第五十六章「虚空の核、現る」
古代ローマの神殿のような荘厳な空間は、無数の光の柱が上から下へと降り注ぎ、幻想的に照らし出されていた。中央には、巨大な水晶のような構造物が鎮座し、そこから無数の光の糸が伸び、空間全体に張り巡らされている。その光の糸は、天井から空へと、どこまでも伸びているかのようだ。土と微かなオゾンの匂いが混じり合う中、月影シズカとウァレリウスは、その空間の入口に立っていた。
「ウァレリウス殿、参りましょう。この先こそが、『虚空の意思』の真の根源。そして、羅刹が最後に求めた『神』の姿が隠されているはずです」
シズカの声は、静かに、しかし確かな決意に満ちていた。電脳小太刀を構え、彼女は一歩足を踏み出した。夜明けの光が、廃競技場の入り口から差し込み、その光は、シズカの背中を照らし出し、この帝都の運命を賭けた最終決戦の始まりを静かに見守っていた。
ウァレリウスも、羅針盤を握りしめ、シズカの後に続く。彼の顔には、疲労の色が濃く、その瞳は、緊張と、この長きにわたる戦いの終焉を予感させる光を宿していた。
通路を進むにつれて、『虚空の意思』の異音は、羅刹の『ノイズ』とは異なる、より根源的な「ざわめき」となって、シズカの脳裏に直接響いてくる。それは、まるで無数の声が重なり合ったような、しかし、どこか単一の意思を感じさせる不気味な「ざわめき」であった。そのざわめきは、シズカの精神を揺るがし、人々が忘れ去った古の記憶、感情の断片が、混沌として渦巻いているかのようだ。
その空間の中心に立っていたのは、ローブを深く被り、顔は見えない一人の人影だった。しかし、その身から放たれる気配は、かつて羅刹が崇めた『虚空の意思』そのもの。その存在は、巨大な水晶の構造物から伸びる無数の光の糸と、まるで一体であるかのようだった。その人影の周囲には、黒い粘液のような『影』の群れが蠢き、その存在を護るかのように、微かに明滅を繰り返している。
「よく来たな、月影シズカ」
その人影から発せられた声は、低く、重々しく、まるで深淵の底から響いてくるかのようであった。それは、男性でも女性でもない、超越的な、しかし確かな「意思」を感じさせる声であった。その声は、シズカの脳裏に直接響き、彼女の精神を揺るがす。
「貴様が、『虚空の意思』の、真の姿か!」
シズカは、電脳小太刀を構え、声の主を睨みつけた。その瞳には、一切の恐れはなく、ただ固い決意の光が宿っていた。
ローブを被った人影は、微かに口元を緩めたかのようだった。そのローブの隙間から、微かに光る回路のようなものが見えた。
「我々は、この世の混沌を憂い、真の秩序をもたらす者。愚かな人間は、戦乱に苦しみ、その意識は歪んでいる。我々は、彼らを『無』に帰し、新たな『神』の元で、真の『楽園』を築くのだ」
その声は、シズカの脳裏に、あの『影』の「ざわめき」と重なり合う。羅刹が語った狂信的な言葉は、この『虚空の意思』の言葉そのものであった。
「貴様らの『秩序』など、偽りだ! 人々の自由と個性を奪い、全てを管理する『楽園』など、存在しない!」
シズカは、叫んだ。彼女の言葉は、電脳小太刀から放たれる青白い光のように、空間を震わせた。
「愚か。貴様は、真実を見ようとせぬ。人は、自由を与えられれば、互いに争い、混沌を生み出す。我々がもたらす『秩序』こそが、この世を救う唯一の道なのだ」
『虚空の意思』は、そう語ると、周囲に蠢く黒い粘液のような『影』の群れが、一斉にシズカたちへと襲いかかってきた。羅刹の手の者たちが放つ『ノイズ』とは異なり、純粋な『虚空の意思』が具現化した『影』は、より迅速で執拗であった。
「月影殿! その『影』に触れてはならぬ! 意識を吸い取られるぞ!」
ウァレリウスが、羅針盤を構え、叫んだ。羅針盤の光が『影』に触れると、パチリ、と微かな音を立てて、一時的にその輝きを失う。シズカは電脳小太刀を構え、湧き出る『影』の群れへと向き合った。電脳小太刀の刃から放たれる青白い光が、『影』に触れる度に、微かに蒸気を立てて消え去る。しかし、『影』の数は圧倒的で、シズカの進路を塞ぐ。
その時、シズカの電脳印籠が激しく振動した。アヤメからの緊急通信である。
「シズカ様! 元老院の通信網が完全に遮断されました! コロッセオのホログラム映写システムが乗っ取られ、街に恐ろしい映像が流れています! 市民がパニックに陥り、街中が混乱しています!」
アヤメの声は、焦燥に満ちていた。その背景からは、市民たちの悲鳴と、混乱した声が聞こえてくる。コロッセオのホログラムが、帝都の空に混沌とした羅刹の狂気を映し出している。それは、ローマの記憶の層を歪ませ、人々を『虚空の意思』へと同化させるための、恐るべき視覚的な「ノイズ」であった。
「何だと!?」
シズカは、唇を噛み締めた。あの『虚空の意思』は、この地下空間で顕現しようとしながらも、同時に帝都の電脳網を操っているのだ。コロッセオのホログラム映写システムが乗っ取られたとなれば、その映像は、市民の意識に直接干渉し、『虚空の意思』への同化を促すであろう。羅刹が言っていた『神の御業』が、今、現実のものとなろうとしている。
シズカは、巨大な水晶の構造物を見上げた。そこから伸びる無数の光の糸は、まるで帝都の血管のように、地下深くから空へと伸び、ローマの全電脳網に接続しているかのようだ。
「ウァレリウス殿! 『真実の言霊』をこの『器』に定着させるには、どうすればよい!?」
シズカの声は、迫りくる脅威への焦燥と、この帝都を護るという固い決意に満ちていた。
ウァレリウスは羅針盤を水晶の『器』に向け、その光を一点に集中させた。羅針盤の水晶は、彼の知恵と共鳴するように、激しく輝き始める。
「『真実の言霊』は、『虚空の意思』の『核』に直接働きかける。貴様が、この言霊を『器』の深層に刻み込むのだ! そのためには、この羅針盤の共鳴を最大限に高めねばならぬ!」
ウァレリウスの声は苦痛に満ちていた。彼の額には脂汗が滲み、羅針盤を握る手が微かに震えている。羅針盤から放たれる光は、『影』の群れを一時的に退け、シズカへの道を確保していた。
その時、『虚空の意思』がローブの奥で大きく身動ぎした。その身から放たれる「ざわめき」は、これまで以上に強烈になり、シズカの精神を直接揺るがす。
「──愚かな抵抗だ。真の秩序は、お前たちには理解できぬ。全ては無に帰し、新たな神が降臨するのだ……!」
『虚空の意思』の声はシズカの脳裏に直接響き、彼女の意識を侵食しようとする。羅刹が最後に求めた『神』の姿が、今、まさに顕現しようとしていた。同時に、水晶の『器』から、無数の光の糸がシズカの全身へと猛然と襲いかかる。
(……時間が、ない……!)
シズカは歯を食いしばり、精神的な重圧に耐えた。彼女は電脳小太刀を握りしめ、ウァレリウスの羅針盤が放つ光を追うように、『器』へと向かって一歩踏み出した。
「ウァレリウス殿! 最大限の力を!」
シズカの叫びと共に、ウァレリウスは羅針盤に全霊を込めた。羅針盤の水晶が眩いばかりの光を放ち、その光が、『器』の表面に走る亀裂へと流れ込んでいく。亀裂は、光を吸い込むように、さらに深く、そして大きく広がっていく。
シズカは、その亀裂へと、電脳小太刀を突き立てた。そして、自身の内に秘められた『真実の言霊』を、心の全てを込めて放った。
──世界は、無に帰すべからず。
──記憶は、消滅すべからず。
──意識は、束縛すべからず。
──自由は、奪うべからず。
──真実の理、ここに顕現せよ。
シズカの声は、古代の神殿空間に響き渡り、光の奔流となって『器』へと吸い込まれていく。羅刹の「ノイズ」、そして『虚空の意思』の「ざわめき」が、シズカの言霊と激しく衝突し、バチバチと火花が散る。その光は、コロッセオの空に映し出された狂気のホログラムをも、一瞬だけ歪ませるかのように、帝都の電脳網全体へと拡散していく。
「な……馬鹿な……! 我々の『秩序』が……!?」
『虚空の意思』の声が、苦悶に満ちた叫びとなって響き渡った。ローブの奥の存在が、激しく身動ぎし、その身から、黒い煙のようなものが立ち上る。それは、その「意思」が、言霊によって浄化され、崩壊していく光景であった。
ギィィィィィィィィン!
『器』全体が、これまでで最も激しく揺れ動いた。観客席の残骸が崩れ落ち、土埃が舞い上がる。巨大な水晶の『器』から、眩いばかりの光が、まるで噴水のように空へと噴き上がった。その光は、不吉な「ノイズ」の異音を打ち消し、全てを浄化するかのように、夜闇を照らし出す。
「くそっ……! こんなはずでは……! 神は……!」
『虚空の意思』の声は、次第に弱まり、やがて完全に消え失せた。ローブの奥の存在も、光の粒子となって夜闇に溶け込んでいく。
廃競技場の地下空間を包んでいた光の奔流が収束し、静寂が戻る。水晶の『器』は、その輝きを失い、ただの巨大な石の塊と化していた。そこから伸びていた光の糸も、全て消え失せている。空気中には、微かに浄化されたような清々しい匂いが漂っていた。
「月影殿! やったぞ! 『虚空の意思』は完全に消失した!」
ウァレリウスが羅針盤を握りしめたまま、歓喜の声を上げた。彼の顔には疲労の色が濃く、その白髪は乱れているが、瞳には安堵と、確かな勝利の光が宿っていた。
シズカは電脳小太刀を鞘に収め、ウァレリウスに頷いた。彼女の体は疲労困憊であったが、その瞳には、帝都ローマを救った確かな達成感が宿っていた。夜空には、満月が煌々と輝き、その光は、全てを浄化したかのように、清らかに廃競技場を照らしていた。
『虚空の意思』の顕現は阻止された。しかし、この戦いは、シズカとウァレリウスに、この世界の新たな『理』を突きつけた。それは、人間がシステムに全てを委ねるのではなく、自らの意思で選択し、感情を取り戻し、真の『自由』を享受することこそが、この世界の『真実』であるという、シズカ自身の『正義』が、この世界の『理』として刻み込まれた瞬間であった。




