第1話
イガント王国、それは大陸の東端に位置し、海に面する東以外を数々の小国に囲まれた大国である。大きな港がある関係上様々な場所から人や物資がやってくるため、周辺国の経済の中心として、そして文化の交流点として発展している。
‘名無し’がまだただの’暗殺者’だった頃。イガント王国では、作物の不作により食料の自給率が低下が始まり、近隣国に依存せざるを得ない状況になりつつあった。それまで、強国としての誇りを持っていたイガント王国の貴族は、他国に依存しなければ国が立ち行かなくなるかもしれない未来に不満を募らせた。
それを受けて、王国の裏側では、近隣の国に戦争を仕掛けその土地を取り込み、状況を打破するべきだとする強行派が徐々に力をつけ始めていた。
国境沿いに住む貴族の暗殺から言うと約2年前。’暗殺者’としての活動のために、城勤めの執事として生活していた彼は、ある日突然、謁見の間ではなく、近衛騎士すらいない執務室に呼び出された。そしてその異常事態から、何かを感じ取った’暗殺者’は誰にもバレないよう、気配を殺してそこを訪ねた。
「貴様には、第二王女の事をお願いしたい。頼めるか?」
警戒しながらやってきた彼に対して、国王がそう告げる。唐突すぎる頼みに、‘暗殺者’は困惑し、恐る恐る答える。
「だ、第二王女でございますが?懐刀としてなら、より継承権の高い第一王子の方が良いと考えますが…?」
「ああ、第二王女だ。貴様も近年強行派が力をつけ始めているのは知っているな?現在その旗頭になっているのが第一王子と第一王女なのだ。それに加えて貴族どももそれに同調しようとしている。この平和を崩さないために、力を持つ貴様には平和派の第二王女を頼みたい。それに今後は余と話す機会が増るだろう。そうなっても、第二王女の執事であれば、言い訳はつくだろう?」
「そう言うことでございましたか…。承知いたしました。謹んでお受けいたします。」
「うむ。」
その後、短い会話を終えた‘暗殺者’は一礼して、謁見の間を退出する。
もちろん、‘暗殺者’も強行派の旗頭が誰かなどは知っていたが、王がそれに対してこれといった反応を示さずにいたため、王自身が平和的考えであると言うことは初めて知った。
そして、王がその立場を表明したら間違いなく国内での対立が深まってしまうため、秘密裏に自分に第二王女を頼んだのだと言うことを‘暗殺者’は理解した。
(私が‘暗殺者’だと知るものは少ない。そう言う意味でも、都合がいいのだろう。)
‘暗殺者’はそんなことを考えながら、王に教えてもらった第二王女の居場所まで歩いていた。目的地につき、部屋に入る。
「失礼致します。国王陛下より命を受けてまいりました。」
「まあ、あなたがあの’暗殺者’さん?お父様から話を聞いています。わたくしは、第二王女のミカエラ・ラ・イガント。あなたのお名前はなんて言うのかしら?」
微笑みを浮かべた第二王女がそう聞くと、’暗殺者’は気まずそうに答える。
「申し訳ありません第二王女殿下。私は自身の名前というものを持っていないのです。どうか’暗殺者’とお呼びください。」
「わたくしのことはミカエラと呼びなさい。立場の名前で呼ばれるのあまり好きではないの。それにあなた、名前がないことは、事情があるのでしょう、あまり深く聞かないでおくわ。それでも’暗殺者’なんて呼び方じゃ味気なさすぎるわ。何か他の呼び方はないの?」
そう言う第二王女に対して’暗殺者’はさらに気まずそうな顔をして答える。
「重ねて申し訳ありません。我が師によって、小さい頃から名前を覚えることを禁じられており、名前を覚えるということができないのです。どうか、第二王女殿下と呼ぶことをお許しください。それと、私の呼び方については殿下のお望みのままに。」
「あら、変わった師匠なのね。ちょっと興味が湧いたわ、その人について、いつか教えなさいね。それを約束してくれるなら、そう呼ぶことを許すわ。それにそうねぇ、あなた呼び方ねぇ…。」
「約束」に対して頷く’暗殺者’を見つつ顎に手を当て、少し悩んだ末に第二王女は言う。
「よし!’名無し’って呼ばせてもらうわ。もっとちゃんとした名前を付けてあげても良かったけど、あなた望んで無さそうだし。それじゃあ’名無し’、よろしくね。」
「はい。我が力、全てあなたに捧げます。」
2年後…
「‘名無し’〜?頼んでた茶葉は準備してくれたかしら〜?」
「はい殿下、こちらに準備してございます。」
「よろしい。ではお茶会を始めますか。と言っても参加者はあなた含め全員私の従者なのだけれどね?」
「第二王女としてあまり従者と席を一緒にするのは良くないのですが…。今日だけですからね。」
「はいはーい。まあどうせ、次もやってくれるんでしょうけどねー?」
「そんなことはありませんよ?」
こうして、ただの’暗殺者’は王女と出会い、‘名無し’として変わらぬ忠誠を誓うのだった。
「‘名無し’〜!手伝ってちょうだいー!」
庭園で執事に向かって手を振る第二王女を、少し離れた場所から見ている2人の男女がいた。
「ふむ。やはりミカエラはあの執事のことを相当信頼しているようだな?あのミカエラが、父上以外を信用するとは思えないのだがな。お前はの方では何か情報は掴めたか?」
「いいえ、全くと言っていいほどめぼしい情報はありませんでしたわお兄様。あの執事の過去を洗っても、ごく普通の村生まれで、成人に伴ってこちらに移り住み、通常の試験を合格して城勤めの執事になったと言うことしか分かりませんでしたの。外部出身の彼が、生まれから執事として教育されたものたちを押し除けて王女付きになっていることに違和感はありますけれど、試験後から現在までの流れも特に問題は見つかりませんでしたわ。」
男女ともに銀髪で、両者とも他者を圧倒する雰囲気を纏っていた。かれらこそ、イガント王国が第一王子、アレクサンドロス・ラ・イガントと、第一王女レイチェル・ラ・イガントである。彼らは、強行派の旗頭として、平和派を語るミカエラを警戒し、情報収集を欠かさないでいた。
「ふむ、そうか。父上はまだ自分の立場について表明されていない。しかし彼がどちらであろうと、この国の未来のため、次の玉座には私が座らなければならない。そのための足場固めとして、今後も情報収集を頼むぞ。」
「ふふっ。分かっております、お兄様。全てはこの国、そしてお兄様のため。」
イガント王国の行く末を案じる兄妹は、王位に対する決意を新にし、庭園でお茶会を始めようとしているミカエラたちを尻目に、城へと戻っていく。
(それにしても、’ナナシ’か…。本当にあの‘名無し’だとしたら、今のパワーバランスが崩れかねんな。今後はより注視しつつ、そうだった時のための保険も準備することにするか。)
王位継承権一位の彼は、ライバルたる存在の切り札を嗅ぎつけようとしていた。
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