第五十五章「覚醒の市民と、深淵への旅立ち」
夜明けの光が、帝都ローマの街並みを鮮やかに染め上げていく。コロッセオの巨大な影は、その姿を朝日に預け、古き石畳は、露に濡れて鈍く光っていた。元老院の評定の間での報告を終え、月影シズカとウァレリウスは、安堵の息を漏らす市民たちの間を縫うように歩いていた。彼らの顔は、疲労でやつれていたが、瞳の奥には、帝都を救った確かな達成感が宿っている。しかし、シズカの心には、かすかな不安が残っていた。羅刹は消え去り、『虚空の意思』も浄化されたはずだが、羅刹が最後に語った『神』の存在、そして『虚空の意思』の深淵さは、未だ彼女の心に深く刻み込まれていた。
ウァレリウスは、羅針盤を握りしめ、夜明けの空を静かに見上げていた。その白髪は夜明けの光を浴びて一層白く輝き、瞳は遠くを見つめ、何事かを思案しているかのようだ。彼の羅針盤は、微かな光を放ち続けており、帝都の電脳網に潜む、かすかな不協和音を捉えていることを示していた。
「帝都は、見かけ上は平穏を取り戻したようだが、その奥底では、まだ『ノイズ』が蠢いている。元老院も、真の脅威を理解しておらぬ。彼らは、これを単なる電脳攻撃の残滓と考えている」
ウァレリウスの声は、静かに、しかし深い懸念を含んでいた。夜明けの清々しい空気の中、その言葉は重く響く。
「はい。羅刹は消え去りましたが、『虚空の意思』は、この帝都の記憶の層に深く根を張っています。完全に消滅したわけではありません。羅刹が語った『神』の存在も、まだ謎のままです」
シズカは、ウァレリウスの言葉に頷いた。彼女の脳裏には、羅刹が最後に浮かべた、あの虚無の瞳が蘇る。彼の狂信的な信仰は、どこから来るものだったのか。そして、その信仰の根源にあるものは、本当に消え去ったのか。
その時、シズカの電脳印籠が、微かな振動と共に、通信の着信を告げた。アヤメからの通信だ。
「シズカ様! 帝都の電脳網に、再び原因不明の『ノイズ』が検出され始めました! 廃競技場の封印作業にあたっていた兵士たちに、また体調不良が……! しかし、以前とはパターンが異なります!」
アヤメの声は、焦燥に満ちていたが、その中にわずかな困惑が混じっていた。
「何だと!?」
シズカの顔に、再び緊張の色が走った。羅刹の残滓は浄化されたはずだ。しかし、新たな『ノイズ』が発生しているという。
ウァレリウスも、アヤメの声を聞き、険しい表情を浮かべた。羅針盤の光が、一層強く明滅し始める。その光は、帝都の電脳網に潜む、新たな不協和音の発生源を指し示しているかのようだ。
「やはり……『虚空の意思』は、完全に消滅したわけではないのだな。その根源が、未だこの地に残っておる」
ウァレリウスの声には、深い諦念と、そして新たな覚悟が混じり合っていた。羅刹の残滓を浄化したはずが、また別の場所から『ノイズ』が湧き上がってきたことに、彼もまた困惑を隠せない。
「ウァレリウス殿、恐らく羅刹が、最後に何らかの『仕掛け』を残していったのでしょう。このままでは、廃競技場の封印もままなりません。私が向かいます」
シズカは、電脳小太刀を握りしめた。彼女の瞳には、夜明けの光と、そして新たな戦いへの決意が、静かに、しかし力強く宿っていた。
「待て、月影殿。羅刹が残した『仕掛け』が、単なる罠ではないかもしれぬ。『虚空の意思』は、人の意識を糧とする。羅刹の狂信的な信仰も、その『意思』によって歪められたものだとしたら……」
ウァレリウスの声には、深い懸念が込められていた。羅刹の消滅は、彼の『意思』が『虚空の意思』へと完全に吸収された結果ではないか。もしそうならば、廃競技場には、羅刹の残滓、あるいは彼の意識が、新たな『ノイズ』の源として残っている可能性がある。
シズカは、ウァレリウスの言葉に、静かに頷いた。彼女の脳裏には、羅刹が最後に浮かべた、あの虚無の瞳が蘇る。
「……分かりました。慎重に進みます」
シズカは、アヤメに、元老院の兵士たちに羅刹の手の者との交戦を避け、廃競技場の周囲を厳重に封鎖するよう指示を出した。そして、ウァレリウスと共に、再び廃競技場へと向かった。夜明けの光が、コロッセオの巨大な影を照らし出し、その光は、新たな戦いの始まりを静かに見守っていた。帝都ローマは、見かけ上は平穏を取り戻しつつあったが、その地下深く、そして人々の意識の奥底では、未だ不協和音が蠢き続けていた。
夜明けの光が、帝都の街並みを照らす中、廃競技場の地下深くに、シズカとウァレリウスは再び足を踏み入れた。羅刹が消え去ったはずの場所には、新たな『ノイズ』が蠢いていた。それは、羅刹の狂信的な意識が、この地の記憶の層と融合し、新たな形態で顕現しようとしている兆しであった。シズカの電脳小太刀は、その不協和音を打ち消すように青白い光を放ち、ウァレリウスの羅針盤もまた、新たな発生源を指し示していた。
その発生源は、競技場の中心部、かつて『虚空の意思』の『器』が鎮座していた場所の、さらに地下へと伸びる、隠された通路の奥であった。通路は、古びた石造りで、壁には、古代ローマの祭祀に使われたであろう紋様が、光ファイバーケーブルと混じり合って浮かび上がっている。その紋様からは、微かに、しかし確かに、人々の囁き声のような電子音が響いてくる。それは、喜び、悲しみ、怒り、諦め、そして絶望──羅刹の狂気によって歪められた、人々の意識の残響であった。
「これは……羅刹の『記憶』か……」
シズカは、息を呑んだ。羅刹は、自らの意識を『虚空の意思』に捧げることで、その力を増幅させようとした。しかし、その結果、彼の意識の残滓が、この地の記憶の層に深く刻み込まれ、新たな『ノイズ』の源となってしまったのだ。
ウァレリウスは、羅針盤を通路の奥へと向け、その光を一点に集中させた。羅針盤の水晶は、羅刹の記憶の残響と共鳴するように、激しく明滅し始める。
「羅刹の意識の残滓が、この通路の記憶の層を汚染している! そして、その奥には……」
ウァレリウスの声は、焦燥に満ちていた。彼の羅針盤が指し示す先には、微かに、しかし確かに、新たな『影』が蠢いているのが見えた。それは、羅刹の意識が、この地の記憶を糧とし、新たな姿で顕現しようとしている兆しであった。羅刹は、からくり武者として戦った彼の姿にも似ており、その身からは、憎悪と絶望の『ノイズ』が放たれている。
「羅刹は、自らの『神』が消え去った後も、この帝都に混沌をもたらそうとしているのか……!」
シズカは、唇を噛み締めた。羅刹の狂信的な意思は、彼の死をもってしても、この世界から消え去ることはなかったのだ。夜明けの光が、地下通路の入り口から差し込み、その光は、シズカの背中を照らし出し、羅刹の残光が蠢く地下深くへと、彼女を導いていた。
通路の最奥に、古びた石造りの扉が現れた。扉には、羅刹の意識の残滓によって歪められた紋様が、不気味に浮かび上がっている。その奥からは、羅刹の狂信的な笑い声が、途切れることなく響き渡っていた。シズカは電脳小太刀を構え、扉へと向かった。羅刹の残光が放つ『ノイズ』は、この扉を強く護っているかのようだ。彼女の瞳には、羅刹の狂気を打ち破る、確かな決意の光が宿っていた。
シズカとウァレリウスが扉に近づくと、羅刹の笑い声は一層大きくなり、狂気じみた高音へと変わっていった。それは、まるで彼自身の意識が、この記憶の層の中で無限に増殖し、歪んでいくかのようだった。扉の紋様は、その笑い声に呼応するように激しく明滅し、黒い煙のようなものが立ち上る。シズカは、電脳小太刀の刃に、己の全てを込めた。刃から青白い光が溢れ出し、紋様が刻まれた扉を照らし出す。彼女は、羅刹の意識の残滓を浄化した時と同じように、電脳小太刀を扉の紋様へと突き立てた。
「ウァレリウス殿! この扉を開きます!」
シズカは叫んだ。ウァレリウスは、羅針盤を扉の紋様へと向け、その光を一点に集中させた。羅針盤の水晶は、羅刹の意識の残滓が放つ『ノイズ』と激しく共鳴し、ウァレリウスの顔に脂汗が滲む。
「羅刹の狂信的な意思が、この扉の奥に眠る『記憶の深層』に繋がっておる! そこを突破せねば、羅刹の残滓は永久に帝都を蝕み続けるであろう!」
ウァレリウスの声は、苦痛に満ちていた。羅針盤の光が不規則に明滅し始め、扉の紋様も一層強く輝く。それは、羅刹の最後の抵抗を象徴しているかのようだった。
「──世界は、無に帰すべからず。記憶は、消滅すべからず。意識は、束縛すべからず。自由は、奪うべからず。真実の理、ここに顕現せよ。」
シズカの口から、あの『真実の言霊』が力強く紡ぎ出された。その声は、地下通路全体に響き渡り、空気を震わせる。言霊が放つ青白い光は、電脳小太刀の刃から溢れ出し、扉の紋様へと流れ込んでいく。光は、紋様内部の『ノイズ』と激しく衝突し、バチバチと音を立てながら、互いを打ち消し合うかのように明滅した。
ギィィィィィン!
扉が、軋むような悲鳴を上げて揺れた。紋様が激しく明滅し、そこから黒い煙のようなものが立ち上る。それは、羅刹の意識の残滓が、再び言霊によって浄化されていく光景であった。扉の奥からは、羅刹の狂信的な笑い声が、徐々に苦悶の叫びへと変わっていく。
「な……馬鹿な……! 神は……我らを……見捨てた、のか……!」
羅刹の苦悶の声が、地下通路全体に響き渡る。その声は、狂気と絶望に満ち、次第に弱まり、やがて完全に消え失せた。扉の紋様は、青白い光を失い、ただの古びた彫刻と化した。
ゴォォォ……。
重い音を立てて、扉がゆっくりと内側に開いた。その奥には、広大な空間が広がっていた。そこは、古代ローマの神殿のような荘厳さと、最新の電脳技術が融合した、異様な場所であった。天井は高く、無数の光の柱が上から下へと降り注ぎ、空間全体を幻想的に照らし出している。中央には、巨大な水晶のような構造物が鎮座し、そこから無数の光の糸が伸び、空間全体に張り巡らされていた。その光の糸は、天井から空へと、どこまでも伸びているかのようだ。
そして、その水晶の前に、一人の人影が立っていた。ローブを深く被り、顔は見えない。しかし、その身から放たれる気配は、かつて羅刹が崇めた『虚空の意思』そのもの。羅刹の残滓は浄化されたが、『虚空の意思』の本体は、まだこの場所で顕現しようとしているのだ。羅刹が最後に語った「神の御業」が、今、目の前に現れようとしていた。




