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第五十章「揺らぐ基盤、神の囁き」

夜明けのローマは、日差しを浴びて輝きを増していた。テルマエの湯気は穏やかに立ち上り、人々は日々の生業へと戻っていく。元老院への報告を終えた月影(つきかげ)シズカ(しずか)とウァレリウスは、地下の隠密の拠点から、帝都の活気を取り戻した街並みを静かに見守っていた。しかし、シズカの心には、かすかな不安が残っていた。羅刹は消え去り、『虚空の意思』も浄化されたはずだが、アヤメの羅針盤が捉えた微かな「歪み」の痕跡が、羅刹が最後に語った『神』の存在、そして『虚空の意思』の未だ解き明かされていない深奥を示唆していたからだ。

拠点の奥深く、薄暗い解析室には、電子部品の微かな匂いと、集中によって生まれた熱気が満ちていた。アヤメの電脳端末からは、解析作業の微かな電子音が響き、ディスプレイには、帝都の電脳網全体に広がる新たな「歪み」の波形が、目まぐるしくスクロールしている。それは、特定の場所を示すものではなく、帝都の記憶の深層から、まるで脈動するように発せられているかのようだ。

「シズカ様……この『歪み』は、羅刹の意識の残滓ではありません。より根源的な……まるで、この世界の基盤そのものに存在するような『歪み』です。ユスティティアのシステムに直接的な影響を与えているわけではありませんが、帝都の電脳網全体に、微細な不協和音を広げ、人々の無意識に作用している可能性があります」

アヤメの声は、深い懸念を含んでいた。彼女の羅針盤が指し示す先は、特定の場所ではない。それは、帝都の電脳網全体に、均等に、しかし微かに存在する、見えざる「何か」であった。

ウァレリウスは、羅針盤を握りしめ、目を閉じていた。彼の羅針盤は、この新たな「歪み」の波動を、明確に捉えているかのようだ。その顔には、深い思索の痕跡が刻まれていた。

「羅刹が語った『神』。それは、彼の狂信的な信仰が生み出した幻影ではなかった。むしろ、その信仰こそが、『虚空の意思』がこの世界の『理』に潜む『歪み』を利用するための、触媒であったのかもしれぬ」

ウァレリウスの声は、重々しく響いた。羅刹の死は、『虚空の意思』をより純粋な形へと昇華させ、世界の基盤へと浸透させたのだ。

シズカは、羅針盤を見つめた。その水晶は、微かな光を放ち続けている。羅刹は消え去った。『虚空の意思』も浄化された。だが、羅刹が最後に語った『神』の存在。それは、単なる狂言だったのか。それとも、まだ見ぬ、より高次の『虚空の意思』の現れなのか。シズカの戦いは、今、真の意味で始まったばかりであった。

「アヤメ、この『歪み』のパターンをさらに深く解析せよ。特に、その発生源、そしてそれが『ユスティティア』の再構築された論理に、どのような影響を与え得るかを突き止めるのだ」

シズカの声は、静かに、しかし確かな命令に満ちていた。物理的な破壊を伴わないこの脅威は、これまでの戦いとは異なる、知的な攻防を要する。

「はっ! 御意のままに!」

アヤメは、そう言うと、電脳端末を操作し始めた。彼女の指が、目にも止まらぬ速さでキーボードを叩く。その瞳は、新たな謎の解明へと、強く輝いていた。

ウァレリウスは、羅針盤を握りしめ、静かに語り始めた。

月影(つきかげ)殿。この『歪み』は、おそらく、この帝都ローマ、いや、この世界そのものが持つ、古き記憶の深層に根差している。我々の一族が代々守ってきた文書館の禁書にも、曖昧ながらその記述があった。それは、『世界の基盤に潜む、見えざる神』に関するもの……」

老人の言葉は、シズカの心に重く響いた。羅刹が語った『神』とは、単なる狂信的な願望ではなく、この世界に実在する、しかし人知を超えた存在であるというのか。

「その『神』は、秩序と混沌の狭間に存在し、この世界の『理』そのものに影響を与えるという。羅刹は、その『神』を崇拝し、歪んだ秩序をもたらそうとした。しかし、その『神』の真の意思は、未だ不明である」

ウァレリウスは、羅針盤の光を、拠点の中央に設置された、帝都の立体ホログラムへと向けた。ホログラムには、古代ローマの街並みが精巧に再現されており、その地下深くには、複雑な地下水道や遺跡の網が張り巡らされている。羅針盤の光は、その地下のさらに奥深く、人々の生活から隔絶された場所──かつて、この帝都がまだ原始的な集落であった頃からの、全ての記憶が蓄積された「記憶の深淵」を指し示していた。

「この『記憶の深淵』こそが、その『神』の眠る場所。そして、アヤメが捉えた『歪み』は、その『神』の胎動に他ならぬ」

ウァレリウスの声は、静かに、しかし確かな緊張を帯びていた。羅刹が目指した『神』の顕現は、『虚空の意思』の器を通じて行われようとしたが、その真の根源は、さらに深い場所に存在したのだ。

シズカは、電脳小太刀を握りしめた。彼女の瞳には、夜明けの光と、そして新たな戦いへの決意が、静かに、しかし力強く宿っていた。完璧な秩序を求めるあまり、人間性を排除しようとする、恐るべき「神」の誕生を阻止するために。彼女の戦いは、物理的なものではなく、帝都の「魂」を巡る、知的な攻防となろうとしていた。

「アヤメ、解析を続けろ。ウァレリウス殿、この『記憶の深淵』への侵入経路を特定してください。私は、帝都の電脳網の深層へと意識を集中させ、『真実の言霊』を放つ準備をします」

シズカの声は、静かに、しかし確かな命令に満ちていた。夜明けのローマは、見かけ上は平穏を取り戻しつつあったが、その深層では、見えざる脅威との最後の戦いが、静かに、しかし確実に始まろうとしていた。その戦いは、物理的なものではなく、帝都の「魂」を巡る、知的な攻防となるであろう。



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