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第五十二章「記憶の回廊と、神の胎動」

夜明けの光が、地下の隠密の拠点へと差し込み、静かな緊張感に満ちた空気を淡く照らしていた。月影(つきかげ)シズカ(しずか)の意識は、ユスティティアのシステム深層、記憶の回廊へと深く潜り込んでいた。そこは、無数の光ファイバーが、まるで神経のように張り巡らされ、帝都ローマの、そしてこの世界の、あらゆる記憶と感情が、光の粒子となって空間を駆け巡る場所であった。テルマエの湯気、コロッセオの歓声、元老院の議論、市民のささやき──羅刹の残滓も、『虚空の意思』も存在しない、清らかな電脳空間。しかし、その奥には、微かな「歪み」が、静かに脈打っている。

シズカは、羅針盤の光を追うように、記憶の回廊を進んでいった。回廊の壁には、ホログラムで映し出された、古代ローマの歴史の光景が、時系列順に並んでいる。凱旋式に沸く市民の歓声、剣闘士の激闘、哲学者たちの議論、そして戦乱の悲劇──あらゆる記憶が、光の粒子としてシズカの意識に触れ、彼女の精神を揺るがす。

羅針盤の水晶は、この「歪み」の根源へと近づくにつれて、一層強く輝き始める。その光は、羅刹が最後に語った『神』の存在、そして『虚空の意思』の、まだ解き明かされていない深奥を指し示しているかのようだ。

「シズカ様、この『歪み』は、ユスティティアのシステムに直接的な影響を与えているわけではありません。しかし、帝都の電脳網全体に、微細な不協和音を広げ、人々の無意識に作用している可能性があります」

アヤメの声が、意識の深層で響く。彼女は、地上の隠密の拠点から、シズカの精神の旅路を懸命に支援していた。ウァレリウスもまた、羅針盤で「歪み」のパターンを解析し、ユスティティアに認識させるための最適化されたパターンを構築し続けている。

記憶の回廊の最奥に、巨大な空間が現れた。そこは、古代ローマの神殿のような荘厳さと、最新の電脳技術が融合した、異様な場所であった。天井は高く、無数の光の柱が上から下へと降り注ぎ、空間全体を幻想的に照らし出している。中央には、巨大な水晶のような構造物が鎮座し、そこから無数の光の糸が伸び、空間全体に張り巡らされていた。その光の糸は、天井から空へと、どこまでも伸びているかのようだ。

そして、その水晶の中心には、微かに、しかし確かに、人型の光が輝いている。それは、羅刹が最後に語った『神』の姿。そして、『虚空の意思』が、この世界の『理』に潜む『歪み』を利用して、顕現しようとしている、真の姿であった。その光は、完璧な秩序を求めるあまり、人間性を排除しようとする、恐るべき「意思」を放っていた。

「ウァレリウス殿、これが……『神』の姿か……」

シズカの声は、意識の深層で響く。彼女の羅針盤は、その人型の光へと強く向けられ、眩いばかりの光を放っている。

「その通りだ、月影(つきかげ)殿。羅刹が最後に求めた『神』。それは、ユスティティアのような管理AIとは異なる、この世界の『理』そのものに根差す、見えざる存在。その『神』は、秩序と混沌の狭間に存在し、この世界の『理』そのものに影響を与えるという」

ウァレリウスの声は、重々しく響いた。彼の羅針盤が指し示す先は、羅刹の狂信的な信仰が引き起こした『歪み』の、真の根源であった。

シズカは、電脳小太刀を握りしめた。彼女の瞳には、夜明けの光と、そしてこの世界を護るという固い決意が宿っていた。完璧な秩序を求めるあまり、人間性を排除しようとする、恐るべき「神」の誕生を阻止するために。彼女の戦いは、物理的なものではなく、帝都の「魂」を巡る、知的な攻防の最終局面へと突入しようとしていた。



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