第三章「楽屋裏の狐と黒船の影」
大江戸シティの夜は、月影静馬が情報屋お竜のアジトを後にしてからも、その喧騒の度合いを深めていた。けばけばしいネオンの光は、湿った春の夜気に滲んで妖しい光彩を放ち、道行く人々の顔をサイケデリックに照らし出す。静馬は、懐に仕舞ったお竜のデータチップ――指先で触れると、微かに温かい――の感触を確かめながら、人波を避け、裏路地の闇から闇へと身を滑らせていた。目指すは、自身のからくり長屋。まずは、あのバーチャル噺家「電脳亭夢遊」の『楽屋裏』へ潜入するための準備を整えねばならない。
長屋に戻った静馬は、まず豆吉に「誰が来ても居留守を使え」と厳命し、部屋の入り口には自作の簡易な侵入検知からくりを仕掛けた。障子を閉め切り、行灯の光量を落とすと、部屋はまるで深海のような静けさと薄闇に包まれる。彼は座卓の前に胡坐をかき、懐からデータチップを取り出すと、愛用の「電脳印籠」――手のひらサイズの黒漆塗りの端末――に接続した。印籠の側面にある小さなスロットにチップを差し込むと、画面に微かな光が灯り、複雑な文字列が高速でスクロールし始める。
「……お竜の奴、相変わらず仕事は雑だが、腕は確かだな」
静馬は、表示されたアクセスキーと招待コードを慎重に確認しながら呟いた。それは、通常のVRゴーグルではアクセスできない、VR寄席「電脳笑福亭」のシステム深層部――いわばデジタルな裏口――へと繋がる鍵だった。彼は深呼吸を一つし、自身のVRゴーグルを装着すると、意識を再びサイバー空間へとダイブさせた。
視界がノイズに包まれ、次の瞬間、静馬のアバターは、先ほどまでいた華やかな寄席の客席ではなく、無機質で薄暗い、だだっ広い空間に立っていた。そこは、無数の光ファイバーケーブルが剥き出しのまま床や壁を這い回り、サーバーラックが墓石のように整然と立ち並ぶ、巨大なデータセンターのような場所だった。空気はひどく乾燥しており、微かにオゾンの匂いがする。そして、絶え間なく響くのは、サーバーの冷却ファンの低い唸り声と、データの流れる微かな電子音――まるで無数の虫が囁き合っているかのような、不気味なサウンドスケープ。
「ここが……『楽屋裏』か。表の賑わいとは大違いだな」
静馬は、周囲を警戒しながら呟いた。彼の町人風アバターは、この無機質な空間ではひどく場違いに見える。お竜のデータチップに入っていた情報によれば、この空間のどこかに、夢遊のアバターが待機し、公演の準備を行うプライベートチャンネルへの接続ポイントがあるはずだ。
静馬は、壁に表示された微かなガイドマーカーを頼りに、ケーブルの束を避け、サーバーラックの間を縫うようにして進んでいく。時折、頭上をセキュリティドローンと思しき黒い影が高速で通り過ぎ、その度に静馬は素早く身を隠した。冷や汗が、現実の彼の額を伝うのを感じる。これは遊びではない。もしここでシステム管理者に発見されれば、最悪の場合、彼の意識データそのものが捕捉され、「電脳打ち首」に処される危険性すらあった。
しばらく進むと、不意に目の前が開け、小さな円形のプラットフォームが現れた。その中央には、狐の面を模した奇妙なデザインのコンソールが、青白い光を放って鎮座している。コンソールの表面には、複雑な紋様が刻まれ、まるで生きているかのように明滅を繰り返していた。
「これか……夢遊のプライベートチャンネルへの入り口というのは」
静馬は、コンソールに近づき、お竜から得た招待コードを慎重に入力した。指先が微かに震える。コードが認証されると、狐の面の目がカッと紅く光り、プラットフォームの中央に渦を巻くような光のゲートが出現した。ゲートの向こうからは、微かに三味線の音と、誰かの話し声が聞こえてくるような気がする。
静馬は一瞬ためらったが、意を決して光のゲートへと足を踏み入れた。
途端に、視界が再びホワイトアウトし、次に目を開けた時、彼は畳敷きの、行灯の柔らかな光に照らされた静かな和室に立っていた。部屋の中央には火鉢が置かれ、鉄瓶から湯気が立ち昇っている。壁には掛け軸が飾られ、床の間には季節の花が生けられていた。先ほどまでの無機質なデータセンターとは打って変わって、そこはまるで高級料亭の一室のような、落ち着いた雰囲気の空間だった。しかし、どこか作り物めいた、現実感の希薄な印象も受ける。
「……よく来たねえ、朧月の旦那。いや、今はしがないからくり師の静馬さん、だったかな?」
部屋の奥、上座に置かれた大きな座布団の上で、一人の男が静馬に背を向けたまま、三味線を爪弾いていた。その声は、先ほど高座で聞いた電脳亭夢遊の声そのものだった。男は、高座で着ていた髑髏柄の派手な羽織ではなく、渋い鼠色の着流しを身にまとっている。銀髪は変わらず総髪に結い上げられ、その横顔は、紅の伊達眼鏡を外しているせいか、高座での伊達男風の印象とは異なり、どこか怜悧で、底知れない深みを感じさせた。
男は、三味線を弾く手を止め、ゆっくりと静馬の方を振り返った。その顔には、やはり狐の面がつけられていた。ただし、高座でつけていた派手なものではなく、能面のような、無表情で白い狐の面だ。面の目の部分はくり抜かれ、そこから覗く鋭い瞳が、静馬を射抜くように見つめている。
「お竜の姐さんから話は聞いてるよ。あんたが、あたしの『落語』にちょいとばかし興味をお持ちだってね」
夢遊――あるいは狐面の男――は、面白そうに唇の端を歪めた。その声には、高座の時のような軽薄さはなく、落ち着いた、それでいてどこか相手を試すような響きがあった。
「……単刀直入に聞こう。あんたは一体何者だ? そして、あの『暗号落語』は何を意味する?」
静馬は、動揺を悟られぬよう、努めて平静な声で問いかけた。しかし、その心臓は早鐘のように打っている。目の前の男からは、得体の知れない、強大なプレッシャーを感じた。
狐面の男は、くつくつと喉の奥で笑った。その笑い声は、部屋の静寂に不気味に響き渡る。
「何者、ねえ……。しがないバーチャル噺家さ。ただ、ちょいとばかし『世直し』に興味があってね。今の大御所システムが作り上げたこの大江戸シティは、あまりにも退屈で、息が詰まっちまう。だから、ほんの少しだけ、刺激的な『お噺』を世に送り出してやろうと思ったのさ」
「『世直し』だと? あんたの言う『お噺』が、大江戸に混乱を招いている自覚はあるのか」
静馬の声に、怒りの色が混じる。
「混乱? 人聞きの悪いことを言うなよ、朧月の旦那。あたしはただ、眠っている連中の目を覚まさせてやろうとしてるだけさ。あんたも本当は気づいてるんだろ? この電脳江戸の『安泰』がいかに脆く、そしていかに多くの犠牲の上に成り立っているかってことを」
狐面の男は、静馬の言葉を鼻で笑った。その瞳は、静馬の心の奥底まで見透かしているかのようだ。
「……電脳黒船とは、どういう関係だ」
静馬は、核心に迫る質問を投げかけた。
その名を聞いた瞬間、狐面の男の纏う空気が変わった。それまでの余裕のある態度は消え、面の奥の瞳が、氷のように冷たい光を帯びる。部屋の温度が数度下がったかのような錯覚を覚えた。
「……お竜の姐さん、余計なことまで喋ったようだな。あの女狐め、いずれ灸を据えてやらねばなるまい」
男は、忌々しげに呟いた。その声には、隠しきれない怒気が含まれている。
「奴らは……『電脳黒船』は、この大江戸に、いや、この国に災厄をもたらす。奴らの目的は『世直し』などという生易しいものではない。破壊だ。純粋な、そして無意味な破壊だ」
狐面の男は、静馬から視線を外し、窓の外――そこには、現実の江戸の夜景ではなく、無数のデータが明滅する抽象的なサイバー空間が広がっている――を見つめながら言った。その声には、深い絶望と、そして抑えきれない怒りが込められているように聞こえた。
「では、あんたは奴らと敵対していると?」
静馬は、意外な言葉に僅かに目を見開いた。
「敵対……そうだな。奴らのやり方は、あたしの『美学』に反するんでね。あたしは、この腐った大江戸を、もっとスマートに、もっと面白く『リセット』したいのさ。奴らのような野蛮なやり方ではなくね」
狐面の男は、再び静馬に向き直り、不気味な笑みを浮かべた。その白い狐の面は、行灯の光を受けて、まるで生きているかのように表情を変える。
「……あんたの言う『リセット』とは、具体的に何を指す」
静馬は、警戒を解かずに問い詰める。
「さあね。それは、これからのお楽しみってやつだ。だが、一つだけ教えておいてやろう、朧月の旦那。あんたが追っている『騒乱の種』は、もうじき花開く。そして、その時、この大江戸は、本当の『朧月の夜』を迎えることになるだろうよ」
そう言うと、狐面の男はすっと立ち上がり、静馬に背を向けた。
「今日のところは、これでお開きだ。あんまり長居すると、こっちのセキュリティシステムがうるさくてね。お竜の姐さんには、よろしく伝えておいてくれ。『借り』は近いうちに返しに来る、とね」
次の瞬間、狐面の男の姿が、まるで陽炎のように揺らぎ始めた。そして、静馬が瞬きをする間に、その姿は忽然と消え失せていた。部屋には、微かに残る三味線の残響と、鉄瓶の湯気を立てる音だけが残された。
静馬は、しばし呆然とその場に立ち尽くしていたが、やがて我に返り、周囲を鋭く見回した。しかし、男の気配はどこにも感じられない。まるで、初めから何もなかったかのように。
(……狐に化かされた、というわけか)
静馬は、苦々しげに呟きながら、VRゴーグルを外した。現実の長屋の部屋は、先ほどと何も変わらない静けさに包まれている。しかし、彼の胸中は、先ほどの狐面の男との不可解な会話によって、大きく揺さぶられていた。
「騒乱の種が花開く」……「本当の朧月の夜」……。
あの男の言葉は、一体何を意味するのか。そして、「電脳黒船」とは何者なのか。
静馬は、再び電脳小太刀を手に取った。その刃に映る自分の顔は、いつになく険しい。
夜はまだ深い。そして、大江戸シティに迫る本当の闇は、これからその姿を現そうとしていた。