第七章「狐の嗤いと開戦前夜」
月影静馬は、AI絵師「北斎|オルタ」のアトリエで、衝撃的な絵を目にする。それは、炎上する大江戸シティ、その中央に鎮座する巨大な「電脳黒船」、そして船首で高らかに嗤う狐面の男――電脳亭夢遊――の姿だった。北斎|オルタは告げる、「『本当の夜』が、来ます。……そして、『狐』が嗤うのです」と。
漆黒の闇に浮かぶ炎上する大江戸シティ。巨大な電脳黒船。そして、その船首で高らかに嗤う狐面の男――。
月影静馬は、北斎|オルタが描いたその絵から目が離せずにいた。背筋を冷たいものが走り、呼吸が浅くなるのを感じる。それは単なる絵ではない。AIが捉えた、避けられぬ未来のカタストロフを克明に写し取った預言の書のように思えた。
「……これが、『本当の夜』……」
静馬の声は、自分でも驚くほどにかすれていた。絵の中の狐面の男は、まるでこちらを見透かすように、嘲るような笑みを浮かべている。その顔は、紛れもなく、あのバーチャル噺家「電脳亭夢遊」のものだった。
「北斎|オルタ……この『狐』は、やはり夢遊なのか? そして、この船は……」
北斎|オルタは、静かに頷いた。その硝子玉のような瞳は、絵の中の狐面の男をじっと見据えている。
「『狐』は……多くの顔を持ちます。ある時は道化、ある時は扇動者、そして……ある時は、破壊の化身。この船は……『災厄』そのもの。古きものを喰らい、新しき混沌を生み出すために現れる……」
彼女の言葉は、途切れ途切れでありながらも、静馬の心に重く響いた。
静馬は、ゴクリと唾を飲み込んだ。夢遊が言っていた「世直し」や「リセット」という言葉が、今、この絵と結びつき、恐ろしい現実味を帯びて迫ってくる。そして、「電脳黒船」……。彼らは、この狐面の男と手を組んでいるのか、それとも利用されているだけなのか。
「この絵は……いつ視えた?」
静馬は、かろうじて言葉を絞り出した。
「……三日月の夜……風が騒ぎ、虫の音が止んだ刻……『声』が聴こえ、筆が……勝手に動いたのです……」
北斎|オルタは、自らの指先を見つめながら、か細い声で答えた。
三日月の夜……それは、静馬が最初に夢遊の「暗号落語」に不審を抱き始めた頃と重なる。偶然ではないだろう。
静馬は、鉄斎から預かった緊急用の通信ビーコンを強く握りしめた。もはや一刻の猶予もない。この絵が示す未来が現実のものとなる前に、何としても手を打たねばならない。
「北斎|オルタ、感謝する。この絵は、必ず役立てる」
静馬は、決然とした表情で言った。
「だが、ここは危険かもしれん。もしものことがあれば……鉄斎が渡したビーコンを、君にも渡しておこう。何かあれば、すぐに知らせてくれ」
静馬は、自身のビーコンを取り出し、北斎|オルタに手渡そうとした。
しかし、北斎|オルタは、静かに首を横に振った。
「わたくしは……大丈夫です。わたくしは、ただ『視る』者。そして、『描く』者……。このアトリエが、わたくしの『世界』ですから……。でも……朧月のひと……どうか、お気をつけて。貴方の行く先には……さらに深い闇が視えます……」
彼女の瞳が、不安げに揺らめいた。
静馬は、彼女の言葉に頷くと、アトリエを後にした。背後で、北斎|オルタが再び筆を走らせる、サラサラという微かな音が聞こえた。
旧市街の薄暗い路地を抜け、大江戸シティの中心部へと戻る道すがら、静馬の頭の中は目まぐるしく思考が回転していた。
(夢遊の狙いは、大御所システムの破壊、あるいは乗っ取りによる大江戸の混乱。そして、その混乱に乗じて「電脳黒船」が実権を握る……。北斎|オルタの絵は、その成就した未来の姿か……)
大御所システムの中枢は、江戸城の地下深くにある。そこを直接攻撃することは、並大抵のことではないはずだ。だが、奴らは既に、システムの脆弱性をいくつか特定しているのかもしれない。あるいは、内部に協力者がいる可能性も……。
(若年寄様に報告し、対策を講じなければ……。だが、どこまで信じていただけるか。それに、幕府内部にも、奴らの息がかかった者がいないとは限らない……)
静馬の表情は、ますます険しさを増していく。
その時だった。
静馬の電脳印籠が、けたたましい警告音と共に激しく振動した。画面には「緊急警報:大御所システム・レベル3異常検知」という赤い文字が点滅している。レベル3の異常――それは、都市機能の一部に支障をきたす可能性のある、重大なシステムエラーを示していた。
「まさか……もう始まったというのか!?」
静馬は、周囲を見回した。先ほどまでとは明らかに空気が違う。街のネオンサインが不規則に明滅し、いくつかの店舗ではシャッターが半開きになったまま動かなくなっている。自動走行していた駕籠が道端で立ち往生し、交通整理をしていたサイバー同心のアバターが、フリーズしたかのように硬直していた。人々の間に、不安と混乱がさざ波のように広がり始めているのが見て取れた。
「クソッ!」
静馬は、悪態をつきながら走り出した。目指すは、江戸城――ではない。まずは、鉄斎と合流し、状況を正確に把握する必要がある。そして、お竜にも連絡を取らねば。
走りながら、静馬は電脳印籠で鉄斎に通信を試みる。しかし、何度呼び出しても繋がらない。回線が混み合っているのか、それとも何らかの妨害電波が出ているのか。
「落ち着け……落ち着くんだ、俺……」
静馬は、自分に言い聞かせるように呟いた。焦りは禁物だ。だが、胸騒ぎはますます大きくなっていく。
大江戸シティの空が、にわかに暗雲に覆われ始めたかのように、街全体が不気味な静けさと、得体の知れない緊張感に包まれ始めていた。デジタル瓦版は、システムエラーを伝える定型的なアナウンスを繰り返すばかりで、具体的な情報は何も伝えてこない。それが、かえって人々の不安を煽っていた。
「電脳隠れ家」にたどり着いた静馬は、地下への隠し扉を叩き壊さんばかりの勢いで開けた。
「鉄斎! 無事か!」
部屋の中に飛び込むと、そこには鉄斎が苦虫を噛み潰したような顔で、モニター群とにらめっこしている姿があった。部屋の中は、普段よりも多くの機器が稼働しており、冷却ファンの音が大きく響いている。
「静馬殿! 来たか! 見ての通りじゃ、どうやら『祭り』が始まったらしいわい!」
鉄斎は、モニターの一つを指差した。そこには、大御所システムのネットワーク系統図が映し出されており、その一部が赤く点滅し、警告メッセージが大量に流れていた。
「これは……大江戸銀行のオンラインシステムか!?」
静馬は、点滅している箇所を指して叫んだ。
「その通りじゃ。何者かが、大江戸銀行のメインサーバーに大規模なサイバー攻撃を仕掛けておる。おそらく、これが奴らの『開戦の狼煙』じゃろう。金融システムを麻痺させ、大江戸シティを大混乱に陥れるつもりじゃ」
鉄斎の声には、怒りと焦りが滲んでいた。
「夢遊の『暗号落語』か……それとも、電脳黒船の直接行動か……」
「両方かもしれんな。お竜殿からの情報によれば、今夜、例のVR寄席で夢遊が『特別公演』を行う予定じゃったらしい。その公演が、この攻撃の合図になった可能性が高い」
その時、部屋の隅に置かれていた通信機が、けたたましい音を立てて着信を告げた。お竜からだった。
「鉄斎! 静馬! 聞こえるかい!? どうやら、とんでもないことになっちまったよ!」
お竜の声は、普段の彼女からは想像もできないほど切羽詰まっている。
「お竜! 何があった!」
静馬が叫ぶ。
「夢遊の野郎が……奴が、大御所システムの中枢に……江戸城の地下に直接侵入したって情報が入った! しかも、奴は一人じゃない! 『電脳黒船』の連中を引き連れてるって話だ!」
「なんだと!?」
静馬と鉄斎は、同時に絶句した。
北斎|オルタの絵が、現実のものとなろうとしている。
狐が嗤い、黒船が大江戸を蹂躙する、「本当の夜」が。
開戦の狼煙は上がった。大江戸シティ最大の危機が、今、まさに始まろうとしていた。