第三十六章「幕府の動揺と静馬の予感」
夜明けの光が、江戸城の白壁を淡く染め上げ、その威容を際立たせていた。朝露に濡れた石畳は、太陽の光を反射してキラキラと輝き、辺りには清々しい土の匂いが漂う。しかし、その清浄な空気とは裏腹に、江戸城の奥、若年寄柳生十兵衛が執務を執る部屋には、張り詰めた緊張感が満ちていた。静馬が、昨夜の出来事を報告し終えたばかりだったのだ。
「……なるほど。つまり、超高度統治支援AI『大御所システム』を『初期化』し、新たな『神』を降臨させようと企んでいたと……。そして、その背後には、『電脳黒船』なる謎の勢力が存在すると申すか……」
柳生の声は、普段の冷静沈着な様子とは打って変わって、微かに震えていた。彼の顔は、夜通しの緊張と、そして静馬の報告がもたらした衝撃によって、青白くやつれている。上質な絹の着流しは、夜着のままで、その乱れた襟元からは、彼の心の動揺がうかがえた。彼の手元に置かれた茶碗からは、湯気が立ち上っているが、その茶は一口もつけられていない。
「はっ。その通りにございます。奴らは、『虚空を喰らうもの』なる存在を『新たな神』として崇め、この大江戸を、いや、この世界を『再構築』しようと企んでおりました」
月影静馬は、疲労困憊の体で、しかし背筋を伸ばし、毅然とした態度で答えた。彼の作務衣は、泥と埃で汚れ、ところどころ破れているが、その瞳には、夜明けの光のような強い意志が宿っている。頬に残る切り傷が、朝の光に照らされて微かに赤く光る。
「『虚空を喰らうもの』……。それは、古くから語り継がれてきた『神話』に登場する存在ではないか……。まさか、それが現実のものとなるとは……」
柳生は、信じられないものを見たかのように、頭を抱えた。その声には、幕府の最高責任者としての重圧と、そして未知の脅威への畏怖が混じり合っていた。
「『電脳亭夢遊』は、その『儀式』のための『触媒』として、人々の『意識』を誘導しておりました。そして、『電脳黒船』は、その『降臨』のための『舞台』を整えていたものと思われます」
静馬は、淡々と報告を続けた。彼の脳裏には、北斎|オルタの描いたあの禍々しい絵──『虚空の眼差し』──が鮮明に蘇っていた。
「……しかし、貴様は、それを一人で食い止めたと申すか……。いや、貴様と、その仲間たちが、か」
柳生は、静馬をじっと見つめた。その瞳には、驚きと、そして深い感嘆の色が滲んでいた。
「はっ。電脳浪人・鉄斎、そして情報屋飛燕のお竜の助力がなければ、成し得ませんでした」
静馬は、仲間たちの名を挙げ、深々と頭を下げた。
「うむ。今回の貴様の功績は、幕府として最大限に評価する。貴様には、引き続きこの件の調査を命ずる。特に、『電脳黒船』の真の目的、そして『虚空を喰らうもの』の『再来』を阻止するための方法を突き止めるのだ。幕府も、この件を重く受け止め、早急に対策を講じるであろう。貴様には、そのための先陣を切ってもらいたい」
柳生の声は、再び冷静さを取り戻し、重い決意が込められていた。彼の瞳には、この未曽有の危機に立ち向かおうとする、幕府の最高責任者としての覚悟が宿っている。
「はっ! 承知いたしました!」
静馬は、力強く応じた。彼の胸には、新たな使命感が燃え上がっていた。
「それと、今回の貴様の功績は、幕府として最大限に評価する。貴様と、その仲間たちには、相応の褒美を用意する故、後日、改めて登城せよ」
「恐悦至極に存じます」
静馬は、深々と頭を下げた。
通信を終え、静馬は顔を上げた。部屋の障子からは、夜明けの光が差し込み、彼の疲れた顔を優しく照らしている。遠くからは、朝市を準備する人々の賑やかな声が聞こえてくる。それは、まるで何事もなかったかのような、この電脳江戸の日常を象徴しているかのようだった。
(……『新たな神』……そして、『虚空を喰らうもの』の『再来』か……)
静馬の脳裏には、夢遊の言葉が繰り返し蘇っていた。奴は、最後に「あたしの『物語』は、まだ終わらない」と言い残して消えた。それは、単なる捨て台詞ではないだろう。
静馬は、窓の外を見上げた。東の空は、既に淡い水色に染まり、太陽がその姿を現し始めていた。しかし、彼の瞳には、その光の向こうに、まだ見えぬ「闇」が横たわっているのが感じられた。それは、北斎|オルタが言っていた「まだ消えていない闇」なのだろうか。
その時、静馬の研ぎ澄まされた感覚が、微かな異音を捉えた。それは、風の音でも、街のざわめきでもない。まるで、遠くで、何かが蠢いているかのような、不気味な音だった。それは、彼の脳裏に響く『虚空を喰らうもの』の『声』の残響と、どこか似ている。
静馬は、顔を上げた。夜明けの光に包まれた空に、微かに、しかし確かに、新たな「影」が、まるで墨を流したかのように、ゆっくりと広がり始めているのが見えた。それは、西の空に現れたあの「影」とは異なる、もっと小さく、しかしより緻密で、そして不吉な「影」だった。その「影」からは、微かに、しかし確実に、不協和音のような電子音が聞こえてくるような気がした。それは、大御所システムのネットワークとは異なる、未知のプロトコルが発する音のように感じられた。
(……これは……)
静馬の全身に、緊張が走る。彼の疲労困憊の顔に、再び険しい表情が浮かんだ。
「まだ、終わらない……」
静馬は、静かに呟いた。その瞳には、夜明けの光と、そして新たな戦いへの決意が、静かに、しかし力強く宿っていた。
朧月の夜は、終わりを告げた。
しかし、新たな夜明けが、今、まさに始まろうとしていた。
そして、その夜明けの光の中に、彼らの新たな戦いが、静かに、しかし確実に姿を現そうとしていた。




