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第八章「鉄斎の獲物と黒船の兆候」

「おお、朧月(おぼろづき)の旦那か! ようこそおいでなすった! 今、とびっきりの『獲物』を解析してるところでな! いやあ、こいつは手強い! まるで、大御所(おおごしょ)システムに喧嘩を売ってるみてえな代物だぜ!」

野太く、それでいてどこか間の抜けたような、しかし間違いなく聞き覚えのある声が、廃道場の奥から朗々と響いてきた。その声には、子供のような無邪気な興奮と、長年鍛え上げた武人のような力強さが奇妙に同居している。声と共に、道場の床板がギシリ、ギシリと軋む音が近づいてくる。埃と古びた木の匂い、そして微かに残る墨汁の香りが漂う道場の奥から、ゆっくりと巨大な影が姿を現した。

それは、月影(つきかげ)静馬(しずま)がよく知る男、電脳(でんのう)浪人(ろうにん)鉄斎(てっさい)だった。年の頃は四十を少し過ぎたあたりだろうか。まるで熊のような大柄な体躯は、着古した継ぎ接ぎだらけの武道着に包まれているが、その下には鍛え上げられた鋼のような筋肉が隠されているのが見て取れる。頭は綺麗に剃り上げられ、日に焼けた厳つい顔には、無精髭が伸び放題だ。しかし、その大きな鳶色の瞳は、意外なほど優しく、そして悪戯っ子のようにキラキラと輝いていた。右手には、飲みかけの安物の徳利が握られ、左手には、何やら複雑な電子基板のようなものを無造作に掴んでいる。その基板からは、微かに焦げたような匂いと、オゾンのような刺激臭が漂っていた。

鉄斎(てっさい)殿、夜分にすまない。影蝶(かげちょう)は無事に届いたか」

静馬は、引き戸を完全に開け放ち、道場の中へと一歩足を踏み入れた。床板が、彼の体重を受けて小さく軋む。

「おう、朧月(おぼろづき)の旦那! あの可愛らしい蝶々なら、さっき確かに受け取ったぜ! いやはや、あんたのからくりはいつ見ても見事なもんだ。まるで生きているみてえだ」

鉄斎(てっさい)は、顔中をしわくちゃにして豪快に笑った。その声は、廃道場の高い天井に反響し、まるで雷鳴のようだ。徳利を掲げ、ぐいと一口呷ると、ぷはーっと満足げな息を吐く。酒の匂いが、静馬の鼻腔をくすぐった。

「まあ、立ち話もなんだ。奥へどうぞ。ちいとばかり散らかってるが、気にしないでくれや。なにせ、この『獲物』の解析に、ここ数日付きっきりでな」

鉄斎(てっさい)は、静馬を道場の奥へと促した。道場の中は、想像以上に広々としていたが、壁際には古い槍や薙刀、木刀などが無造作に立てかけられ、床には使い古された座布団や、何かの資料らしき和紙の束が散乱している。そして、道場の中央、かつて師範が座したであろう上座の位置には、巨大なホログラムディスプレイが設置され、そこには目まぐるしく変化する複雑なプログラムコードや、何かの設計図のようなものが映し出されていた。ディスプレイの前には、鉄斎(てっさい)が寝食を共にしているのであろう、汚れた布団と、食べかけの握り飯の包みが無造作に置かれている。空気はひどく乾燥し、埃っぽいが、その中に混じって、微かに線香のような、心を落ち着かせる香りが漂っていた。

「して、朧月(おぼろづき)の旦那。影蝶(かげちょう)の文面には、ちいとばかり物騒なことが書かれていたようだが……。例の『暗号落語』の件、何か掴めたのかい?」

鉄斎(てっさい)は、ホログラムディスプレイの前にどっかりと胡坐(あぐら)をかくと、真剣な眼差しで静馬を見つめた。その瞳からは、先ほどまでの間の抜けたような雰囲気は消え、鋭い知性の光が覗いている。これが、大御所(おおごしょ)システムのセキュリティにも精通する、サイバー浪人(ろうにん)鉄斎(てっさい)のもう一つの顔だった。

静馬も、鉄斎(てっさい)の向かいに腰を下ろし、これまでの経緯――電脳亭(でんのうてい)(ゆめ)(ゆう)との接触、狐面の男の謎めいた言葉、そして電脳(でんのう)黒船(くろふね)の襲撃、お(りゅう)との共闘――を、簡潔に、しかし要点を押さえて語り始めた。話が進むにつれて、鉄斎(てっさい)の表情は険しさを増し、太い眉がぐっと中央に寄せられていく。静馬が話し終える頃には、彼の額には深い縦皺が刻まれ、その大きな拳は固く握りしめられていた。

「……なるほどな。電脳亭(でんのうてい)(ゆめ)(ゆう)、そして電脳(でんのう)黒船(くろふね)、か。どうやら、大江戸(おおえど)シティの裏で、とんでもねえ悪党どもが動き始めてるってわけだ」

鉄斎(てっさい)は、唸るように言った。その声には、抑えきれない怒りの色が滲んでいる。

朧月(おぼろづき)の旦那、あんたもとんだ厄ネタに首を突っ込んじまったもんだな。だが、まあ、あんたらしいと言えばあんたらしいが」

彼は、そう言うと、苦笑いを浮かべた。

「それで、鉄斎(てっさい)殿。貴殿が解析しているという、その『獲物』とは一体何なんだ? 先ほど、『大御所(おおごしょ)システムに喧嘩を売ってるみてえな代物だ』と言っていたが……」

静馬は、ホログラムディスプレイに映し出された複雑なコードに視線を移しながら尋ねた。そのコードは、静馬が見たこともないような高度なアルゴリズムで構成されており、まるで生き物のように絶えず変化している。そこからは、微かに静電気のようなものが発せられ、肌がチリチリとするのを感じた。

「ああ、こいつだ」

鉄斎(てっさい)は、左手に持っていた電子基板を静馬の前に差し出した。それは、黒く焼け焦げたような跡が残る、手のひらサイズの奇妙な形状のチップだった。表面には、見慣れない紋様が刻まれ、微かに青白い光を明滅させている。

「こいつはな、数日前に、大御所(おおごしょ)システムのメインサーバーの一つに不正アクセスしようとして、セキュリティシステムに迎撃されて自爆した『何か』の残骸だ。表向きは、ただのシステムエラーとして処理されたようだが、俺ぁどうにも腑に落ちなくてな。こっそりこの残骸を回収して、解析してたのさ」

「……不正アクセス?」

静馬の眉がピクリと動いた。

「ああ。それも、ただの不正アクセスじゃねえ。こいつは、大御所(おおごしょ)システムの根幹……都市インフラの制御システムや、市民の個人情報データベースなんかが格納されてる最重要区画を狙ってたフシがある。しかも、その手口が実に巧妙で、そして悪質だ。まるで、システムの裏口を知り尽くしているかのような……」

鉄斎(てっさい)は、苦々しげに顔を歪めた。

「このチップに残された断片的なデータから推測するに、こいつは、システム内部に潜り込んで自己増殖し、特定のタイミングで一斉に誤作動を引き起こすタイプの、新型のサイバー兵器みてえなもんだ。もし、こいつの侵入が成功してたら……考えただけでもぞっとするぜ。大江戸(おおえど)シティは、一日で機能不全に陥ってたかもしれねえ」

「……電脳(でんのう)黒船(くろふね)の仕業か」

静馬は、確信に近いものを感じながら呟いた。

「おそらくはな。こんな悪趣味で、破壊的なもんを作りたがるのは、奴らくらいのもんだろうよ」

鉄斎(てっさい)は頷いた。

「問題は、奴らがどうやってこんな代物を開発し、そして大御所(おおごしょ)システムのセキュリティを突破しようとしたかだ。奴らの背後には、相当な技術力を持った組織か、あるいは……大御所(おおごしょ)システムの内部に協力者がいる可能性も考えられる」

「内部の協力者……」

静馬の脳裏に、電脳亭(でんのうてい)(ゆめ)(ゆう)の、あの狐面の男の不気味な笑みが浮かんだ。奴は、大御所(おおごしょ)システムを『退屈で息が詰まる』と言っていた。奴が、電脳(でんのう)黒船(くろふね)と手を組んでいるとは考えにくいが、何らかの形で関与している可能性は否定できない。

鉄斎(てっさい)殿、そのチップから、電脳(でんのう)黒船(くろふね)のアジトや、奴らの次の標的について、何か手がかりは掴めそうか?」

静馬は、期待を込めて尋ねた。

鉄斎(てっさい)は、うーん、と唸りながら、顎の無精髭を掻いた。

「……正直、難しいな。こいつは自爆する際に、ほとんどのデータを消去しちまってる。残ってるのは、ほんの僅かな断片だけだ。だが……」

彼は、ホログラムディスプレイに視線を戻し、そこに映し出された複雑なコードの一部を指差した。

「この部分のコード……これは、特定の周波数の電磁波を発信するビーコンのようなものだ。おそらく、電脳(でんのう)黒船(くろふね)の連中が、仲間同士で連絡を取り合ったり、あるいはターゲットをマーキングしたりするために使ってる、特殊な暗号通信システムの一部じゃねえかと思う」

「暗号通信システム……」

静馬の目が光った。

「ああ。もし、このビーコンの発信源を特定できれば、奴らのアジトの一つくらいは突き止められるかもしれねえ。だが、そのためには、このビーコンの周波数パターンを正確に解析し、それを広範囲にスキャンするための特殊な装置が必要になる。そんなもんは、そこらの店じゃ手に入らねえ代物だ」

鉄斎(てっさい)は、悔しそうに唇を噛んだ。

静馬は、しばし黙り込んだ後、懐から影蝶(かげちょう)を取り出した。

「……鉄斎(てっさい)殿。そのビーコンの周波数パターンを、この影蝶(かげちょう)に組み込むことは可能か? こいつには、広範囲の電磁波をスキャンし、発信源を特定する機能がある。ただし、そのためには正確な周波数データが必要だ」

鉄斎(てっさい)は、静馬の手の中の影蝶(かげちょう)を興味深そうに見つめ、やがてニヤリと笑った。

「……なるほどな。朧月(おぼろづき)の旦那、あんたも面白いモンを持ってるじゃねえか。よし、やってみよう。時間はかかるかもしれねえが、不可能じゃねえはずだ」

その瞳には、困難な課題に挑戦する職人のような、力強い光が宿っていた。

「頼む。その間に、俺は北斎(ほくさい)オルタの所へ行ってくる。彼女の『絵』が、何かを示してくれるかもしれん」

静馬は、力強く頷いた。

「おう、任せとけ! 必ずや、あの黒い蠅どもの巣窟を突き止めてやるぜ!」

鉄斎(てっさい)は、そう言うと、再びホログラムディスプレイに向き直り、凄まじい集中力でコードの解析作業を再開した。その背中は、まるで岩のように大きく、頼もしく見えた。

静馬は、そんな鉄斎(てっさい)の背中をしばし見つめた後、静かに立ち上がり、廃道場の出口へと向かった。

外は、相変わらず大江戸(おおえど)シティの深い夜の闇に包まれている。しかし、その闇の向こうに、反撃の狼煙を上げるための、小さな光が見え始めたような気がした。

朧月(おぼろづき)の夜は、まだ終わらない。むしろ、これからが本番なのかもしれない。

静馬の胸には、新たな決意と、そして仲間たちへの信頼感が、静かに、しかし力強く湧き上がってきていた。



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