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前編


――姫島愛歌(ひめじままなか)を守るのは、いつだって穂村住人(ほむらすみと)の役目であった。



 夕闇が迫る、公園の中。砂場の前で少年は拳を握り、大きく振り上げる。相手は四人。こっちは一人。けれど、ビビッてなんていられない。ケンカは、先手必勝。祖父に教わった通りに実行する。相手が口を開く前に飛び掛かり、ボス格である太っちょを殴り倒せば、それでおしまいだ。取り巻きどもは、クモの子を散らすように逃げ去ってゆく。


「へん、なっさけねえやつら!」


 公園の外へと飛び出す背中を眺めながら、住人はふん、と胸を張る。少し胸がドキドキして、足が震えたのはナイショであった。けれど、情けない姿は見せられない。自分の後ろで啜り泣く少女に、住人はどうしても格好をつけたかったのだ。

 

握った拳が、ジンと痛む。しかしそれを我慢するのが、オトコだ。祖父がそう言っていた。少年は教えを胸にのっしのっしと歩き出し、砂場に手を沈める。あっちかな、こっちかな。しばらく砂漠の探検隊を気取ったのち――ようやく目当ての物を見つけ、破願する。


「あったぞ! ほら、もう大丈夫だから! 泣くなって!」


 その手に掴みだされたのは、泥と砂まみれの人形だ。

 長い金髪と、青い大きな目。ピンクの衣装を身に着けた、可愛らしいデザイン。

 誕生日に、母親にねだって買ってもらったという、愛歌の宝物であった。


「ぐすっ、すみとぉ……」

「ほら、ちゃんと持っておけよ」


 胸元に人形を押し付け、小さな両手を掴んで握らせる。


「ひっく、ありがとぉ……」

「おう! それじゃあ、帰るか!」


 愛歌の手をしっかりと引いて、住人は歩き出す。

 いつもの光景、いつまでだって続く光景。

 きっと、大人になってもそうだと、少年も少女も疑いもしなかった。


 しかし、全ての物は変化してゆく、成長してゆく。

 

 夕焼けの中で握った小さな手。それはやがて、滑らかで美しい、年頃の少女の指へと変わり。

 滑り台の半分ほどしか無かった背は、やがてそれを追い越して。

 そうしていつしか、彼女は泣き虫から卒業してしまった。


 だからもう、少年はその手を握らなくなった。


 夕日の下で前後に並んでいた影は、段々と横に隣り合うようになり、二人の立場は対等になった。

 

 少女は家事を覚え、料理が達者になり、勉学も優秀な成績を収め始める。性格も気弱なそれから、しっかりと意見を述べられるようになり、少年へ逆に小言を申し付けるほどに成長を遂げた。


 S級の美少女、癒しの女神。そんなあだ名がつくほどに、外見も見目麗しくなって。


それでも、姫島愛歌を守るのは、いつだって穂村住人の役目だと思っていた。


 ……そう、あの日。茜色の輝きの中、重なり合う二つの影を見るまでは。


 住人でない男と抱き合い、うっとりとした表情で唇を重ねる、彼女を見るまでは。


 情欲に濡れた瞳で、艶然とした『女』の顔で、住人が見た事も無いその表情で。


 ――鮮やかに微笑む、愛歌の姿を見るまでは。

 


        ◇   ◇   ◇    ◇

          

 

 ――今年が暖冬だなんて、誰が言いだしたんだ?


 住人は空を軽く睨みつけ、ぶるりと体を震わせた。夕暮れ時に差し掛かり、辺りは薄暗くなり始めている。

 

 年が明け、既に一月も下旬に差し掛かった。日を重ねるほどに寒さは増し、体の芯まで冷やしてゆく。風邪やインフルエンザも流行している。予防接種は受けたとはいえ、安心は出来ない。こんなことで、仕事を休むわけにはいかないのだ。

 

「……あいつ、ちゃんと暖かく、着こんできたのかねえ」


 『これの後』の予定、待ち合わせの相手の顔を思い浮かべる。心配だ。()()は昔から、季節の変わり目になると熱を出していた。


 マフラーは着けたか、手袋はしたか。朝、カイロを複数枚手渡したはずだが――と、そこまで考えて、住人は首を振りながら苦笑する。


(ったく、ダメだな。いつまでも、そんな事ばかりが気になっちまう)


 小さなころからの習慣のせいか。胸の奥底まで刻まれたそれは、まるで呪いみたいにまとわりつく。

 もう、彼女も自分も――子供ではないのに。


 そんな事を考えながら歩いていると、やがて通りの向こうへと差し掛かる。そこは小さな広場になっていて、複数のベンチが幾つか並べられていた。

 そうして、その中の一つ。二人用の青いベンチの片側に、『彼』は座っていた。


 足が止まる。住人の中に生まれる、微かな逡巡。それを振り払うように肩を竦め、広場にある自販機の前に立つ。暖かいコーヒーを二つ、電子決済で購入。便利な世の中になったものだと、つくづく思う。

 

 鞄を脇に抱え直し、手のひらを温めるそれを両手に持ったまま、住人は男の元へと歩み寄る。


「どうも、お待たせしましたかね?」

「いいや、今来たところさ」


 お約束の応酬。男同士で言っても、ちっとも胸に響かない。外気温同様に、寒い冗談であった。

 住人は男の隣に腰掛け、コーヒーをひょいっと投げる。


「……気が利くな」

「寒いですからね。喋るだけでも億劫になるでしょ?」


 これくらいで、口が滑りやすくなるなら儲けもの。缶の蓋を片手で開き、住人は軽くコーヒーを口に含む。それを見て、男もまた緩慢な動作で缶を開け、中の液体を煽った。


「……ふぅ。時間を取ってもらって、すまん。忙しいだろうにな」

「いえ、もともと今日は早上がりをさせてもらう予定だったので。まだそっちまでは時間もありますし」

「……そうか」


 男は、微かに口元を緩ませた。それが何だか妙に頼りなく見えて、住人は落ち着かなくなる。

 

 ――こいつは、こんなに小さかったか?


 背を屈めているからそう思ったのだろうか。住人は彼の昔の姿を頭に浮かべようとする。


 がっしりと鍛え上げられていた肉体は、見る影もなく細くなり、トレードマークだった金髪も、住人と同じく黒に染め直されている。


「スーツ、似合ってるな」

「そうですかね? 自分では良く分かりませんが」

「こなれてる、っつうか、着慣れてるっつうか……まあ、アレだ。大人になったな」


 まさか、この男にそんなことを言われるとは。

 どう答えて良いか分からず、住人は頬を掻いた。


「いやあ、どうでしょうね。学生の頃は、三十歳なんて、すごい大人に見えましたし、そうと思ってましたがね」

「ああ、まあ分かる。なっちまうと、そんなモンだよな」

「中身はまだまだ若造ですよ。ちっとも胸を張れやしない」


 二十を過ぎて、なにが変わったろうか。未だに住人は良くわかっていない。酒が飲めるようになって、食が細くなって。走ると少しだけ息切れするようになって。そうして、肉体の衰えばかりが目に付くようになってきた。ただ、それだけだ。


「体に心が追い付いてない気がしますね。もう少し歳を取れば、サマになるのか、どうなのか」

「予言してやるよ。四十になっても多分、同じことを言うだろうぜ」

「マジですか」

「ああ。三つ子の魂、百まで……というか、男なんて何歳になってもガキくせぇままだよ」


 まるで、さらに齢を重ねたことがあるように、男はしみじみと告げる。

 自分の一つ上だから、彼はまだ三十一歳。その上の歳が実感できるはずも無いのに……と、住人は首を傾げた。


――そうだ、昔からそうだった。この男はたまに、変なことを言いだしてたっけ。

 

 住人の反応をどう思ったのか、彼は苦笑しながら頭を下げた。


「ありがとうな、うちの子を助けてくれて。改めて礼を言わせてくれ」

「当然のことをしたまでです。ケガも無くて、本当に良かった」


 目の前の彼と再会したのは、先週のこと。取引先から直帰する途中で、住人は一人の子供を助けたのだ。

 本当に偶然だった。夕暮れの公園が何故だか無性に懐かしくなり、そこで遊ぶ男の子と女の子の姿が、いつかの誰かに良く似ていて。

 フッと足が向いたその先で、女の子がボールを追って道路に飛び出し――

 

「目を離すつもりじゃ、なかったんだが――って、これも言い訳か」

「子供の行動は突発的ですからね。限界があるでしょう」

「でも、俺の失態だ。お前があの場に居なかったらと思うと、ゾッとする」


 あの日、女の子を抱きとめて転がった住人の元に、叫びながら走り寄ってきたのが、彼だった。

 最初は、誰だか分からなかった。だって、今思うように印象が大きく変わっていたから。

 

『――穂村、か?』


 だから、気付いたのは彼の方。震えながら言葉を吐き出すその姿に、ようやく立ち尽くす男の正体が誰であるか、住人は悟ったのだ。


「聞きたいことと、言いたいことがあったんだ」


 そんな住人の戸惑いを知ってか知らずか、男は俯き、大きく息を吐きだした。

 まただ。昔の彼は、こんな仕草をしなかった。もっと気が大きく、いつだって悠然と笑っていたはずなのに。

 まいったな、と。住人はこの場を立ち去りたくなる。年月の積み重ねを、こんな形で思い知るとは。


 以前の彼は、『こう』じゃなかった。


 あの日、あの時、あの公園で。

 住人の幼馴染の――姫島愛歌の心と唇を奪った、あの彼は。



         ◇   ◇   ◇    ◇



 ――あの頃の自分達は、何か大きな物語の中に居た気がする。

 

 昔を懐かしむたびに、住人はそう感じてしまうのだ。

 自分を慕う後輩が居て、姉のようにかわいがってくれる先輩が居て。更には親身になってくれる女性教師に、そして物心ついたときから傍にいた、世話焼きの愛らしい幼馴染まで――


 様々な魅力を持った女性たちに囲まれ、得意な気持ちになっていたことは否定できない。心と気持ちを重ねる、幾つかのイベントを潜り抜け、親愛は深まってゆく。

 特定の誰かと恋人になったわけではない。皆が仲の良い、居心地の良い関係。


 しかし、それに胡坐をかいていたのがいけなかったのだろう。あの頃の住人は、やや天狗になっていたのだ。無神経とも言える言葉を平気で吐き、相手の気持ちをおもんばかる努力を怠った。

 

 だから、彼女たちはみな、住人の元から離れていったのだ。

 信頼を失い、友情と慕情は消え失せ、失望に彩られた眼差しがこちらを射抜く。


 それは、少なくない年月を共にした愛歌もそうだった。

 すれ違いから刻まれたヒビは、やがて大きな亀裂となり、あっという間に崩落した。


 そうして、全ての女性は住人の元を去り――『彼』の元へ。西城正臣さいじょうまさおみという、優れたオスの所へ集っていったのだった。


 

「……俺を恨んだろ? 当たり前だよな」

「その気持ちは、確かにありました。けど自業自得ですよ。そんなの、逆恨みってもんです」


 それは強がりでなく、心の底からの実感だ。

 かつての、高校生であった頃の住人は、どうしようもない甘ったれだった。

 

 彼女たちの心の傷に気づかず、逆に広げる始末。救えないにも程がある。

 だから、皆を助けたのは彼。西城に他ならない。


「ウワサなんて、あてにならないって知ってたのに。俺はそれを信じ込んでしまいました」

「いや、アレは当然だ。悪い評判のある男に、大事な人間を近づけたくはねえよな」


 西城はそう言うと、自嘲気味に肩を震わせた。

 当時の彼は、不良の代名詞のような男だと噂されていたのだ。

 住人もまた、友人から伝え聞いたそれを真実と思い込み、幼馴染たちの目を覚まさせようと、啓蒙したものだった。


(まあ、結局。俺の空回りだったわけだ。ホント、穴があったら入りてえなあ)


 あの頃の自分を思い出すだけで、住人は恥ずかしさに悶絶してしまう。

 西城は、女にだらしないという点だけは事実に即していたが、後はごくごく真面目で誠実な男であった。


 義に厚く、弱きを助けて強気をくじく。昭和のヒーローのようであった彼。男としての自信に満ち溢れ、近寄る女を拒まず、誰かの陰口を叩くこともしない。男の夢すら叶えた、偉大な青年。

 

 住人は彼を殺したいほどに恨んでいたが、それが無駄だと思えるほどに、人間として完敗していた。

 もしかしたら、心のどこかで。憧れてすらいたのかもしれない。

 だからこそ自分がみじめで仕方がなく、消えてなくなりたいとすら思った高校時代。

 

 しかし、西城もまた自分と同じ学生に過ぎないことに、あの頃の住人は気が付かなかった。

 もっと視野を広げて考えれば、周囲の大人に相談していれば。そうすれば、防げたのかもしれない。


 高校生が作るハーレムなんて、そう易々と長続きするはずがない。少なくとも、西城の場合はそうであった。

 彼自身に魅力があり、親にも権力があって。金と色気と力を兼ね備えても、足りないものはあった。

 強いていえば、それは想像力であったのかもしれない。


 男の単純さと、女の怖さ。それを住人も、そして西城も。本当の意味で理解していなかったのだ。


 そう、ハッピーエンドを迎えたあとにも、現実は続くのだ。


 男と女の関係にあった男女が、いつまでも皆、仲良しこよしに幸せで居られるものなのか。

 その答えは、そう時を置かずに導き出される。

 最初の破滅は、三年の生徒会長。かつて住人が姉のように慕った彼女が。


 ――西城の子を妊娠したことに、端を発した。


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