第四章「朧月の密議と騒乱の足音」
月影静馬は、からくり長屋の薄闇の中、しばし呆然と立ち尽くしていた。VRゴーグルを外した顔には、現実世界の行灯の頼りない光がまだらな影を落とし、先ほどの狐面の男との不可解な邂逅の残滓が、重くのしかかっているようだった。部屋に満ちる春の夜の湿った空気と、遠くで鳴く初蛙の声が、やけに現実感を伴って五感を刺激する。
(……電脳亭夢遊、いや、あの狐面の男。奴は何者だ? そして、「電脳黒船」とは……)
静馬の脳裏には、疑問符が渦巻いていた。あの男の言葉は、単なる狂言か、それとも恐るべき計画の予兆なのか。どちらにせよ、座して待つわけにはいかない。彼は深呼吸一つで思考の混乱を振り払い、電脳印籠を取り出すと、慣れた手つきで暗号化された通信回線を開いた。まずは、情報屋のお竜だ。
呼び出し音が数回鳴った後、やや不機嫌そうな、しかしどこか甘ったるいお竜の声が印籠から響いた。背景には、相変わらず騒がしい電子音楽と、何かのゲームの効果音のようなものが微かに聞こえる。
「……んだよ、朧月様。こんな夜更けに何の用だい。あたしは今、大事な『お仕事』の真っ最中なんだからね」
声は少し掠れ、電子タバコの煙を吐き出すような息遣いが混じっている。
「夢遊に会ってきた。奴からあんたに伝言だ。『借り』は近いうちに返しに来る、とさ」
静馬は、手短に告げた。
一瞬の沈黙。そして、印籠の向こうから、お竜がカタン、と何かを置く音が聞こえた。背景の騒音が少し遠のく。
「……あの野郎、あたしに何の『借り』があるってんだい。まさか、あんたに何か吹き込んだんじゃあるまいね?」
お竜の声には、先ほどまでの軽薄さが消え、鋭い警戒の色が滲んでいた。その変化に、静馬は眉をひそめる。
「奴は、あんたが『余計なことまで喋った』と言っていた。電脳黒船の名を俺に教えたことだろう。どうやら、あの狐面の男も、あの連中とは浅からぬ因縁があるらしい」
静馬は、わざと鎌をかけるように言った。
「……チッ、あのクソ狐が。余計なことしやがって」
お竜の舌打ちが、印籠越しにもはっきりと聞こえた。その声には、隠しきれない焦燥感が漂っている。
「いいかい、朧月様。あの電脳黒船ってのは、あんたが思ってる以上にヤバい連中だよ。あたしも詳しくは知らねえが、奴らは『大御所システム』そのものをハッキングして、この大江戸シティをひっくり返そうとしてるって噂だ。しかも、そのやり方がえげつない。まるで、祭りを楽しむみてえに、破壊と混乱を撒き散らすんだとさ」
お竜の声は早口になり、普段の彼女からは想像もつかないほどの緊迫感を帯びていた。
「夢遊も、奴らを『災厄』だと言っていた。だが、奴自身も『世直し』と称して、この大江戸を『リセット』しようと企んでいる。奴の言う『リセット』とは、一体何のことだ?」
静馬は、畳み掛けるように問い詰めた。
「……リセット、ねえ。さあね、あたしに分かるもんかい。ただ、あの狐野郎がやるこった。ろくなことじゃねえのは確かだろうよ。あいつは、昔からそういう奴さ。自分の『美学』のためなら、平気で他人を巻き込む。あんたも、せいぜい気をつけるこったね。あの狐に化かされるんじゃねえよ」
お竜は、吐き捨てるように言った後、ふう、と長い息を吐いた。
「……とにかく、電脳黒船の件は、あんまり深入りしない方がいい。あんたの腕は買うけどね、相手が悪すぎる。奴らは、そこらのサイバー浪人とはワケが違う。背後に、もっとでかい何かがいるって話だ」
「でかい何か、か……」
静馬は、顎に手をやり、しばし考え込んだ。お竜がここまで言うからには、相当な情報を持っているか、あるいはよほど危険な筋からの情報なのだろう。
「今日のところは、これくらいにしときな。あたしも、ちょいとばかり野暮用ができたんでね。……例の『借り』の件、あの狐野郎が本当に返しに来やがったら、ただじゃおかねえからな」
そう言うと、お竜は一方的に通信を切った。印籠の画面が暗くなり、部屋には再び静寂が戻る。
静馬は、印籠を握りしめたまま、しばし目を閉じていた。お竜の言葉が、重く頭の中に響いている。電脳黒船、そして夢遊の企む『リセット』。二つの巨大な影が、この電脳江戸に迫っている。
(……一人で抱え込める問題ではなさそうだな)
静馬は、やおら立ち上がると、長屋の隅に置かれた年代物の文箱から、数枚の和紙と筆を取り出した。そして、流れるような筆致で、仲間たちへの連絡文を書き始めた。まずは、サイバーセキュリティの専門家であり、元武官の電脳浪人・鉄斎だ。彼の豪放磊落な性格と、いざという時の冷静な判断力は頼りになる。
『鉄斎殿。朧月より急ぎの報あり。例の『暗号落語』の件、想像以上の深みにはまりそうだ。近々、一献酌み交わしながら、貴殿の知恵を拝借したい。場所はいつもの『電脳隠れ家』にて。影蝶を飛ばすゆえ、よしなに計らわれたし』
次に、AI絵師「北斎|オルタ」。彼女の描く予知夢のような絵が、これまでも何度か事件解決の糸口となってきた。
『北斎|オルタ様。近頃、大江戸の空に不穏な影が見え申す。貴女様の『筆』が、その影の形を捉えてくだされば幸い。近いうちに、新作の『絵』を拝見しに参上つかまつる』
静馬は、書き上げた二通の文を、それぞれ特殊な暗号処理を施した小さなデータカプセルに封入した。そして、懐から再び「影蝶」を取り出すと、その背にある微細なスロットに、鉄斎宛のカプセルを慎重にセットした。
「行け、影蝶」
静馬が低く命じると、影蝶は黒曜石の翅を一度大きく羽ばたかせ、音もなく部屋の闇に溶け込むように飛び去っていった。その姿は、まるで本物の夜の蝶のようだ。
残る一通、北斎オルタ宛のものは、彼女のアトリエ――「大御所システム」の監視を逃れた、旧市街の廃墟ビルの一室――に直接届ける必要がある。彼女は極度に人見知りであり、電子的な通信を好まないのだ。
静馬は、電脳小太刀を再び腰に差し、作務衣の襟を正した。窓の外を見やると、大江戸シティのネオンは相変わらず煌々と輝いているが、その光の向こうに、得体の知れない巨大な闇が口を開けているような気がした。
狐面の男が言った「本当の朧月の夜」。それは、もうすぐそこまで来ているのかもしれない。
その時、ふと、静馬の研ぎ澄まされた聴覚が、長屋の外から聞こえてくる微かな異音を捉えた。それは、規則的な靴音のようでもあり、また、何か重いものを引きずるような音のようでもあった。そして、その音は、間違いなくこの長屋に近づいてきている。
(……誰だ?)
静馬の全身に緊張が走る。豆吉に仕掛けさせた侵入検知からくりは、まだ作動していない。つまり、相手は通常の物理的な侵入者ではない可能性が高い。
彼は、息を殺し、障子の隙間からそっと外の様子を窺った。
月明かりとネオンの反射光が入り混じる薄闇の中に、複数の人影が見えた。その影は、一様に黒い外套のようなものを身にまとい、顔はフードで深く隠されている。そして、その手には……。
静馬は息を呑んだ。彼らが手にしているのは、旧式の火縄銃に似た形状の、しかし明らかに電磁的なエネルギーをチャージしているかのような青白い光を放つ、見慣れない武器だった。
(まさか……電脳黒船の連中か!?)
狐面の男との接触、そしてお竜との通信。何かが、彼らの注意を引いてしまったのかもしれない。
騒乱の足音は、もう静馬のすぐそこまで迫っていた。