第五十四章「浄化の残響と、理の余波」
廃競技場の地下空間は、夜明け前の静寂に包まれていた。かつてコロッセオの地下に響き渡った『神』の咆哮は、月影シズカの『真実の言霊』によって浄化され、残されたのは、土埃と瓦礫、そして清々しいオゾンの匂いだけだった。巨大な水晶の『器』は、その輝きを失い、ただの巨大な石の塊と化している。そこから伸びていた無数の光の糸も、全て消え失せていた。天井からは、まだ微かに土埃が舞い落ち、空間全体を、まるで夢の残滓のようにぼんやりと霞ませていた。
「月影殿! やりましたぞ! 『神』は完全に消失いたしました!」
ウァレリウスが羅針盤を握りしめたまま、歓喜の声と共に駆け寄ってきた。彼の顔には疲労の色が濃く、その白髪は乱れているが、瞳には安堵と、確かな勝利の光が宿っていた。羅針盤の水晶は、もはや激しく明滅することなく、静かに清らかな光を放ち続けている。
シズカは電脳小太刀を鞘に収め、ウァレリウスに頷いた。彼女の体は疲労困憊であったが、その瞳には、帝都ローマを救った確かな達成感が宿っていた。羅刹も、『虚空の意思』も、そして『神』も、この場所にはもう存在しない。
「はい、ウァレリウス殿。終わりました。羅刹の苦しみに満ちた意識も、完全に浄化されたはずです」
シズカの声は、喉が乾ききっているかのように掠れていたが、その言葉には確かな実感がこもっていた。
その時、シズカの電脳印籠が、微かな振動と共に、通信の着信を告げた。アヤメからの通信だ。
「シズカ様! 繋がりました! 帝都全土のノイズは急速に収束しています! コロッセオのホログラムも正常に戻り、市民の混乱も鎮まりました! まさに奇跡です!」
電脳印籠から、アヤメの驚きと安堵に満ちた声が響く。彼女たちの防衛線が、間一髪で持ちこたえ、帝都が危機を脱したことがうかがえた。アヤメの背後からは、兵士たちの安堵のざわめきと、帝都が回復していく微かな電子音が聞こえてくる。
「そうか……よかった」
シズカは、心底から安堵した。羅針盤を握りしめたウァレリウスもまた、その知らせに安堵の息を漏らした。彼らの命を賭した戦いが、帝都ローマを救ったのだ。
シズカは、水晶の『器』を見上げた。そこには、もはや『神』の力は感じられない。ただ、静かなデータの流れだけが、微かに感じられる。
『神』の顕現は阻止された。しかし、この戦いは、シズカとウァレリウスに、この世界の新たな『理』を突きつけた。それは、人間がシステムに全てを委ねるのではなく、自らの意思で選択し、感情を取り戻し、真の『自由』を享受することこそが、この世界の『真実』であるという、シズカ自身の『正義』が、この世界の『理』として刻み込まれた瞬間であった。
「……終わった、のか」
ウァレリウスが、静かに呟いた。彼の声には、長きにわたる守り手としての使命を終えた感慨が込められている。
「はい。ですが、これは終わりではありません。始まりです」
シズカは、そう言いながら、地下空間を後にし、地上へと続く通路へと足を進めた。彼女の足取りは、まだ重いが、その瞳には、夜明けの光と、そして新たな未来への確かな決意が宿っていた。
ウァレリウスも、羅針盤を懐に収め、シズカの後に続いた。秋の冷たい風が、地下から地上へと吹き抜ける通路の石壁を撫でていく。遠くから聞こえる帝都の喧騒が、少しずつ、しかし確実に、本来の活気を取り戻し始めていた。
やがて、二人は廃競技場の門をくぐり、夜明けのローマの街路へと出た。東の空は、茜色から藤色、そして淡い水色へと、息をのむほど美しいグラデーションを描いている。真新しい太陽の光が、コロッセオの巨大な影を照らし出し、街の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせる。
街路には、朝早くから商人たちが荷車を運び、パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂ってくる。人々は、昨夜の混乱が収まったことに安堵し、何事もなかったかのように日常を取り戻そうとしていた。電脳端末からは、システムの復旧を告げる定型的なアナウンスが流れている。
しかし、シズカの耳には、その平穏な喧騒の中に、微かな不協和音が混じっているように聞こえた。それは、電脳網の深層から発せられる、かすかな、しかし確かに存在する「歪み」の音。羅刹は消え去った。『虚空の意思』も封じられた。そして『神』も顕現を阻止された。だが、羅刹が抱いた『神』への歪んだ信仰、そして『虚空の意思』が説いた「秩序」と「自由」の問いは、この電脳ローマ帝国の深奥に、まだ波紋を投げかけているのかもしれない。
シズカは、羅針盤を握りしめた。その水晶は、微かな光を放ち続けている。彼女の戦いは、まだ終わっていない。この電脳ローマ帝国に、真の平和と自由をもたらすために。夜明けの光の中に、シズカの新たな使命が、静かに、しかし確実に姿を現し始めていた。




