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後編

 足早に、住人は歩き続ける。時間にはまだ早いが、『彼女』はいつもたっぷりと余裕をもって行動するからだ。この寒いのに、待たせるわけにはいかない。そうでなくても彼女は、自罰的に自身を追い込む癖がある。どこか、店に入って時間を潰すなど、まず行わないだろう。

 

「……この世界が作り物だったら、か」


 先ほどの、西城の言葉を思い出す。突拍子も無い妄言だが、何故か否定はできなかった。


それに、不思議なことはそれだけでは無い。

あの男に再び会えば、怒りが沸くのでは、と思っていた。大切な人達を奪われた憎悪と、彼女たちを地獄に叩き落としたことへの殺意。それに身を焦がすのでは、と密かに恐れていたが――


「全く、そんな気にならなかったな」


不自然なくらいに、心は凪いでいた。西城正臣の人生を祝福するなど、昔の住人ならあり得ないと断じたろうに。


――前々から、何かがおかしいと、住人も気づいてはいたのだ。あの高校時代は、異常で異様だった。トラブルこそあれ、基本的に外部から彼らの関係を崩すような邪魔も、無粋な指摘も何も無い。正も負も、どの方向にもひたすらに都合の良い展開が続き、ひとまずの区切り――住人の人間関係が破綻し、西城がハーレムを築き上げるまで。熱狂の火は燃え盛っていた。

 

 そこが、エンディングだったのではなかろうか。物語の終わり、最終話にしてエピローグ。誰かが観察するシナリオの幕が閉じ、そして……エンドロールの向こう側で、その先のストーリーが展開された。

 

 語られるべきではなかったもの。あえて語らずとも良かったもの。それが、今に至る破滅と再生の物語。自分たちは今、しるべ無き道を歩いていて――

 

「……ははっ」


 馬鹿らしい。いつから自分は物書きになったのか。陳腐すぎて笑ってしまう。

 妄想を振り払い、通りの角を曲がる。遠くに見える建物と建物の間の陰、そこに待ち人の姿が見えた。

 

「……愛歌っ!」


 歩みは小走りになり、やがて住人は我慢できずに駆け出した。

 息を切らせて、胸を弾ませて。そうして、彼女の元へとたどり着く。



「――住人」


 やはり、体力が落ちている。膝を曲げて手を付き、住人はぜえぜえと荒い呼吸を繰り返す。

 すると、背中に柔らかなものが触れた。


「だいじょうぶ? そんなに急がなくてもいいのに。まだ時間前なんだし」

「はあ、ふう……っ! だって、ほら。愛歌の手、こんなに冷えてるから。待たせて、悪かった」


 凍えた指先を、しっかりと握る。微かな震えを、温もりで覆うようにして。そうして、住人はもう片方の手を愛歌の首元に伸ばした。


「マフラー、緩んでるし。ちゃんと下に着こんで来たのか? カイロも――」

「ふふ、はぁい。大丈夫だよ、言う通りにしたもの。ほんと、住人は心配性だね」


 ハーフアップに纏められたブラウンの髪が、寒風に揺られてはためいている。それを見ているだけで、住人はたまらない気持ちになってしまうのだ。


「そう思うなら、暖かい場所で休んでいてくれよ。寒かったろうに」


 くすくすと笑う愛歌を抱き寄せ、コートの下でその身を包む。冷たく凍えた頬に手を当てると、やがてそこに薄い紅が広がってゆく。

 どこか陶然とした気持ちになりながら、住人は最愛の女性を眺めた。美人というより愛らしく、強いて言えば童顔。本人が気にしているから、住人も決して口にはしないが、二十代どころか、下手をすれば高校生と言っても通用しかねない。

 

 そうして、じっと見つめる住人の眼差しに気づいたのだろう。愛歌は居心地悪そうに首を縮めて、そっと俯いた。

 

 ――ああ、もう。彼女は、うちの『嫁さん』は本当に。

 

「愛歌は、可愛いな」

「ふえっ!?」


 思わず零れた言葉に、愛歌が目を、見開く。


 ――いかん、つい本音が溢れ出た。


 住人は苦笑しつつ、その頬にキスを落とした。バラ色に染まってゆく頬は、可憐な花弁そのものに見えて、何だか誇らしい気分になってくる。

 今、この世界で。彼女にこんな表情をさせるのは、自分だけなのだ。ちっぽけな自負だが、それが嬉しくてたまらない。

 

「もう、住人ってば。お外ではダメだよ」

「ゴメン」

「あ、また……っ! 甘えん坊なんだからなあ」


 そう言いながらも、言葉も態度も嫌がるそぶりはない。むしろ愛歌はむずがるように、頬を夫のそれに摺り寄せてきた。猫めいた仕草が、また愛らしい。うちの奥さん可愛すぎる。住人は今、心底幸せな気持ちであった。いつまでも、妻とこうしてイチャついていたい――

 

「――っと、しまった。もう時間か」


 不意に鳴ったアラームの音が、甘い幻想を切り裂いた。スマホを取り出し、時間を確認。設定しておいて良かったと、そう思う。

 せっかくの結婚記念日。ボーっとして予約時間を過ぎてしまいました、では格好が付かないにも程があった。

 

「行こうか、愛歌」

「はい、あなた」


 キリッとした口調で改めると、妻も笑いながら乗ってくれる。手を伸ばせば、タイムラグなく指先が触れ合う。以心伝心、幼馴染の絆が為せる反復動作。物心ついたときから、ずっと繰り返してきた行為をまた、二人は繋いで歩き出す。

 

 目的のレストランまであと、数十歩。そこで、住人達は親子連れとすれ違う。小さな男の子と、まだ年若い両親。三人は手を繋ぎながら、談笑しながら歩き去ってゆく。何処にでもいるような家族。珍しくもない光景。しかし、それを見た愛歌の瞳が、切なげに細まった。吐息と共に、繋がる指先がキュッと引き絞られる。

 

「ねえ、私で良かったのかな。住人のお嫁さんが、私なんかで」

「愛歌じゃなきゃ嫌だ」

「ふふ、ありがと。住人は優しいね」


 愛歌が、もたれかかるようにして、頭を夫の肩に載せる。増した重みが、彼女がここに居る確かな証であると、住人はホッとしてしまう。


 彼女は未だに、過去を気にしている。贖罪にも似た想いを抱えている。それを気にするな、なんて住人には言えない。


 あの頃、自分たちは別に恋人では無かった。だから浮気をされたわけではない。ただ、愛歌の心を繋ぎとめて置くことが出来ず、先を越されてしまっただけ。

 

 けれど、それに伴う騒動と、失われてしまった命があって。たくさんの人に迷惑を掛けたと、愛歌はそう思っているのだ。心の傷はかさぶたになっても、決して癒えない。それはきっと、彼女が生涯に渡って背負ってゆくものだから。だから、そんなおこがましい事を住人が言えるはずも無い。

 

 ゆえに、言葉に出すのは許しでは無くて。

 

「俺は今、凄く幸せだよ。愛歌と手を繋げて、こうして二人の記念日をお祝いできるんだ。俺は君に、たくさんの物を貰ってる。他の誰でもなく、愛歌が隣に居てくれるからそう思うんだ」

「……うん」


 ずずっと、鼻をすする音が聞こえる。住人はそちらを見ずに、取り出したハンカチだけを妻の目元に当てた。

 

「住人はズルいなあ。そういう台詞を、さらっとストレートに言うんだもの」

「気になること、して欲しいこと。言葉に出して伝えるのが大切だって、知ってるからな」


 それが、高校時代の住人には足りなかった。皮肉なことに、気付かせてくれたのは西城だ。彼の魅力と話術が脳に焼き付いていたからこそ、今の住人はこうして素直に言葉を吐き出せる。

 

「愛歌、俺は養子を取るのも悪くないと、そう思うよ」

「住人……」

「君の気持ちが一番大事だ。だから、結論は急がなくてもいい。選択肢は幾つもあるってことだけ、覚えておいて欲しい」


 愛歌は、子供が産めない。正確に言えば、産めなくなった。

 階段から落下して、一命を取り留めたものの、子供は流れて。絶望する彼女に追い打ちをかけたのは、愛した男の破滅と離別。ただでさえ精神状態がおかしくなった彼女は、流産による予後不良も伴い、重度の感染症に掛かり――

 

「――こんなに幸せで、いいのかな。住人、本当に格好良すぎるよ」

「なんだ、褒め殺しか?」

「違うよ、本心だもん。心の底からそう思うし。うちの旦那様は、世界で一番素敵な人」


 寄り添う重みが、更に増す。それが嬉しくて、幸せで。住人はなんだか泣きたくなった。

 

『たすけて、すみと……もう、わたし、どうしたらいいのか、わかんないよ……』


あの日、何もかもを奪われて、部屋に閉じ籠っていた愛歌を思い出す。両親とも不仲になり、ろくにものも食べられずに疲弊していると聞き、住人は強引に部屋に乗り込んだ。


あの時の光景は、忘れられない。隅っこで震える彼女は、見る影もなく痩せ衰えていた。かつての愛らしさは欠片もなく……映画で見たゾンビのように、血の気の失せた顔をしていたのだ。


頭をぶん殴られたような、とはああいう気持ちを言うのだろう。彼女と西城のキス、それを目撃したことを上回るほどの衝撃。


――どうして、どうして俺は。こんなになるまで、彼女のことを放っておいたんだ!


それからは、もう夢中だった。なりふり構わずに彼女へ寄り添い、励まし支え続けた。

長い、長い時間が掛かった。愛歌の受けた痛みは、住人が想像すら出来ないほどに深く、大きくて。


何度も何度も住人は後悔した。彼女を守ると誓った筈なのに。幼馴染みの関係に胡座をかいて、慢心して、想いを育む努力を放棄して。無神経な言葉で傷付けた挙げ句、その手を離させてしまった。


だから、今。こうして、彼女が自分の隣で微笑んでくれていることが、どれだけ奇跡的なことか。

住人は、その幸福を深く、深く噛み締めた。


 エンディングの後も、物語は続いてゆく。たとえこの世界が、誰かの作り物だったとしても、それだけは変わらない。すれ違いや過ち、不幸なことも、きっとこれから幾つもあるだろう。


 それでも、この手は離さない。離れないように、努力してゆく。

 

 見上げた空から赤い陽炎が消え、薄闇の中にいつかの二人の姿が浮かび上がる。

 

『ほら、もう大丈夫だから! 泣くなって!』


 彼女はたぶん、これからも涙を流す。外に出さなくても、心の内で啜り泣くのだろう。


「なあ、愛歌」

「ねえ、住人」


それを分かち合いたい、包みたい。そうして遠い遠い未来に、幸せだったね、と笑い合いたい。


「――愛してる」



 ――愛歌を守るのは、いつだって住人の役目であり、願いなのだから。


 

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