第三十八章「アヤメの進言、帝都の闇」
夜明けのローマは、平穏を取り戻しつつあった。テルマエの湯気は穏やかに立ち上り、人々は日々の生業へと戻っていく。しかし、月影シズカの電脳印籠は、依然として微かな「ノイズ」の波紋を捉えていた。それは、元老院への報告を終えた彼女が、地下の隠密の拠点へと戻る道すがら、街の電脳網の深層から聞こえてくる、かすかな不協和音であった。
拠点に戻ると、アヤメが電脳端末を操作しながら、シズカの到着を待っていた。彼女の顔には、夜通しの疲労が色濃く残っていたが、その瞳は、新たな情報への探求心に燃えている。
「シズカ様、おかえりなさいませ。元老院への報告、お疲れ様でした。しかし、この『ノイズ』の波形……元老院の兵士たちが廃競技場から撤退したにも関わらず、以前よりも複雑なパターンを示しています」
アヤメの声は、深い懸念を含んでいた。彼女の電脳端末のディスプレイには、ローマ全土の電脳網に広がる「ノイズ」の新たなパターンが、まるで蜘蛛の巣のように複雑に絡み合い、蠢いているのが表示されている。
シズカは、電脳印籠をアヤメの端末に接続した。彼女の羅針盤もまた、この新たな「ノイズ」の発生源を指し示しているかのようだ。その発生源は、特定の場所を示すのではなく、帝都全域の電脳網の深層に、均等に、しかし微かに存在している。
「羅刹の残滓は完全に浄化されたはずだ。ならば、この新たな『ノイズ』は……」
シズカは、静かに呟いた。羅刹の狂信的な意思は消え去った。しかし、『虚空の意思』がこの帝都に遺した『神』への歪んだ信仰、そして「秩序」と「自由」を巡る問いは、まだ解決されていないのかもしれない。
アヤメは、ディスプレイの特定の箇所を指差した。
「シズカ様、このパターンを見てください。これは、元老院が運用している、帝都の治安維持システム『ユスティティア』の基幹コードと酷似しています」
シズカの瞳に、緊張の色が走った。『ユスティティア』は、帝都の電脳網の監視、市民の行動予測、そしてからくり軍団の制御を司る、ローマ帝国最大のAIシステムだ。それが、『虚空の意思』の『ノイズ』と酷似しているというのか。
「まさか……『虚空の意思』が、『ユスティティア』に侵食を始めたとでも言うのか!?」
シズカの声は、驚きと焦燥に満ちていた。もしそれが事実ならば、帝都の秩序そのものが、見えない脅威によって操られてしまう。
アヤメは、静かに首を振った。
「断言はできません。しかし、この『ノイズ』は、『ユスティティア』のシステムが通常時には検出しない微細な歪みであり、それが帝都の電脳網全体に、まるで波紋のように広がっているのです」
ウァレリウスは、羅針盤を握りしめ、アヤメのディスプレイを覗き込んだ。彼の顔には、新たな真実を目の当たりにした者の、深い困惑と、懸念が混じり合っていた。
「これは……『虚空の意思』が、自らの姿を変え、新たな形で顕現しようとしている兆候かもしれぬ。羅刹の狂信的な意識が消滅したことで、その『意思』が、より巧妙な手段で、この帝都に根を下ろそうとしているのだ」
ウァレリウスの声は、重々しく響いた。彼の言葉は、シズカの脳裏に、羅刹が最後に語った『神』の言葉を蘇らせる。
シズカは、電脳小太刀を握りしめた。彼女の戦いは、終わっていなかったのだ。羅刹という明確な敵は消え去ったが、今、彼女が直面しているのは、姿なき、そして帝都の秩序そのものに潜む、より根深い脅威であった。夜明けの光が、地下の隠密の拠点へと差し込み、その光は、シズカの新たな使命を静かに照らし出していた。
「アヤメ、この新たな『ノイズ』のパターンを、徹底的に解析せよ。そして、その発生源、そして『ユスティティア』との関連性を突き止めるのだ」
シズカの声は、静かに、しかし確かな命令に満ちていた。
「はっ! 御意のままに!」
アヤメは、そう言うと、電脳端末を操作し始めた。彼女の指が、目にも止まらぬ速さでキーボードを叩く。その瞳は、新たな謎の解明へと、強く輝いていた。
シズカは、ウァレリウスと共に、新たな脅威が潜む帝都の電脳網へと、その意識を集中させた。夜明けのローマは、見かけ上は平穏を取り戻しつつあったが、その深層では、新たな戦いの火蓋が切って落とされようとしていた。




