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妖淵(ようえん)  作者: グリーン・シールド


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1/7

第一幕


一、幼少期の惨劇

 土は、音を立てずに人を呑む。

 それを、柳島秀兵衛(やなじましゅうべえ)が知ったのは、十になる年の春だった。

 村は江戸から半日ほど離れた低湿の地にあった。川が近く、雨が降れば地面はすぐに柔らかくなる。大人たちはそれを嫌ったが、子どもにとっては格好の遊び場だった。秀兵衛もまた、裸足で泥を踏み、濡れた土の冷たさを面白がる、ごく普通の子どもだった。

 その夜も、何も変わったことはなかった。

 夕餉の後、母が灯した行灯の明かりの下で、父は黙って酒を飲んでいた。妹は眠気に負け、膝の上で舟を漕いでいる。秀兵衛は、その幸福の残照を――その時は、ただ眺めていた。

 それが、最後になるとも知らずに。

 最初に異変が起きたのは、地面だった。

 ――ぐずり、と。

 家の外から、何かが沈むような音がした。重いものが、柔らかい土に押し込まれる音だ。

 妹は、気にせず寝息を立てている。スー、スーと。

 ーーぐずり。

 今度は、より近くで音が鳴った。

 父が顔を上げる。

「……外で、誰か転んだか」

 立ち上がろうとした、その瞬間。

 床が、沈んだ。

 音もなく、確実に。

 畳が、足首まで泥に呑まれた。冷たさが、皮膚を通して一気に上がってくる。母が悲鳴を上げ、妹を抱き寄せた。

「な、なんだい……!」

 返事はなかった。

 代わりに、土の中から「それ」が現れた。

 人の形をしていた。だが、人ではなかった。

 痩せた男のような輪郭。顔は泥に覆われ、目だけが不自然に光っている。その目が、秀兵衛を見た。

 ――覗かれた。

 そう感じた瞬間、頭の奥が、ひどく冷たくなった。

「やめ、て……」

 自分の喉から出た声が、ひどく他人行儀に聞こえた。

「……え?」

 なにかが、おかしい。

 怖いはずなのに、胸がざわつかない。家族が目の前にいるのに、その存在が、少しずつ遠ざかっていく。伸ばした手が、まるで泥を掴むように家族の身体をすり抜ける。

泥の男が、低く笑った。

「埋めよう。大事なものから」

 父が刀を取ろうとした。だが、足が動かなかった。床下から伸びた無数の泥の手が、父の脚を掴み、引きずり込む。

 母の叫び声。

 妹の泣き声。

 それらが、遠い。

 秀兵衛は、それを「聞いている」はずなのに、意味が分からなくなっていた。

 泥の男が、また言った。

「忘れれば、楽になる」

 次の瞬間、家が傾いた。

 柱が沈み、壁が割れ、土と一緒にすべてが引きずられていく。父の顔が、母の手が、妹の髪が、泥に塗れて――

 そして、見えなくなった。

 秀兵衛は、立っていた。

 なぜ立っていられるのか、分からない。

 足元は泥だらけなのに、沈まない。いや、沈んでいるのに、それを「感じていない」。

 胸の奥が、空っぽだった。

 泣かなければならないことは、分かっている。

 だが――何を、失ったのかが、分からない。

 妹の竹とんぼだけが、泥にプカリと浮いている。

 泥の男は、満足そうに頷いた。

「これでいい。お前も、いずれ溶ける」

 その言葉だけが、妙にはっきりと残った。

 次に目を覚ました時、夜は明けていた。

 村は、なかった。

 家も、人も、声もない。ただ、ぬかるんだ地面が広がっているだけだった。

 秀兵衛は、その真ん中に立っていた。

 涙が頬を伝っている。

 だが、なぜ泣いているのかは分からなかった。

 何も、思い出せない。あの男の顔も、楽しかった日常も。

 ただ泥だけが、秀兵衛の身体に纏わりついていた。


 夜が明けた。秀兵衛は微かな期待を込めて目を開ける。

 しかし現実は非情だ。住んでいた家は倒れ、井戸は泥に埋まっている。

 夢では、なかった。

 ぬかるんだ地面に、朝靄が立ち込めている。鳥の声だけが、不釣り合いなほど澄んでいた。

 秀兵衛は、その中で力なく立ち尽くすことしかできなかった。

 足は泥に沈んでいる。衣は濡れ、重く身体に張り付いている。それでも、寒さは感じなかった。感じるべきものが、どこかへ行ってしまったようだった。

 どれほどの時間が経ったのか、分からない。

 最初に聞こえたのは、人の声だった。

「……おい……誰か……」

 複数の足音。湿った地面を踏みしめる音。秀兵衛は顔を上げたが、声の主が誰なのかは分からなかった。知らない人間のはずなのに、知らないという感覚すら、ぼんやりしている。

 近隣の村から来た者たちだった。

 夜のうちに異変に気づき、生存者を探しに来たのだろう。だが、彼らが目にしたのは、家一つ残らぬ惨状だった。

「……村が、沈んでる」

「焼け跡じゃねえ……土に……」

 誰かが、秀兵衛を見つけた。

「子どもだ!子どもがいるぞ!」

 駆け寄ってきた男が、泥まみれの秀兵衛の肩に触れた瞬間、息を呑んだ。

「冷たい……いや、生きてる……!」

 抱き起こされる。だが、その腕の温もりが、遠い。まるで布越しに触れられているような感覚だった。

「坊や、一体、何が、どうなってしまったんだい……?」

 問いかけられて、秀兵衛は口を開いた。

 だが、言葉が出てこない。

 父。母。妹。

 その名前を、知っているはずなのに、喉の奥で形にならなかった。

 男は何かを察したように、顔をしかめた。

「……無理に聞くな。連れていこう」

 その時だった。

 今しがた通りかかった一人の僧が、この惨状を把握したのか、静かに地面に膝をついた。

 年の頃は三十前後。痩せているが、背筋は真っ直ぐだった。彼は土を掬い、指で擦り合わせた。指先が微かに燻り、土が生き物のように指紋を拒絶してのたうつ。

 ――濁っている。

 土に残る、異様な気配。人の死だけでは生まれない、まるで呪詛のような澱んだ重さ。

 僧は秀兵衛の方を一瞥すると、こちらへ歩み寄ってきた。

 その視線が、わずかに揺れた。

「……この子は」

「知り合いですか?」

 秀兵衛を抱えていた村人が問う。

「いいえ」

 僧はゆっくりと首を振った。

「ですが……私が連れて行きましょう。このままでは、夜を越せません」

 男たちは、反対しなかった。ここで起きたことを、誰も本当の意味で理解してはいなかったからだ。

 秀兵衛は、僧に背負われた。衣の感触だけが、肌に伝わる。

 揺れる視界の中で、ぬかるんだ地面が遠ざかっていく。自分が、そこから離れていることだけは、なぜか分かった。

 秀兵衛は、目を閉じた。

 その胸の奥に、言葉にならない感覚だけが沈んでいく。

 ――何かを、失った。

 だが、それが何かを知るには、まだ時間が必要だった。

 村の外れ。

 誰にも気づかれぬほど離れた場所に、一人の若い男が立っていた。

 腰に刀を差し、ただ黙って、その光景を見ている。

 男は、朝靄の向こうで、僧に背負われていく子どもの姿を見送った。

 そして、その足元――地面のわずかな歪みを、見逃さなかった。

「……まだ、残ってやがるな」

 懐の「何か」が、陽光を反射してキラリと光る。

 呟きは、虚空へと消えていった。


二、寺にて

 目を覚ましたとき、秀兵衛の視界には広い天井が広がっていた。

 古びた梁。煤で黒ずんだ木目。そこに、ゆっくりと朝の光が差し込んでいる。見慣れぬ場所だということは分かったが、恐怖は湧かなかった。恐怖という感情の形が、どこか欠けているのか。

 身体を起こそうとして、失敗した。

手足が重い。鉛を詰め込まれたような感覚だ。だが、痛みはない。ただ、動かし方を忘れたような、奇妙なもどかしさだけがあった。

「……起きましたか」

 静かな声がした。

 視線を向けると、一人の僧が座っていた。粗末な衣。剃髪した頭。手には大事そうに数珠を持っている。年は三十を少し過ぎた頃だろうか。穏やかな顔をしているが、その目は、秀兵衛を慎重に見ていた。

「ここは……」

 声が出たことに、少し驚いた。

「寺です。近くの村から、あなたをお連れしました。私、宗覚(そうがく)と申します。よろしくお願いしますね」

 彼は秀兵衛に、晴れやかな笑顔を向けた。

――寺。

その言葉に、何か引っかかるものがあったが、うまく掴めない。

「……ぼくは」

 自分の名前を言おうとして、詰まった。

 名前は分かる。柳島秀兵衛。それは、はっきりと浮かぶ。だが、その先が続かない。

「……家の……」

 宗覚は、何も言わずに待っていた。

 秀兵衛は、必死に思い出そうとした。

 父。母。妹。

 そこに「誰か」がいたはずだ。大切な誰か。顔があって、声があって、触れた記憶があるはずなのに――

 浮かぶのは、指の間から零れ落ちる泥の冷たさだけだった。

「……わからない」

 その言葉が、自然に口をついて出た。

 宗覚の眉が、わずかに動いた。

「何が、分かりませんか」

「……家族の、名前が」

 自分でも不思議だった。泣くべきなのに、涙が出ない。喪失の実感が、どこか他人事のようだった。

 宗覚は、一度目を閉じた。

 ――やはり、か。

 彼は、あの地に残る妖気を思い出していた。人の死だけでは説明のつかない、記憶を削ぐような澱み。そして、この子の中に残る、微かな歪み。

 普通ではない。

 だが、それを悟らせてはならない。

「……そうですか」

 宗覚は、あくまで静かに言った。

「無理に思い出そうとしなくていい。記憶というものは、急かすと余計に遠ざかります」

 嘘ではない。だが、真実でもなかった。

「しばらく、この寺で過ごしなさい。身体が回復するまで」

「……はい」

 秀兵衛は、従った。


 それからの日々は、穏やかだった。

 朝は鐘の音で目を覚まし、掃き掃除をし、食事を摂り、経を聞く。僧は決して、秀兵衛の過去を問い詰めなかった。村のことも、家族のことも、口にしない。


 だが、秀兵衛は、時折妙な体験をした。

 夜、誰もいないはずの廊下で、足音が聞こえることがあった。振り向くと、何もいない。ただ、床板の隙間が、湿って見える。

 井戸を覗いたとき、水面に自分の顔が映らなかったこともある。代わりに、知らない誰かの影が揺れた。瞬きをすると、消えていた。

 山道を歩けば、草むらの奥に、何かが蠢く気配を感じる。だが、他の者には、何も見えないらしい。

「……気のせい、でしょうか」

 ある日、秀兵衛がそう尋ねると、宗覚は穏やかに笑った。

「子どもは、よくそういうものを見るものです」

 それ以上は、言わなかった。

 代わりに、持っている数珠を強く握りしめた。

 宗覚は知っていた。

 この子は、(あやかし)を引き寄せているのではない。

 最初から、妖の側に半歩踏み込んでしまっている。

 だからこそ、剣も、札も、教えない。

 ただ、人としての振る舞いだけを、丁寧に教えた。

 箸の持ち方。礼の仕方。怒りを飲み込む方法。

 それが、この子をこの世に繋ぎ止める、唯一の楔になると信じて。

 秀兵衛は、何も知らないまま、静かに育っていった。

 泥の冷たさを、胸の奥に沈めたまま。


 二年の月日が過ぎた。

 秀兵衛は、寺の子として育っていた。年の近い子どもたちと共に掃き掃除をし、経を聞き、畑仕事を手伝う。笑うことも、黙ることも覚えた。だが、夜になると、時折目を覚ます。

 ――見られている。

 そんな感覚だけが、胸の奥に残る。

 その夜も、同じだった。

 月は雲に隠れ、境内は暗い。寝床を抜け出した理由は、自分でもよく分からなかった。ただ、外に「何か」がある気がした。

 草履を履き、そっと外に出る。

 その時だった。

 境内の端、古い石灯籠の脇に、青白い光が浮かんだ。

 ひとつ、ふたつ――いや、いくつも。

 宙に漂う、小さな火。揺れながら、確かにそこに“在る”。寝所の引戸越しに他の子どもたちを青白く照らしているが、彼らは健やかに眠り続けている。

「……ひ」

 喉が鳴った。

「それ」が何か知っていたわけではない。だが、見た瞬間に分かった。これは、人のものではない。

 足が、動かなかった。

 逃げなければならないと、頭では分かっているのに、身体が言うことを聞かない。冷たいものが、背骨を伝っていく。

 「それ」が、こちらに近づいた。

 その瞬間――

 風が、斬れた。

 青白い光が、一閃で散る。火は悲鳴も上げず、夜気に溶けるように消えた。

 刀の切っ先が、月明かりを反射していた。

「……狐火、ここにも出たか」

 低い声。

 秀兵衛は、震える首をどうにか動かし、声の主を見た。

 一人の男が立っていた。目立つのは、やはり顔の大部分を覆う仮面であろう。その所為で、正確には分からないが、年は四十に届くかどうかといったところ。下顎からは無精髭が見えている。腰には刀。動きに、迷いがない。

 男は、秀兵衛を見下ろした。

「お前は……あの時の」

 秀兵衛は、息を吸った。

「……おじさん」

 声が裏返った。

「それ……たおせるの?」

 秀兵衛の震える声に、男は一瞬だけ目を細め、それから小さく笑った。

「ああ。斬れる」

 その言葉が、秀兵衛の空っぽだった胸に一瞬だけ光を灯した。

 秀兵衛は、刀を見た。

 それから狐火があった場所を、もう一度見た。

「……ぼくも」

 言葉が、自然に出た。

「ぼくも、斬りたいです」

 妖が視える、この眼があれば。自分のような、「何か」を失いかけている誰かを救えるのかもしれない。妖が視え、斬れる。目の前の男は、秀兵衛にとって空白を埋めてくれる「光」そのものだった。

 男は、しばらく黙っていた。

 その後、刀を鞘に収めて語りかける。

「……お前、視えてるな」

 秀兵衛は、頷いた。

 男は考えを整理するかのように、長く、息を吐いた。

「やっぱりか」

 そして、問いかけた。

「お前も――入りたいか?妖斬りに」


 その夜を境に、秀兵衛の生活は、少しずつ変わった。

 妖斬(あやかしぎ)りの芝田源次郎(しばたげんじろう)と名乗った男は、週に一度、寺の裏山に現れた。誰にも知られぬよう、早朝か、日暮れ時に。

 最初は、刀を持たせなかった。

 ひたすら走らせ、重い石を担がせ、泥に塗れて転ばせた。

「剣は、最後だ」

 源次郎はそう言った。

「斬りたいって気持ちだけじゃ、すぐ死んじまう」

 泥だらけになりながら、秀兵衛は歯を食いしばって従った。手の豆は潰れて硬くなり、いつしか熱い茶碗を持っても何も感じぬほど、彼の肉体は変質していく。

 修行のない日も、身体を動かした。掃除の後、誰も見ていない場所で素振りをする。木切れを拾い、握りしめる。


 宗覚は、それに気づいていた。

 息の乱れ。手の豆。視線の鋭さ。秀兵衛の一挙手一投足が、それを示している。

 ある夜、宗覚は、静かに言った。

「……秀兵衛。少し、無理をしていませんか」

 秀兵衛は、答えなかった。

「あなたは、もう十分に苦しんだ」

 宗覚の声は、責めるものではなかった。

「これ以上、重いものを背負う必要はないのですよ」

 その慈愛に満ちた言葉に、秀兵衛は、顔を上げた。

 その目には、子どもには不釣り合いな決意があった。

「……でも」

 言葉を選ぶように、一拍置いて。

「ぼくは、視てしまうんです」

 宗覚は、何も言えなかった。

 

 それからさらに1年の月日が経つ。

 十三の春、門前に立つ男の影が、朝霧を割って秀兵衛の前に現れた。

 芝田源次郎。

 かつて狐火を断ち切ったあの一閃の如く、男の立ち姿には、一片の迷いも、余分な情動もない。

 懐に忍ぶ仮面が、陽光を煌びやかに反射している。

「迎えに来たぞ、秀兵衛」

 投げられた言葉は短く、冷たい。しかし、それがかえって秀兵衛の胸の奥で燻っていた火に、確かな酸素を与えた。


 秀兵衛は宗覚の方に向き直り、深々と頭を下げた。

「短い間でしたが、ありがとうございました。貴方のおかげで、こうして源次郎さんと出会え、生きる道を見つけられたのですから。僕にとって貴方は、新しい父も同然でした」

 秀兵衛の頬に、一筋の雫が煌めいた。

 傍らで控える宗覚は、愛弟子の背を、そしてそれを連れ去らんとする男を交互に見つめていた。その手は数珠を握りしめ、何かを懸命に堪えるかのように、白く震えている。

「……どうか、この子をお願いします」

 絞り出されたその声は、重い沈黙の中に溶けて消えた。

 この子は、もう人の淵には戻れない。

 だが、それでも――

 生き延びる道を、選んだのだ。

 それから秀兵衛は、一度も振り返らなかった。

 整えられた歩幅。乱れぬ背筋。宗覚から教わった「人としての端正な作法」が、皮肉にも、修羅の道へと向かう彼の足取りを美しく見せていた。

 石段を下りるたびに、穏やかな経の声や、土の匂い、冬の朝の澄んだ空気といった「人としての記憶」が、霧の向こうへ遠ざかっていく。

 彼はもう、陽だまりの岸へは戻らない。

 泥の中に潜み、泥の中で剣を振るう。

 呪いにも似たその決意だけが、少年を唯一、この世に繋ぎ止める楔となっていた。


三、妖斬り

 妖斬りの本部は、川の吐息が常に聞こえる低地にあった。

 陽光の下で見れば、それはただの船頭小屋の吐き溜めに過ぎない。乱雑に積まれた木箱、泥に汚れた網、川の流れに洗われ続ける杭。どこからどう見ても、日銭を稼ぐ川船渡しの仕事場だ。

「陽が出ている間は、ここで船を出す」

 源次郎の背中から、湿った川風が吹き抜ける。

「役人も、行き交う町人も、ここをただの汚ねえ船場だと思い込んでる。……いや、そう思わせておくのが、俺たちの最初の仕事だ」

 秀兵衛は、黙って頷いた。

 建物の奥、床板を外した先に、地下へ降りる階段があった。湿った空気。土と木と、鉄の匂いが肺に重くのしかかる。

 そこには、五人の先客がいた。

 年齢も、背格好もまちまちだ。ただ、一様に、その瞳だけは共通して底の知れぬ深淵を湛えている。

 その中に、一人の女がいた。

 長い黒髪を結い、壁に背を預けて立っている。「アヤメ」と言うらしきその女は、鋭く、そしてどこか憐れむような視線を秀兵衛に向けた。男たちに混じっても、気後れする様子はない。むしろ、静かな存在感があった。

 源次郎が言った。

「見れば分かるだろう。こいつらが妖斬りだ」

 簡単な説明が続いた。

 妖斬りは、幕府にも町にも属さぬ非公式の集団であること。

 妖は夜に活性化し、人を襲うが、人には見えず、触れられず、斬れないこと。

 だからこそ、妖を斬る者は、人であることを捨てる必要があること。

「昼は船頭。夜は妖斬りだ」

 誰かが笑った。

「世の中、何が起こるか分からんものさ」

 秀兵衛は、その言葉を胸に刻んだ。

 しかし源次郎は、神妙な顔付きで言葉を続ける。

「妖斬りになるには、『契り』を結ばなければならねえんだ」


 やがて、夜になった。

 灯りが落とされ、地下の奥にある、さらに狭い間へと通される。中央には、低い石の台。その周囲に、札と塩、柊の枝が置かれている。

 源次郎が前に立った。

「……ここから先は、引き返せねえ」

 声が、低く響いた。

「契りを結べば、お前は半分、人じゃなくなる。妖を斬れる代わりに、妖に近づく」

 秀兵衛は、唾を飲み込んだ。

「恐怖も、痛みも、変わる。元には戻らねえ。それでも――」

 源次郎は、秀兵衛を見た。

「進むか」

 秀兵衛は、深く頷いた。

「僕のこの特殊な眼でもって、弱者を守る力になりたいんです!」

 その眼には、その声には、固く絶対に千切れないような強い意思が宿っていた。

 源次郎は、懐から仮面を取り出した。

 狐の面だった。白地に、赤の線。細く、鋭い目。

「契りが終わったら、すぐにこれを着けろ」

 仮面を手渡される。その冷たさが、妙に現実的だった。

「始めるぞ」

 秀兵衛は、石の台に膝をついた。

 札が燃やされ、煙が立つ。塩が撒かれ、空気が張り詰める。1枚の障子を挟んだ向こうの部屋に源次郎は居るようで、何かの呪文を唱え始めた。

 次の瞬間、胸の奥に、何かが流れ込んできた。

 熱い何かが、あるいは凍りつくような何かが、血管を逆流する感覚。骨の内側を、何かが這い回る。

「――っ!」

 息が詰まる。

 視界が歪み、壁が遠ざかる。音が、やけに鮮明に聞こえる。水の滴る音。人の呼吸。自分の心臓の鼓動。

 同時に、別の音が混じった。

 囁きだ。

 意味の分からない声。言葉にならない言葉。頭蓋の内側から、直接響いてくる。

 ――斬れ

 ――溶けろ

 ――こちらへ来い

 指先が痺れ、爪が軋む。皮膚の感覚が、鈍くなる。だが、世界は異様なほどはっきり見えた。

 恐怖が、薄れていく。

 代わりに、空腹のような感覚が湧いた。

「……これが」

 これが、妖に近づくということか。

 秀兵衛は、歯を食いしばった。

「ぼくは……いや、俺は斬る」

 誰に向けた言葉かも分からず、そう呟いた瞬間――

 全てが、止んだ。

 身体の力が抜け、秀兵衛は前のめりに崩れ落ちた。

 床が、冷たい。

 息が荒い。

 ――仮面。

 はっとして、震える手で狐の仮面を掴み、顔に当てる。

 次の瞬間、耳を塞ぐような轟音が止み、頭の中を埋め尽くしていた異形の囁きが、遠い波音のように引いていった。

「……っ」

 楽になった。

 完全ではないが、確かに、抑え込まれている。

 仮面という境界が、秀兵衛を妖の深淵から辛うじて引き戻したのだ。

 秀兵衛は、ふらつきながら立ち上がり、皆の待つ間へ戻った。

 誰も、すぐには声をかけなかった。

 ただ、源次郎が一度、頷いた。

「……よく耐えた」

 彼の声が、今度ははっきりと聞こえる。

 アヤメが、秀兵衛を見た。

 その目には、わずかな笑みが浮かんでいる。

「これで、仲間ね」

 その言葉を聞いて、秀兵衛は、ようやく実感した。

 ――戻れない。

 だが同時に、

 ――ここから始まる。

 肌に吸い付く冷たい狐の仮面の奥で、秀兵衛は、静かに息を整えた。

 こうして、柳島秀兵衛は妖斬りとなった。


おそらく第九幕ほどで完結すると思います

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