第六章「路地裏の休息と反撃の狼煙」
息を切らせ、背後からの追手の気配を警戒しながら、月影静馬と飛燕のお竜は、大江戸シティの複雑怪奇な路地裏を、まるで影のように駆け抜けていた。お竜の先導は的確で、その足取りは猫のようにしなやかで速い。彼女の紫色の髪が、ネオンの残光を浴びて一瞬また一瞬、毒々しい光を放っては闇に消える。静馬もまた、鍛え上げられた体躯で必死に食らいつくが、お竜の常人離れした速さには舌を巻かざるを得なかった。肺が焼けつくように痛み、脇腹には鈍い疼きが走る。先ほどの戦闘で負った頬の切り傷からは、じわりと血が滲み、鉄錆のような味が口の中に広がっていた。
「お竜、一体どこへ向かっている!」
静馬は、荒い息の下から絞り出すように尋ねた。路地裏特有の、湿った埃と生活排水の混じったような淀んだ空気が、喉にまとわりつく。
「黙ってついて来な! あたしの隠れ家の一つさ! さすがの電脳黒船の連中も、そう簡単には嗅ぎつけられやしないよ!」
お竜は、振り返りもせずに言い放った。その声には、まだ興奮の余韻が残っているのか、妙な弾みがあった。彼女の背中、大きく開いたサイバー着物から覗く胡蝶のタトゥーが、まるで生きているかのように青白い光を明滅させている。
やがて、二人は古びた木造アパートが密集する、ひときわ薄暗い一角へとたどり着いた。そこは、大江戸シティの再開発からも取り残されたような、忘れられたような場所だった。壁には蔦が絡まり、軒先からは雨だれがポツリポツリと滴り落ち、地面のぬかるみに小さな波紋を作っている。空気はひどく湿っぽく、黴とドブの匂いが混じり合って鼻を突いた。
お竜は、その中の一軒、特にみすぼらしいアパートの、錆びついた鉄製の外階段を軽やかに駆け上がると、二階の突き当たりの部屋の前に立った。ドアには、何の変哲もない、色褪せた木製の表札がぶら下がっているだけだ。しかし、彼女がドアノブに手をかけ、指先のリングに埋め込まれたマイクロチップを認証させると、カチリ、と電子ロックの解除音が微かに響いた。
「さあ、入った入った! いつまでもこんなとこに突っ立ってたら、風邪ひいちまうよ!」
お竜は、静馬を促し、自身も素早く部屋の中へと滑り込んだ。
静馬が後に続くと、そこは外観からは想像もつかないほど、機能的で、そして奇妙な生活感に満ちた空間だった。広さは六畳一間ほどだろうか。壁一面には、大小様々なモニターが所狭しと並べられ、それぞれに複雑なデータや監視カメラの映像、あるいは意味不明な文字列が映し出されている。床には、最新型のハッキングツールや自作と思われる奇妙な電子部品が雑然と転がり、その合間を縫うように、飲みかけの栄養ドリンクのボトルや、ファストフードの空き箱が散らっていた。しかし、その混沌とした状況の中にも、彼女なりの秩序があるのか、必要なものはすぐに手が届くように配置されているようだった。部屋の隅には、古びた寝袋が一つだけ無造作に置かれている。空気中には、電子部品の焼ける匂いと、お竜の愛用する電子タバコの甘ったるい煙の残り香、そして微かに彼女自身の汗の匂いが混じり合っていた。
「……ここが、あんたの隠れ家か。相変わらず、落ち着かない部屋だな」
静馬は、周囲を見回しながら、思わず苦笑した。
「うるさいね! 男の隠れ家なんて、こんなもんだろ? ま、あたしは女だけどね!」
お竜は、肩をすくめ、部屋の隅から救急キットを取り出すと、静馬の前に無造作に放り投げた。
「ほらよ、朧月の旦那。そのツラ、見ちゃいられないよ。さっさと手当てしな」
彼女はそう言うと、自身は壁際のくたびれた回転椅子にどっかりと腰を下ろし、新しい電子タバコに火をつけた。紫色の煙が、ゆらりと立ち昇る。その横顔は、先ほどの戦闘の高揚感からは一転して、どこか疲れたような、それでいて油断のない鋭さを保っていた。
静馬は、礼を言う代わりに、救急キットから消毒液とガーゼを取り出し、手早く頬の傷を手当てし始めた。消毒液が傷口に滲み、ピリリとした痛みが走るが、それすらも今の彼には心地よい刺激に感じられた。
「……それにしても、お竜。なぜ、あの場所に駆けつけた? 俺が襲われていると、どうして分かったんだ」
手当てを終えた静馬が、お竜に問いかけた。その声には、感謝と、そして拭いきれない疑問の色が混じっている。
お竜は、電子タバコの煙を細く吐き出しながら、モニターの一つに視線を向けた。そこには、先ほどまで静馬たちがいた長屋周辺の、複数の監視カメラからのリアルタイム映像が映し出されていた。黒い外套の男たちが、まだ何かを探すようにうろついているのが見える。
「……あんたとあの狐野郎が接触した後、どうにも胸騒ぎがしてね。あたしのシマで、あんたに何かあったら、寝覚めが悪いだろ? だから、ちょいとばかし『目』を光らせてたのさ。そしたら案の定、あんたの長屋の周りを、あの黒い蠅どもが嗅ぎ回り始めたってわけ」
彼女は、こともなげに言った。その瞳には、モニターの光が反射し、妖しく揺れている。
「……あの連中、やはり電脳黒船の手先か」
静馬の表情が険しくなる。
「ああ、間違いないね。奴らの使う武器、あの妙ちきりんな電磁銃は、最近奴らが好んで使ってる新型だ。威力はそこそこだが、大御所システムのセキュリティを掻き潜りやすいように、特殊なチューニングがされてるって話だ。まったく、厄介なモンを作りやがる」
お竜は、忌々しげに舌打ちした。
「夢遊……あの狐面の男は、奴らを『災厄』だと言っていた。そして、自分は奴らとは違うやり方で、この大江戸を『リセット』するとも。一体、何がどうなっているんだ……」
静馬は、こめかみを押さえながら、低く呻いた。情報が錯綜し、事態の全容が掴めないもどかしさが、彼を苛む。
「さあね。あたしに分かるのは、あの狐野郎も、電脳黒船の連中も、どっちもまともじゃねえってことくらいさ。そして、あんたは、そのどっちからも狙われる厄介な立場に立っちまったってことだ」
お竜は、静馬の顔をじっと見つめながら言った。その声には、からかうような響きはなく、真剣な色が宿っている。
静馬は、しばし黙り込んだ後、懐から影蝶を取り出した。
「鉄斎には連絡を取った。北斎オルタにも、これから会いに行くつもりだ。この件は、俺一人でどうこうできる問題じゃない。仲間たちの力が必要だ」
その声には、確かな決意が込められていた。
「……ふぅん。あの石頭の鉄斎と、引きこもりのAIお嬢ちゃんにかい。ま、いないよりはマシかもしれないけどね」
お竜は、鼻を鳴らしたが、特に反対する様子は見せなかった。
「で、あんたはこれからどうするつもりだい? あの狐野郎の『リセット』とやらが始まる前に、電脳黒船の連中を叩くのかい? それとも、両方まとめて相手にするつもりかい?」
彼女は、面白そうに問いかけた。その瞳は、まるでこれから始まる芝居の筋書きを尋ねるかのように、好奇心に輝いている。
静馬は、窓の外――そこには、相変わらず大江戸シティの眠らない夜景が広がっている――に視線を向けた。ネオンの光が、まるで巨大な生き物の呼吸のように、明滅を繰り返している。
「……まだ、何も決めていない。だが、一つだけ確かなことがある。このまま奴らの好きにさせるわけにはいかない。この大江戸を、そして、ここに住む人々を、得体の知れない『騒乱』に巻き込ませるわけにはいかないんだ」
静馬の声は低く、しかし確固たる意志が込められていた。その瞳には、朧月の夜を照らす月のような、静かで、しかし強い光が宿っている。
「……へえ。あんた、意外と青臭いこと言うんだね。ま、そういうとこ、嫌いじゃないけどさ」
お竜は、ふっと笑みを漏らした。それは、いつもの皮肉な笑いではなく、どこか温かみのある、珍しい表情だった。
「いいだろう。そこまで言うなら、あたしももう少しだけ、あんたの道楽に付き合ってやるよ。ただし、分け前はきっちり貰うからね。それと、あたしのシマを荒らした電脳黒船の連中には、きっちり落とし前をつけさせて貰う」
彼女は、そう言うと、回転椅子からすっくと立ち上がり、壁に立てかけてあった長尺の電磁ロッド――彼女の愛用の武器だ――を手に取った。その先端からは、パチパチと威嚇するような火花が散っている。
「……感謝する、お竜」
静馬は、短く礼を言った。
「礼なんていいってことよ。それより、さっさと次の手を考えな。夜明けまでは、まだ時間がある。反撃の狼煙を上げるには、ちょうどいい頃合いじゃないか?」
お竜は、窓の外の夜景を睨みつけるように見つめながら、不敵な笑みを浮かべた。その紫色の髪が、部屋のモニターの光を浴びて、まるで燃え立つ炎のように揺らめいた。
大江戸シティの深い闇の中で、二つの影が、静かに動き出そうとしていた。
騒乱の足音は、すぐそこまで迫っている。