第一幕
一、幼少期の惨劇
土は、音を立てずに人を呑む。
それを、柳島秀兵衛が知ったのは、十になる年の春だった。
村は江戸から半日ほど離れた低湿の地にあった。川が近く、雨が降れば地面はすぐに柔らかくなる。大人たちはそれを嫌ったが、子どもにとっては格好の遊び場だった。秀兵衛もまた、裸足で泥を踏み、濡れた土の冷たさを面白がる、ごく普通の子どもだった。
その夜も、何も変わったことはなかった。
夕餉の後、母が灯した行灯の明かりの下で、父は黙って酒を飲んでいた。妹は眠気に負け、膝の上で舟を漕いでいる。秀兵衛は、その幸福の残照を――その時は、ただ眺めていた。
それが、最後になるとも知らずに。
最初に異変が起きたのは、地面だった。
――ぐずり、と。
家の外から、何かが沈むような音がした。重いものが、柔らかい土に押し込まれる音だ。
妹は、気にせず寝息を立てている。スー、スーと。
ーーぐずり。
今度は、より近くで音が鳴った。
父が顔を上げる。
「……外で、誰か転んだか」
立ち上がろうとした、その瞬間。
床が、沈んだ。
音もなく、確実に。
畳が、足首まで泥に呑まれた。冷たさが、皮膚を通して一気に上がってくる。母が悲鳴を上げ、妹を抱き寄せた。
「な、なんだい……!」
返事はなかった。
代わりに、土の中から「それ」が現れた。
人の形をしていた。だが、人ではなかった。
痩せた男のような輪郭。顔は泥に覆われ、目だけが不自然に光っている。その目が、秀兵衛を見た。
――覗かれた。
そう感じた瞬間、頭の奥が、ひどく冷たくなった。
「やめ、て……」
自分の喉から出た声が、ひどく他人行儀に聞こえた。
「……え?」
なにかが、おかしい。
怖いはずなのに、胸がざわつかない。家族が目の前にいるのに、その存在が、少しずつ遠ざかっていく。伸ばした手が、まるで泥を掴むように家族の身体をすり抜ける。
泥の男が、低く笑った。
「埋めよう。大事なものから」
父が刀を取ろうとした。だが、足が動かなかった。床下から伸びた無数の泥の手が、父の脚を掴み、引きずり込む。
母の叫び声。
妹の泣き声。
それらが、遠い。
秀兵衛は、それを「聞いている」はずなのに、意味が分からなくなっていた。
泥の男が、また言った。
「忘れれば、楽になる」
次の瞬間、家が傾いた。
柱が沈み、壁が割れ、土と一緒にすべてが引きずられていく。父の顔が、母の手が、妹の髪が、泥に塗れて――
そして、見えなくなった。
秀兵衛は、立っていた。
なぜ立っていられるのか、分からない。
足元は泥だらけなのに、沈まない。いや、沈んでいるのに、それを「感じていない」。
胸の奥が、空っぽだった。
泣かなければならないことは、分かっている。
だが――何を、失ったのかが、分からない。
妹の竹とんぼだけが、泥にプカリと浮いている。
泥の男は、満足そうに頷いた。
「これでいい。お前も、いずれ溶ける」
その言葉だけが、妙にはっきりと残った。
次に目を覚ました時、夜は明けていた。
村は、なかった。
家も、人も、声もない。ただ、ぬかるんだ地面が広がっているだけだった。
秀兵衛は、その真ん中に立っていた。
涙が頬を伝っている。
だが、なぜ泣いているのかは分からなかった。
何も、思い出せない。あの男の顔も、楽しかった日常も。
ただ泥だけが、秀兵衛の身体に纏わりついていた。
夜が明けた。秀兵衛は微かな期待を込めて目を開ける。
しかし現実は非情だ。住んでいた家は倒れ、井戸は泥に埋まっている。
夢では、なかった。
ぬかるんだ地面に、朝靄が立ち込めている。鳥の声だけが、不釣り合いなほど澄んでいた。
秀兵衛は、その中で力なく立ち尽くすことしかできなかった。
足は泥に沈んでいる。衣は濡れ、重く身体に張り付いている。それでも、寒さは感じなかった。感じるべきものが、どこかへ行ってしまったようだった。
どれほどの時間が経ったのか、分からない。
最初に聞こえたのは、人の声だった。
「……おい……誰か……」
複数の足音。湿った地面を踏みしめる音。秀兵衛は顔を上げたが、声の主が誰なのかは分からなかった。知らない人間のはずなのに、知らないという感覚すら、ぼんやりしている。
近隣の村から来た者たちだった。
夜のうちに異変に気づき、生存者を探しに来たのだろう。だが、彼らが目にしたのは、家一つ残らぬ惨状だった。
「……村が、沈んでる」
「焼け跡じゃねえ……土に……」
誰かが、秀兵衛を見つけた。
「子どもだ!子どもがいるぞ!」
駆け寄ってきた男が、泥まみれの秀兵衛の肩に触れた瞬間、息を呑んだ。
「冷たい……いや、生きてる……!」
抱き起こされる。だが、その腕の温もりが、遠い。まるで布越しに触れられているような感覚だった。
「坊や、一体、何が、どうなってしまったんだい……?」
問いかけられて、秀兵衛は口を開いた。
だが、言葉が出てこない。
父。母。妹。
その名前を、知っているはずなのに、喉の奥で形にならなかった。
男は何かを察したように、顔をしかめた。
「……無理に聞くな。連れていこう」
その時だった。
今しがた通りかかった一人の僧が、この惨状を把握したのか、静かに地面に膝をついた。
年の頃は三十前後。痩せているが、背筋は真っ直ぐだった。彼は土を掬い、指で擦り合わせた。指先が微かに燻り、土が生き物のように指紋を拒絶してのたうつ。
――濁っている。
土に残る、異様な気配。人の死だけでは生まれない、まるで呪詛のような澱んだ重さ。
僧は秀兵衛の方を一瞥すると、こちらへ歩み寄ってきた。
その視線が、わずかに揺れた。
「……この子は」
「知り合いですか?」
秀兵衛を抱えていた村人が問う。
「いいえ」
僧はゆっくりと首を振った。
「ですが……私が連れて行きましょう。このままでは、夜を越せません」
男たちは、反対しなかった。ここで起きたことを、誰も本当の意味で理解してはいなかったからだ。
秀兵衛は、僧に背負われた。衣の感触だけが、肌に伝わる。
揺れる視界の中で、ぬかるんだ地面が遠ざかっていく。自分が、そこから離れていることだけは、なぜか分かった。
秀兵衛は、目を閉じた。
その胸の奥に、言葉にならない感覚だけが沈んでいく。
――何かを、失った。
だが、それが何かを知るには、まだ時間が必要だった。
村の外れ。
誰にも気づかれぬほど離れた場所に、一人の若い男が立っていた。
腰に刀を差し、ただ黙って、その光景を見ている。
男は、朝靄の向こうで、僧に背負われていく子どもの姿を見送った。
そして、その足元――地面のわずかな歪みを、見逃さなかった。
「……まだ、残ってやがるな」
懐の「何か」が、陽光を反射してキラリと光る。
呟きは、虚空へと消えていった。
二、寺にて
目を覚ましたとき、秀兵衛の視界には広い天井が広がっていた。
古びた梁。煤で黒ずんだ木目。そこに、ゆっくりと朝の光が差し込んでいる。見慣れぬ場所だということは分かったが、恐怖は湧かなかった。恐怖という感情の形が、どこか欠けているのか。
身体を起こそうとして、失敗した。
手足が重い。鉛を詰め込まれたような感覚だ。だが、痛みはない。ただ、動かし方を忘れたような、奇妙なもどかしさだけがあった。
「……起きましたか」
静かな声がした。
視線を向けると、一人の僧が座っていた。粗末な衣。剃髪した頭。手には大事そうに数珠を持っている。年は三十を少し過ぎた頃だろうか。穏やかな顔をしているが、その目は、秀兵衛を慎重に見ていた。
「ここは……」
声が出たことに、少し驚いた。
「寺です。近くの村から、あなたをお連れしました。私、宗覚と申します。よろしくお願いしますね」
彼は秀兵衛に、晴れやかな笑顔を向けた。
――寺。
その言葉に、何か引っかかるものがあったが、うまく掴めない。
「……ぼくは」
自分の名前を言おうとして、詰まった。
名前は分かる。柳島秀兵衛。それは、はっきりと浮かぶ。だが、その先が続かない。
「……家の……」
宗覚は、何も言わずに待っていた。
秀兵衛は、必死に思い出そうとした。
父。母。妹。
そこに「誰か」がいたはずだ。大切な誰か。顔があって、声があって、触れた記憶があるはずなのに――
浮かぶのは、指の間から零れ落ちる泥の冷たさだけだった。
「……わからない」
その言葉が、自然に口をついて出た。
宗覚の眉が、わずかに動いた。
「何が、分かりませんか」
「……家族の、名前が」
自分でも不思議だった。泣くべきなのに、涙が出ない。喪失の実感が、どこか他人事のようだった。
宗覚は、一度目を閉じた。
――やはり、か。
彼は、あの地に残る妖気を思い出していた。人の死だけでは説明のつかない、記憶を削ぐような澱み。そして、この子の中に残る、微かな歪み。
普通ではない。
だが、それを悟らせてはならない。
「……そうですか」
宗覚は、あくまで静かに言った。
「無理に思い出そうとしなくていい。記憶というものは、急かすと余計に遠ざかります」
嘘ではない。だが、真実でもなかった。
「しばらく、この寺で過ごしなさい。身体が回復するまで」
「……はい」
秀兵衛は、従った。
それからの日々は、穏やかだった。
朝は鐘の音で目を覚まし、掃き掃除をし、食事を摂り、経を聞く。僧は決して、秀兵衛の過去を問い詰めなかった。村のことも、家族のことも、口にしない。
だが、秀兵衛は、時折妙な体験をした。
夜、誰もいないはずの廊下で、足音が聞こえることがあった。振り向くと、何もいない。ただ、床板の隙間が、湿って見える。
井戸を覗いたとき、水面に自分の顔が映らなかったこともある。代わりに、知らない誰かの影が揺れた。瞬きをすると、消えていた。
山道を歩けば、草むらの奥に、何かが蠢く気配を感じる。だが、他の者には、何も見えないらしい。
「……気のせい、でしょうか」
ある日、秀兵衛がそう尋ねると、宗覚は穏やかに笑った。
「子どもは、よくそういうものを見るものです」
それ以上は、言わなかった。
代わりに、持っている数珠を強く握りしめた。
宗覚は知っていた。
この子は、妖を引き寄せているのではない。
最初から、妖の側に半歩踏み込んでしまっている。
だからこそ、剣も、札も、教えない。
ただ、人としての振る舞いだけを、丁寧に教えた。
箸の持ち方。礼の仕方。怒りを飲み込む方法。
それが、この子をこの世に繋ぎ止める、唯一の楔になると信じて。
秀兵衛は、何も知らないまま、静かに育っていった。
泥の冷たさを、胸の奥に沈めたまま。
二年の月日が過ぎた。
秀兵衛は、寺の子として育っていた。年の近い子どもたちと共に掃き掃除をし、経を聞き、畑仕事を手伝う。笑うことも、黙ることも覚えた。だが、夜になると、時折目を覚ます。
――見られている。
そんな感覚だけが、胸の奥に残る。
その夜も、同じだった。
月は雲に隠れ、境内は暗い。寝床を抜け出した理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、外に「何か」がある気がした。
草履を履き、そっと外に出る。
その時だった。
境内の端、古い石灯籠の脇に、青白い光が浮かんだ。
ひとつ、ふたつ――いや、いくつも。
宙に漂う、小さな火。揺れながら、確かにそこに“在る”。寝所の引戸越しに他の子どもたちを青白く照らしているが、彼らは健やかに眠り続けている。
「……ひ」
喉が鳴った。
「それ」が何か知っていたわけではない。だが、見た瞬間に分かった。これは、人のものではない。
足が、動かなかった。
逃げなければならないと、頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。冷たいものが、背骨を伝っていく。
「それ」が、こちらに近づいた。
その瞬間――
風が、斬れた。
青白い光が、一閃で散る。火は悲鳴も上げず、夜気に溶けるように消えた。
刀の切っ先が、月明かりを反射していた。
「……狐火、ここにも出たか」
低い声。
秀兵衛は、震える首をどうにか動かし、声の主を見た。
一人の男が立っていた。目立つのは、やはり顔の大部分を覆う仮面であろう。その所為で、正確には分からないが、年は四十に届くかどうかといったところ。下顎からは無精髭が見えている。腰には刀。動きに、迷いがない。
男は、秀兵衛を見下ろした。
「お前は……あの時の」
秀兵衛は、息を吸った。
「……おじさん」
声が裏返った。
「それ……たおせるの?」
秀兵衛の震える声に、男は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。
「ああ。斬れる」
その言葉が、秀兵衛の空っぽだった胸に一瞬だけ光を灯した。
秀兵衛は、刀を見た。
それから狐火があった場所を、もう一度見た。
「……ぼくも」
言葉が、自然に出た。
「ぼくも、斬りたいです」
妖が視える、この眼があれば。自分のような、「何か」を失いかけている誰かを救えるのかもしれない。妖が視え、斬れる。目の前の男は、秀兵衛にとって空白を埋めてくれる「光」そのものだった。
男は、しばらく黙っていた。
その後、刀を鞘に収めて語りかける。
「……お前、視えてるな」
秀兵衛は、頷いた。
男は考えを整理するかのように、長く、息を吐いた。
「やっぱりか」
そして、問いかけた。
「お前も――入りたいか?妖斬りに」
その夜を境に、秀兵衛の生活は、少しずつ変わった。
妖斬りの芝田源次郎と名乗った男は、週に一度、寺の裏山に現れた。誰にも知られぬよう、早朝か、日暮れ時に。
最初は、刀を持たせなかった。
ひたすら走らせ、重い石を担がせ、泥に塗れて転ばせた。
「剣は、最後だ」
源次郎はそう言った。
「斬りたいって気持ちだけじゃ、すぐ死んじまう」
泥だらけになりながら、秀兵衛は歯を食いしばって従った。手の豆は潰れて硬くなり、いつしか熱い茶碗を持っても何も感じぬほど、彼の肉体は変質していく。
修行のない日も、身体を動かした。掃除の後、誰も見ていない場所で素振りをする。木切れを拾い、握りしめる。
宗覚は、それに気づいていた。
息の乱れ。手の豆。視線の鋭さ。秀兵衛の一挙手一投足が、それを示している。
ある夜、宗覚は、静かに言った。
「……秀兵衛。少し、無理をしていませんか」
秀兵衛は、答えなかった。
「あなたは、もう十分に苦しんだ」
宗覚の声は、責めるものではなかった。
「これ以上、重いものを背負う必要はないのですよ」
その慈愛に満ちた言葉に、秀兵衛は、顔を上げた。
その目には、子どもには不釣り合いな決意があった。
「……でも」
言葉を選ぶように、一拍置いて。
「ぼくは、視てしまうんです」
宗覚は、何も言えなかった。
それからさらに1年の月日が経つ。
十三の春、門前に立つ男の影が、朝霧を割って秀兵衛の前に現れた。
芝田源次郎。
かつて狐火を断ち切ったあの一閃の如く、男の立ち姿には、一片の迷いも、余分な情動もない。
懐に忍ぶ仮面が、陽光を煌びやかに反射している。
「迎えに来たぞ、秀兵衛」
投げられた言葉は短く、冷たい。しかし、それがかえって秀兵衛の胸の奥で燻っていた火に、確かな酸素を与えた。
秀兵衛は宗覚の方に向き直り、深々と頭を下げた。
「短い間でしたが、ありがとうございました。貴方のおかげで、こうして源次郎さんと出会え、生きる道を見つけられたのですから。僕にとって貴方は、新しい父も同然でした」
秀兵衛の頬に、一筋の雫が煌めいた。
傍らで控える宗覚は、愛弟子の背を、そしてそれを連れ去らんとする男を交互に見つめていた。その手は数珠を握りしめ、何かを懸命に堪えるかのように、白く震えている。
「……どうか、この子をお願いします」
絞り出されたその声は、重い沈黙の中に溶けて消えた。
この子は、もう人の淵には戻れない。
だが、それでも――
生き延びる道を、選んだのだ。
それから秀兵衛は、一度も振り返らなかった。
整えられた歩幅。乱れぬ背筋。宗覚から教わった「人としての端正な作法」が、皮肉にも、修羅の道へと向かう彼の足取りを美しく見せていた。
石段を下りるたびに、穏やかな経の声や、土の匂い、冬の朝の澄んだ空気といった「人としての記憶」が、霧の向こうへ遠ざかっていく。
彼はもう、陽だまりの岸へは戻らない。
泥の中に潜み、泥の中で剣を振るう。
呪いにも似たその決意だけが、少年を唯一、この世に繋ぎ止める楔となっていた。
三、妖斬り
妖斬りの本部は、川の吐息が常に聞こえる低地にあった。
陽光の下で見れば、それはただの船頭小屋の吐き溜めに過ぎない。乱雑に積まれた木箱、泥に汚れた網、川の流れに洗われ続ける杭。どこからどう見ても、日銭を稼ぐ川船渡しの仕事場だ。
「陽が出ている間は、ここで船を出す」
源次郎の背中から、湿った川風が吹き抜ける。
「役人も、行き交う町人も、ここをただの汚ねえ船場だと思い込んでる。……いや、そう思わせておくのが、俺たちの最初の仕事だ」
秀兵衛は、黙って頷いた。
建物の奥、床板を外した先に、地下へ降りる階段があった。湿った空気。土と木と、鉄の匂いが肺に重くのしかかる。
そこには、五人の先客がいた。
年齢も、背格好もまちまちだ。ただ、一様に、その瞳だけは共通して底の知れぬ深淵を湛えている。
その中に、一人の女がいた。
長い黒髪を結い、壁に背を預けて立っている。「アヤメ」と言うらしきその女は、鋭く、そしてどこか憐れむような視線を秀兵衛に向けた。男たちに混じっても、気後れする様子はない。むしろ、静かな存在感があった。
源次郎が言った。
「見れば分かるだろう。こいつらが妖斬りだ」
簡単な説明が続いた。
妖斬りは、幕府にも町にも属さぬ非公式の集団であること。
妖は夜に活性化し、人を襲うが、人には見えず、触れられず、斬れないこと。
だからこそ、妖を斬る者は、人であることを捨てる必要があること。
「昼は船頭。夜は妖斬りだ」
誰かが笑った。
「世の中、何が起こるか分からんものさ」
秀兵衛は、その言葉を胸に刻んだ。
しかし源次郎は、神妙な顔付きで言葉を続ける。
「妖斬りになるには、『契り』を結ばなければならねえんだ」
やがて、夜になった。
灯りが落とされ、地下の奥にある、さらに狭い間へと通される。中央には、低い石の台。その周囲に、札と塩、柊の枝が置かれている。
源次郎が前に立った。
「……ここから先は、引き返せねえ」
声が、低く響いた。
「契りを結べば、お前は半分、人じゃなくなる。妖を斬れる代わりに、妖に近づく」
秀兵衛は、唾を飲み込んだ。
「恐怖も、痛みも、変わる。元には戻らねえ。それでも――」
源次郎は、秀兵衛を見た。
「進むか」
秀兵衛は、深く頷いた。
「僕のこの特殊な眼でもって、弱者を守る力になりたいんです!」
その眼には、その声には、固く絶対に千切れないような強い意思が宿っていた。
源次郎は、懐から仮面を取り出した。
狐の面だった。白地に、赤の線。細く、鋭い目。
「契りが終わったら、すぐにこれを着けろ」
仮面を手渡される。その冷たさが、妙に現実的だった。
「始めるぞ」
秀兵衛は、石の台に膝をついた。
札が燃やされ、煙が立つ。塩が撒かれ、空気が張り詰める。1枚の障子を挟んだ向こうの部屋に源次郎は居るようで、何かの呪文を唱え始めた。
次の瞬間、胸の奥に、何かが流れ込んできた。
熱い何かが、あるいは凍りつくような何かが、血管を逆流する感覚。骨の内側を、何かが這い回る。
「――っ!」
息が詰まる。
視界が歪み、壁が遠ざかる。音が、やけに鮮明に聞こえる。水の滴る音。人の呼吸。自分の心臓の鼓動。
同時に、別の音が混じった。
囁きだ。
意味の分からない声。言葉にならない言葉。頭蓋の内側から、直接響いてくる。
――斬れ
――溶けろ
――こちらへ来い
指先が痺れ、爪が軋む。皮膚の感覚が、鈍くなる。だが、世界は異様なほどはっきり見えた。
恐怖が、薄れていく。
代わりに、空腹のような感覚が湧いた。
「……これが」
これが、妖に近づくということか。
秀兵衛は、歯を食いしばった。
「ぼくは……いや、俺は斬る」
誰に向けた言葉かも分からず、そう呟いた瞬間――
全てが、止んだ。
身体の力が抜け、秀兵衛は前のめりに崩れ落ちた。
床が、冷たい。
息が荒い。
――仮面。
はっとして、震える手で狐の仮面を掴み、顔に当てる。
次の瞬間、耳を塞ぐような轟音が止み、頭の中を埋め尽くしていた異形の囁きが、遠い波音のように引いていった。
「……っ」
楽になった。
完全ではないが、確かに、抑え込まれている。
仮面という境界が、秀兵衛を妖の深淵から辛うじて引き戻したのだ。
秀兵衛は、ふらつきながら立ち上がり、皆の待つ間へ戻った。
誰も、すぐには声をかけなかった。
ただ、源次郎が一度、頷いた。
「……よく耐えた」
彼の声が、今度ははっきりと聞こえる。
アヤメが、秀兵衛を見た。
その目には、わずかな笑みが浮かんでいる。
「これで、仲間ね」
その言葉を聞いて、秀兵衛は、ようやく実感した。
――戻れない。
だが同時に、
――ここから始まる。
肌に吸い付く冷たい狐の仮面の奥で、秀兵衛は、静かに息を整えた。
こうして、柳島秀兵衛は妖斬りとなった。
おそらく第九幕ほどで完結すると思います




