表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
BURDEN  作者: Kanashii Yagi
1/8

01-太陽は冷たく、鳥は叫んでいる

今日という日

すべてを終わらせる日だ

-イライアス

ラスベガスではまたありきたりの夜が更けていく。かつて多くの者が「罪の街」と呼んだこの地は、刹那的な快楽への渇望を癒やす聖域だ。ギャンブル、性、そして眩い光——この三本柱が、ラスベガスを何年もかけて築き上げた数十億ドル規模のビジネス帝国を支えている。時刻は午後11時頃。夜空は漆黒に染まり、星影もまばらだ。MGMスタジアムを発ったモノレールの車内で、痩身で青白い十代の少年が座席に埋もれ、携帯をいじりながらヘッドホンから流れる音楽に耳を傾けていた。夜の喧騒に踊る享楽者たちや妖艶な女たちの中にあって、少年の存在は不協和音のように浮き立っていた。ベタつき逆立った髪は、擦り切れた白シャツ、黒のカーゴパンツ、汚れたスニーカー、そして己への無関心を露わにした虚ろな表情と奇妙な調和をなしている。無地の白シャツは、MGMスタジアムで働く者たちの標準的な作業服だ。左胸の名札には、かすかに「エリアス・ラスコー——『紅きレース紳士クラブ』総合補佐」と記されていた。


「ちっ…」


携帯の時刻を見てエリアスは呟く。モノレールが終点に近づく中、手すりに掴まり立ち上がった。その瞬間、ラベンダーの妖しい香りが彼の意識を奪う。ふと目を上げると、そこには艶めかしい女の魔族がいた。混血種特有の鮮烈な紅い肌、人間の雀斑に相当する頬や額の黄色い斑点。小さく吊り上がった琥珀色の瞳、優雅な曲線を描く鼻、滑らかな唇。魔族の女は、無名に近いメタルバンドのロゴが入った紫のタンクトップを着て、平坦な腹の一部を露わにし、誘惑的な肢体を強調していた。エリアスはその姿に釘付けになる。最初は純粋な憧憬だったまなざしが、急速に社会的常識を欠いた妄執へと変貌する。彼が失神しそうになりながら凝視する中、女は怪訝な表情で振り返り言った。


「何か用?」


エリアスの心臓は喉元まで飛び出さんばかりに暴れた。全身に嫌な熱が奔る。思考は言語化を拒む。数時間にも感じられる沈黙の末、ようやく声を絞り出した。


「い…いや…あの…君がすごく…きれいだって…伝えたくて。インスタ…とかで繋がれない?」


気詰まりな空気が張りつめた。女はその言葉を聞くと、嘲笑のようにケラケラ笑いながら一歩後退し、侮蔑の眼差しで応じた。


「ああ、ありがと。でも興味ないわ。人間は好きだけど…変人じゃないの。勇気は買うわよ」


さらに距離を置き、携帯をチラ見しながらエリアスを嘲笑い続けた。これが五分ほど続き、モノレールが駅に着くまで止まらなかった。エリアスの顔は以前にも増して死相を帯びている。携帯の音量を上げ、駅を出て三マイルの道を足早に帰宅した。ヘッドホンを外し、ポケットから鍵を取り出してドアを開ける。ラブラドールの家族犬・ヨナが駆け寄り、ズボンの裾を嗅ぎながら顔を舐めようとする。


「ヨナ!よしよし…」


陽気な犬と一分ほど戯れ、リビングへ向かう。目に入ったのはテーブルの上のメモだった。


夕食準備済み/電子レンジ/馬鹿な真似するな


エリアスはため息をついた。意味は痛いほどわかっている——母親と継父はまた外出中、今週で三度目だ。電子レンジを開けると、ガラス皿に載ったラザニアの半分が待っていた。心の奥で微かな喜びが揺らぐが、疲労と徒労感以外を表に出せない。温めタイマーをかけ、適当なパジャマに着替え、スプーンを手にテレビの雑番組を無心に見ながら食べ始める。


携帯が鳴り、虚ろな声で応答する。


「もしもし、エリ——」


遮るように罵声が耳を劈いた。


「『もしもし』だけかよこいつ!?」


気が散って発信者も確認していなかった。相手はラスベガスの顔役であり『紅きレース』のオーナー——ラディ・ジャッド(Radi Jaddo)だ。ピンチと悟ったエリアスの脳裏に男の姿が浮かぶ:ドレッドヘアの長身黒人、ジャマイカ訛りで英語はめちゃくちゃ。白の迷彩パンツ、黒の軍用ブーツ、紫のジャケットに白いランニングシャツ、オレンジのアビエイターサングラス。そして何より——腰に潜ませた実弾装填の拳銃。噂ではジャマイカの政争時代、政治家の用心棒として働き、12人を殺したという。一人は生きたままマチェテで斬り刻まれたとも。『紅きレース』はコカイン取引の拠点として知られ、ラディ自身も90%の確率で薬中だ。


「エリアス!」


ラディの凶行を回想しながら、エリアスは即席の言い訳を紡ぐ。


「す、すみませんジャッドさん!お見それして…」


声に滲む恐怖を隠せない。


「聞けよ白んぼ。なんで俺の下で働いてる?」


ラディの声は威圧的だ。エリアスはソファで縮こまりながら答える。


「他…どこも雇ってくれないからです…」


恥辱にまみれた返事に、ラディは薄笑いを浮かべて追い打ちをかける。


「そうだろうがこの小僧!じゃあ説明してみろよ、なんで4号室に使い捨てコンドーム15個が転がってたんだ?15個だぞエリアス!」


エリアスは思い出した——4号室の掃除をサボったのだ。精液や溢れた酒の掃除に午後中うんざりし、誰か他の補佐がやってくれるだろうと思い込んで。


「ル…ルークがやると思いまして…」


ラディは電話越しに聞こえるほど机を叩きつけた。


「ルークは腹に銃弾喰らってる!人工昏睡中だ!意味わからんがな!」


自分の不注意が招いた惨事に愕然とする。同僚ルークの銃撃と、市東部の鉛汚染水問題で他の補佐が病欠したため、彼が残業していたのだ。


「…すみませんジャッドさん。明日残業で挽回します」


ラディは深いため息をついた。


「明日は早出だ。全部徹底掃除し、夜はバーを仕切れ」


エリアスは躊躇いながら承諾する。バー勤務は大嫌いだ——高級酒をこぼし、グラスを割る。しかし今や仕事どころか命が懸かっている。


「はい…」


ラディは電話を切った。エリアスは目頭を押さえ、この最悪の一日——いや、これまでと同じく最悪の日々を思い返す。ラザニアの残りを床に置き、喜んで食うヨナに与える。


「腹減ってたか?あの役立たずのババア、外出前に飯ぐらいやったのか?」


ヨナが完食するまで撫で続ける。


「おやすみヨナ…今日は遊べなくてごめん。きつい日だった…いつもよりな」


階段を上がり自室へ。明かりを全て消し、荒れたベッドに潜り込む。お気に入りのターコイズ色の羽毛布団にくるまる。天井を見つめながら仰向けになる。夜の静寂が冷気を運んでくる。


「俺は一体何をやってるんだ…」


独り言が空っぽの寝室に反響する。寝ようと試みるが、まるで眠気が訪れない。一時間もごろごろと転がり、まばたきすらままならない。疲れ果てて立ち上がり、親の寝室へ向かう。ベッド脇に数字パネル付きの金属製金庫がある。うずくまり、重い金庫を必死にキッチンまで運ぶ。引き出しから養生テープを取り出す。テープをパネルに貼り、携帯のライトで照らす——指紋が浮かび上がる。


「12…05…19…母と出会った日か。皮肉だな…クソ野郎」


見つけ出したコードを打ち込むと、金庫がカチリと開く。中身はシステマティックに配置されている——拳銃一丁、弾丸三マガジン、手入れキットが黒いスポンジに収まっていた。


「銃を握るのも久しぶりだ。数ヶ月前に自殺未遂した後、このバカ金庫を買いやがった。どうせ俺のことなんてどうでもいいんだ。また警察に厄介かけられたくないだけさ」


キッチンで独り言を続けながら、空の拳銃を弄る。操作法を解説した動画の記憶を手探りで辿る。長い沈黙で自分の声すら忘れかけるため、彼は無作為に呟く癖で声を確認するのだ。苦労の末、マガジンをマグウェルに装着、装填完了する。スライドを慎重に引き、一発が薬室に入るのを確認。親指で安全装置を切り、撃発準備が整った合図の音を聞く。数秒の逡巡の後、銃口をこめかみに当てる。震えながら引き金に指をかける。


「一瞬の勇気だけだ、エリアス…それで終われる」


震えが止まらない。キッチンの窓に映る自分を見つめる。


「19年間の虚無が…ここに至る。これが終焉だ…終わりだ…」


まるでマントラのように呟きながら、銃口は頭に密着したまま、指は引き金から数センチの位置にある。二ポンドの力さえ加えれば、この苦しみが終わると一瞬思った。目を閉じ、惨めな人生に別れを告げようとしたその時——


「クゥン…」


かすかな鳴き声。ヨナだ。犬には自殺願望という深淵な人間の感情は理解できない。しかし飼い主——己の世界の全て——の死の気配は感じ取った。その一瞬、エリアスの決意は霧散した。拳銃を金庫に戻す。アドレナリンでまだ震えている。床に崩れ落ち、息が続く限り嗚咽を漏らす。ヨナが体を丸めて寄り添い、必死に慰めようとする。そのまま涙と共に眠りにつき、翌朝まで冷たい床で過ごした。


日の出と共に携帯のアラームが鳴る。画面には「診療(shinryō)」と表示されていた。心理療法士の予約日だ。内心では治療など無意味——救いようがないと思っている。だが処方薬を得るには通院が必要なのだ。いつもの朝を過ごす:孤独な入浴、作業服への着替え、ベッドで三十分ほど腐り、ヨナに別れを告げて外出。数少ない運動であるジョギングで医院へ向かう。受付を抜け、診察室へ——医師は待っていた。


ジェニファー医師(Jenifā ishi)は素晴らしい女性だった。女性に対して歪んだ見解を持つエリアスだが、彼女への興味は肉体的ではなく精神的・魂的なものだ。彼女もまた、モノレールでエリアスを拒んだあの魔族と同じ種族だった。その記憶が一瞬フラッシュバックするが、全ては己の過ちだと自覚している。


ジェニファーは約210cmの長身で、エリアスを見下ろす。長い手足、白くカールした長髪、縁がついたピンクの眼鏡——上品でありながら愛らしい。エリアスは彼女を医院の外で見たことがない。いつもの白いドレスに黒のハイヒールで、さらに背を強調している。威厳ある見た目に反し、患者のために尽くす優しさに満ちた女性だ。それこそがエリアスの思いを募らせる理由だが——彼に告白など夢にも思えない。


「こんにちは、エリアス!」


立ち上がり、見下ろしながら強く抱擁する。エリアスは無理やり笑顔を作る。


「あ…先生」


ジェニファーは巨大な椅子に戻り、移動時にドスンドスンと音を立てる。


「ご無沙汰ね!調子は?お母さんは?継父さんは?ヨナは!?」


椅子の肘掛けを握り、エリアスの近況に瞳を輝かせる。


「…相変わらず最悪です。水を差すようですが…はい」


ジェニファーの笑顔が消える。人差し指で眼鏡を押し上げ、真剣な表情で言う。


「そう…取り掛かろう。何が問題か話して。ただし例の『自分は被害者』論は無用よ。事実だけを」


辛辣で直截な指摘だった。ジェニファーは確信していた——強く出なければ、エリアスはまた一時間かけて「運命の犠牲者」論を展開するだけだと。エリアスもその正しさを認め、普段の自己憐憫を排して失敗と向き合う。ため息をつき、数秒考え込んでから集中して語り始めた。


「父はよくわからない病気で死んだ。母はリーバーマンってクソ野郎と再婚した——浮気はするし母をゴミ扱いする。でも母は別れない。二人にはもう一人子供がいる。妹のヴァロリーだ。妹には何でも与える:旅行も外食も…今じゃ15か。頭も良くモテて、彼氏もいるだろう。妹は天の恵みで、俺は落ちこぼれ」


ジェニファーは注意深くメモを取る。魔族としての特性を使い、爪の熱で紙に文字を刻みつけている。顔を上げ、耳を傾ける。


「具体的に…なぜ自分を落ちこぼれと思う?」


エリアスはジェニファーを見つめ、ストレス解消のため手を組む。


「学校では落ちこぼれだった。母が校長に『精神障害』と嘘をついたから進級できただけ。背は低くガリガリ、変わり者だった。ゲームと読書に没頭し睡眠不足——歩く失望の塊さ。友達も彼女もいない。キスすらしたことない。手も繋いだことない…プロムにも行かなかった。女の子と十文節以上会話したことすらない…先生…以外は」


言い淀み、恥じ入る。ジェニファーは含み笑いし、メモを続ける。


「過去の話は十分わかった。鬱病者の多くが同じ境遇よ:親不在、友人・恋人・温もり・学業…全て失う。過去は過去。『今』を話そう。仕事は?」


エリアスは視線を泳がせる。


「学歴も資格もない。特技も経験もない。継父に追い出されないよう、どんな仕事でも選んだ。『紅きレース』なら雇ってくれた」


ジェニファーは口を押さえて笑う。


「ごめんなさい…『紅きレース』?あの売春宿?」


エリアスは俯き、苦笑いで誤魔化そうとする。


「はい。最悪の仕事です:変態どもの精液掃除、汚れた下着洗い、同じ曲を一日中聞かされ…時給はたったの6ドル半。うめき声は…論外です」


ジェニファーは足を組み、結論を模索する。


「より良い職業に就く可能性は?」


エリアスは背もたれにもたれる。


「いいえ…ないです」


ジェニファーはエリアスの瞳を深く見つめる。


「つまり君は19歳。友人も恋人もおらず、健康被害リスクすらある低賃金劣悪職。教育は皆無に等しく、頼れる家族もいない。女性の大半は君を路上で見かければスタンガンを向けるだろう。君は蟻以下の存在価値だ」


エリアスは唾を飲み込む。彼女からこれほどの直言を浴びせるとは思っていなかった。


「わかってます」


ジェニファーはエリアスの肩に手を置く。


「君には何もない。ならば——何にでもなれる」


エリアスの曇った瞳が微かに光る。


「…な、なれる?」


ジェニファーは診察室の窓を指さす。外はラスベガスでは珍しい快晴だった。近くの木にコマツグミの群れが巣を作っている。


「失望させる家族はいない。縛る友もいない。怒る彼女もいない。正直…君は今、生まれたばかりの嬰児だ。それ以上に——無限の可能性を秘めている」


エリアスは窓の外を見る。


「今日は…いい天気だ」


ジェニファーはうなずく。


「太陽は輝き、小鳥は歌っている——そうでしょう?」


ジェニファーが近づき、独特の方法で安らぎを与えようとする。エリアスが下を見ると、彼女のブラックレースのブラジャーが危うく豊満な乳房を支えているのが見えた。吐息は甘く安らぐ——硫黄とラズベリーの奇妙な調合香だ。弓なりの舌が魅惑的に動き、その誘惑に抗える者などいないだろう——


エリアスは理性を超える衝動に駆られ、ジェニファーに飛びかかった。未熟で貪欲な接吻を彼女の唇に押しつける。ジェニファーは一瞬で後退し、接触を数分の一秒で断ち切った。エリアスが目を見開き過ちを悟った瞬間、彼女の手の平が炸裂する。悪魔の怪力を込めた平手打ちは、痩せたエリアスを部屋の端まで吹き飛ばした。顔面は陥没し、鼻血が止まらない。壁にすがってようやく起き上がるエリアスを、ジェニファーの表情は怒り・混乱・嫌悪で歪む。


「正気か!?」


その言葉がエリアスに刺さる。接近しただけで無断で接吻するとは——どれほどの病的性欲か?少しの親切すら恋慕に変換するとは——どれほどの愛情飢餓か?血を止めようと立ち上がり、涙を浮かべて医師を見上げる。


「僕の病はわかってます…治そうとしてる。でも…手遅れです」


ジェニファーの表情は微かに和らぐ。


「君に必要なのはカウンセリング以上だ——向精神薬が必要よ」


警戒したまなざしで処方箋を書き、紙を破って渡す。


「プロザック、シンバルタ、サイネクワン…いつもの処方。これで凌ぎなさい」


エリアスは血の滴で赤く染まる処方箋を見つめる。


「先生…もう会えないでしょう」


ドアへ引きずるように歩く。ジェニファーは少しの憐憫を抱えながら見送る。


「ええ…そうね」


エリアスは騒動に駆けつけた警備員や居合わせた患者を無視し、ロビーを引きずり歩く。血の滴を道に落とし、狂人の如き風貌で街を彷徨う。ドラッグストアに突入し、処方箋をカウンターに叩きつける。無言で震える店員が薬を渡す。店を出たエリアスは崩れ落ちるように泣きながら帰宅する。ドアを開けると、安らかに眠るヨナがいる。そっと額に口づけする。


「強く生きろよ…相棒。寂しくなる」


家の中を静かに歩き、昨夜置いた拳銃をキッチンで握る。腰に銃を差し、引き出しから包丁を抜く。ドアへ向かい、ヨナを最後に見つめて鍵を閉める。何時間もラスベガスを彷徨い、ネオンの海から遠く離れたモハーヴェ砂漠へ迷い込む。砂丘に登り、遠くに輝く街を見下ろす。拳銃を腿に置き、景色を瞑想する。


「ここから見ると…この街も悪くない」


安全装置を外し、銃口をこめかみに当てる。


「母さん…愛されたかった。本当に…」


涙が溢れ出す。砂漠の広漠さに掻き消される号泣は、風笛に混じる嗚咽に過ぎない。拳銃の冷たいポリマーが背筋を震わせ、指がゆっくりと引き金に絡む。


「クソッ…全部クソだ。俺は何一つまともにできやがらない」


拳銃をこめかみから離し、代わりに包丁を握る。病的な儀式のように袖をまくり上げる。前腕は自傷の痕で皮膚と認識できぬ——切り刻まれ、可視部分すら殆どない。うめき声を上げ、包丁を砂丘に投げつける。


「小手先は終わりだ」


再び拳銃を握り、今度は喉元に当てる。


「これが俺の報いだ…全てを受け入れろ」


目を閉じ、砂漠の微風を感じる。


「これが俺の死に様だ:孤独で、惨めで、何一つ成し遂げず。墓すらなく…墓標すらない。数日後、エリアス・ラスコーは無に帰する。誰一人として記憶に留めない」


エリアスの絶叫を、銃声が木霊する。反動で拳銃は砂丘へ飛び、砂に飲まれた。喉元にはX字状の穴が開き、気管が剥き出しになる。噴き出す血を必死に指で押さえるが無駄だ。地面に倒れ、血痕を砂に引きずりながら這う。


「死に…たくない…母さん…助けて…怖い…寒い…」


自らの選択の重みが心臓を押し潰す。アドレナリンが切れ、不可避の結末が迫る——死だ。体力が失われ、砂の重みが増す中、エリアスの脳裏には人生の最悪の瞬間が走馬燈のように駆け巡る——そして気づく。全てが最悪だったと。記憶に笑顔は一片もない。こうして、孤独で、冷たく、血まみれのエリアスは死んだ。誰にも看取られず、泣き声も届かず、遺体も発見されない。遺書も形見も遺産も——弔いすらない。エリアス・ラスコーは消滅した。風に吹かれる一粒の砂のように。


しかし肉体が滅びた時、新たな扉が開かれる。時間の流れが停止した。エリアスは…死んだ。だが未だ存在を感じる。肉体はなく感覚もない。苦労して目を開けると——そこは無の空間だった。無限に広がる黒い水。視界の限り、無貌の黒い影が蠢いている。エリアスもそれらに混じっていた。哀れな亡者たちは、一隻の小舟の先端に灯る油ランプの微光を求めてもがく。小舟を操るのはフードを被った骸骨の渡し守。影の一つが舟に触れようとした瞬間、渡し守は櫂を振りかざし、その頭を打ち据えて黒水へ落とした。


「退け!取引せん者は我が舟に足を乗せるな!」


渡し守は深淵な声で、極めて洗練された古語で宣言する。エリアスは状況を理解できぬまま、唯一機能する思考で一文を紡ぐ。


「取引したい!」


小舟が鋭く回頭し、影の群れを櫂で殴打しながらエリアスに近づく。骸骨はエリアスを引き上げ、ランプの傍らに座らせた。


「歓迎する、子よ。我はカロン——辺獄の渡し守。お前のような迷える魂に光と取引の機会を与える者だ」


エリアスは己の手を見る——他の影同様、身体は闇の外殻に過ぎなかった。


「地獄…ここは…地獄なのか?」


カロンは立ち上がり、ランプに枯れ枝を投げ込んで炎を強める。


「否。地獄は多層だ。ここは辺獄——忘れ去られし者と自死せし者の棲家」


エリアスは体を丸め、運命を受け入れようとする。


「俺の…罰は…忘れられること?」


カロンが身を乗り出す。


「ここに来るとは、初めから記憶されぬ魂だ。この呪われた水底がお前の永劫の住処となる。光を求めて泳ぎ続けるがよい——この舟の灯りだけが永遠の闇における唯一の道標だ。音も悲しみも快楽もない…虚無のみ。これが辺獄」


顔を持たぬエリアスだが、恐怖で形作られれば震えていただろう。唯一の意思疎通手段である声が震える。


「取…取引の話を…魔物の知識は乏しい…家族はラヴェイ派で…教義も曖昧で…」


カロンは長年聞きたかった言葉を聞けたように哄笑する。


「自死は大罪…諸悪の根源だ。古の神は『自らの命への冒涜』を絶対に許さぬ」


エリアスは混乱する。


「古の神の戒律が効力を?」


カロンは櫂を弄りながら知恵深く返す。


「古の神なくして、魔族も地獄も罪も存在せぬ。聖書の戒律は即ち来世の法なのだ」


エリアスは徐々に理解する。魔族と悪魔が支配する世界では、地獄という概念は陳腐化していた。死んだ時、彼は隣人の説く地獄——七つの大罪に溺れる巨大な淫楽窟——を想像した。だが約束は必ずしも果たされぬ。


「…古の神の論理なら…俺は…悔い改めねば?」


カロンは嘲笑う。


「もはや悔い改めは無意味。宇宙への負債を清算せよ」


エリアスが立ち上がる。


「負債?」


カロンは櫂を漕ぎ、辺獄を進みながら語る。


「知性体の行為は二種:罪と徳だ。出生時、両方の計数は零。成長に伴い増減する:隣人のスカートを覗けば罪+1。飢えた者に食を施せば徳+1。だが計数に重み付けあり:殺人は罪+15。自死はお前の如く…罪+1000だ」


エリアスはバランスを崩し、水に落ちそうになる。


「千…千の罪!?」


カロンは舟を止め、亡者たちを見下ろす。


「これらは全て古の神の定め。生命は均衡なり。罪も徳も必要。正しき道を歩むには、過ちの道を知らねばならぬ。罪と徳の均衡こそ肝要。お前の場合…罪1300、徳200。これでは地獄の娼館へすら行けぬ。永遠に我と辺獄に囚われる」


エリアスは黒い水面を見つめる。過剰な情報ながら、必死に咀嚼する。


「…取引しよう。どう負債を清算すれば?」


カロンは立ち上がり、エリアスの肩に触れる。


「その目で確かめるがよい」


エリアスはカロンを凝視する。


「受け入れる」


カロンは櫂を握り、エリアスの頭部を強打する。


「取引成立」


エリアスは気絶する。意識はなくとも時間の流れを感知する。感覚が戻った時、彼は感じた——呼吸困難と空間閉塞を。黒水に戻ったのか?違う。周囲を探ると——羊毛のような感触。ベッドか?視界は真っ暗。理解が走る:生きながら埋葬されたのだ。


「やめろ…嫌だ…助けて!助けてくれ!」


叫び声は誰にも届かない。なぜ生き返った?再び死んだらどうなる?喉の銃創は不気味なX字の瘢痕となり、自らの行為を嘲笑う。棺桶を叩くが無駄だ。酸欠と閉所恐怖が襲う。過呼吸になり、声を絞り出すが虚しい。


突然、エリアスは不可解な怪力を得る——人間の域を超えた力だ。棺桶を破壊し、土砂が狭い空間に流入する。


「クソが!助けろ!助けてくれえ!」


叫びが無駄と悟り、応急の計画を練る。素足で土を掻き出し、棺の隅に寄せる動作を繰り返す。足の裏は生肉と化し、一掻きごとに嗚咽が漏れる。遂に棺は土で満たされ、動ける隙が生まれる。必死に体をひねり、掘った穴を伝って這い上がる。爪で土を掻き分けながらの前進——雨で柔らかくなっていたのが幸いだ。一時間の窒息行の末、爪は剥がれ前腕は爛れながら、最後の土層を突破する。月明かりと雨粒が見えた。拳で土を殴り、地表へ這い出す。冷たい雨が裸の傷体を洗う。初めて、生きていることに感謝の念が湧く。自身の墓石を探し、名を確認する。


ハドソン・ブルックス 享年39歳 没後1日


「一体…何が…起きて…」


エリアスは呟き、傷と疲労で意識を失った。



こんにちは!BURDENをお読みいただきありがとうございます。

このチャプターは、他のどんなチャプターでもそうであるように...いや、どんなチャプターでもそうなんだけど、未来への大きなセットアップだったんだ。しかし、これですべてがきちんと確立されたのなら、いよいよBURDENに飛び込むことができる。

楽しんで読んでくれた人には、これからも読み続けてくれるようお願いしたい。この物語は、まだ読んだことのないものをあなたにもたらすことを保証します。


-悲しいヤギ

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ