の奥を、微かな熱で溶かしていく。
――強い。これが、本物の妖斬りか。
自分はまだ、一欠片の闇さえ斬れていない。
だが同時に、秀兵衛は呪いのような確信を抱いてしまった。この二人の背中を追い、さらに自分を磨り潰していけば、いつかあの日の泥男の頸を……真実の闇を、断ち切れるのではないかと。
三、微かな揺れ
それから、数年の月日が流れた。
秀兵衛の掌には、もはや初陣の夜のような震えはない。
狐の仮面を被れば、泥のように重い空気も、肌を刺す殺気も、呼吸と同じように当たり前のものとして受け入れられるようになっていた。小妖の類であれば、もはや源次郎の手を借りるまでもない。影を捉え、その核を迷いなく断つ――ただそれだけの作業だった。
「上出来だ」
背後で、源次郎の低く乾いた声が響く。かつて先頭で剣を振るっていた師は、今や一歩引いた場所で、弟子の背中を見守る監督役に回ることが増えていた。
「腕を上げたね、秀兵衛」
隣で刀を鞘に収め、アヤメが短く笑う。その微笑みに、秀兵衛は確かな「戦友」としての絆を感じ、わずかに胸を張った。
――異変が起きたのは、その直後だった。
廃屋の床板に伏した妖は、まだ完全に消滅していなかった。泥に似た妖気が薄く揺らぎ、消えかかった炭火のように微かな熱を放っている。
「止めを刺す」
秀兵衛が、吸い付くような動作で剣を正眼に構えた、その時だった。
「待って」
静かな、だが有無を言わせぬ響きを帯びた声が彼を止めた。アヤメだ。
彼女は仮面の奥から、地を這う妖をじっと見下ろしている。
「……どうした。まだ、息がある」
「もう動けないよ。深追いは無用。放っておけば、夜明けの陽光に焼かれて消えるわ」
彼女の言葉は、合理的だった。妖斬りにとって、不必要な妖気の吸収は、己の変質を早める毒でしかない。力を失った端くれを放置するのは、疲弊を避けるための現場の知恵でもあった。
だが、秀兵衛の直感が、針で突かれたような微かな違和を訴える。
アヤメの視線。
彼女は、眼下の獲物を見ているのではない。そのさらに奥――闇の深淵に潜む、何か別のものへ視線を送っているように見えたのだ。
「確実に斬った方がいい。もし万が一――」
言いかけて、秀兵衛は言葉を飲み込んだ。
これまで幾度、彼女の冷静な判断に命を救われてきたか。初陣の夜、足のすくんだ自分を笑わずに引き上げてくれたのは、誰だったか。
「……分かった」
秀兵衛は剣を下ろした。
その瞬間だった。
泥のような妖の身体が、歓喜に震えるように微かに波打った。
アヤメはそれを見逃さなかった。いや、待っていたのだ。
ほんの一瞬、彼女の唇の端が、重荷を下ろした安堵のように、あるいは隠しきれない慈しみのように緩んだ。
――気のせいだ。
秀兵衛は、心の中に生じたさざ波を強引に平らげ、前を向いた。
感覚が鋭敏になりすぎて、幻覚を見ているのだ。そう自分に言い聞かせ、彼はアヤメの背中に続いて廃屋をあとにした。
その背中が、いつにも増して、遠く、冷たいものに見えたとしても。
帰り道、銀色に光る川沿いの土手を歩きながら、アヤメがふと足を止めた。
「さっきの判断、ありがとう」
不意の言葉に、秀兵衛は戸惑いを隠せない。
「いや……俺は、ただあんたの判断に従っただけだ」
「無理にすべてを断ち切る必要はないの」
彼女は再び歩き出し、背中で淡々と語り続ける。その声は、川面のさざ波のように穏やかで、どこまでも澄んでいた。
「斬ることそのものが目的になれば、いつか見失うものも出てくる。……私たちは、壊すためだけにここにいるんじゃない。そうでしょ?」
秀兵衛は、その言葉を金言のように胸に刻んだ。
――強さとは、ただ剣を振るうことではない。己の殺意を制御し、時には刃を収める慈悲を持つこと。
そう、納得してしまった。いや、納得することで、芽生えかけた疑念を必死に押し殺した。
だがその夜、静まり返った本部の寝床で、彼は一つの光景に囚われた。
まどろみの淵に現れる、あの泥のような妖の残骸。止めを刺されずに済んだその異形が、最後に、歓喜に震えた瞬間。
まるで――“助かった”とでも言って、安堵したかのような。
あるいは、“母”に抱かれた稚児のように、甘えていたかのような。
はっとして目を覚ました秀兵衛は、自分の額を流れる汗の冷たさに、身体を震わせた。暗闇の中で、傍らに置いた狐の仮面を手に取る。指先が触れた白磁の冷たさが、荒れた呼吸をわずかに鎮めてくれた。
疑うべき根拠など、どこにもない。
アヤメは誰よりも長くこの組織に尽くし、自分を導いてくれた恩人だ。信じない理由など、探すほうがどうかしている。
だから、この胸のざわつきは、成長の過程で生じる一時の迷いなのだと。
妖の感覚に近づきすぎたせいで、心が過敏になっているだけなのだと。
彼はそう思い込み、再び重い闇の中へと意識を沈めた。
――それが、修復不能な最初の綻びであったことに、まだ気づかぬまま。




