第二十九章「真実の残響と古の鍵」
北斎|オルタのアトリエは、夜明けの光が差し込むにもかかわらず、どこか薄暗く、そして張り詰めた空気に包まれていた。窓の外では、春だというのにまるで冬に逆戻りしたかのような「花冷え」の風が吹き荒れ、古びたビルの隙間をピュー、と唸るように通り過ぎていく。その冷たい風が、アトリエの熱気を帯びた空気を僅かに揺らし、壁一面に並べられた絵画たちを微かに震わせる。油絵の具とテレピン油、そして満開の夜来香のような甘く妖しい花の香りが、部屋の空気に重く漂い、静馬たちの思考を刺激する。
「……『虚空を喰らうもの』……。その『声』の根源を突き止めるんだ」
月影静馬の言葉が、アトリエに響き渡る。彼の視線は、西の空に広がる不吉な「影」を描いた北斎|オルタの絵──『虚空の眼差し』──に固定されていた。絵の中の無数の「目」が、まるで生きているかのように輝き、街を見下ろしている。その光景は、彼らが直面している脅威が、単なるサイバーテロの範疇を超えた、途方もないスケールのものであることを示唆していた。
電脳浪人・鉄斎は、解析機器に向かって集中していた。彼の厳つい顔には、脂汗が滲み、その瞳は、ホログラムディスプレイに映し出された複雑な波形を食い入るように見つめている。
「うむ……。あの『影』から発せられる信号は、やはり既存のネットワークプロトコルとは全く異なる。だが、その『声』の周波数パターン……。ようやく、その『根源』を特定したぞ!」
鉄斎が、興奮したように叫んだ。その声は、わずかに震えている。
「それは……大江戸シティの、最も古い区画……。かつて『江戸』と呼ばれていた頃の、地下深くに存在する『古の祭祀場』だ! そこから、あの『声』が発せられている!」
「『古の祭祀場』だと!?」
静馬は、愕然とした。それは、公式の地図には存在しない、伝説の場所だ。
「ああ。そして、その『祭祀場』の地下には、膨大な『情報』と『意識』を蓄積する、巨大な『記憶の層』が存在する。まるで、この街の、いや、この国の全ての『記憶』が、そこに眠っているかのように……」
鉄斎の声は、畏怖に満ちていた。彼の解析機器からは、微かに、しかし確かに、人々の囁き声のような電子音が聞こえてくる。それは、過去の記憶の残響なのだろうか。
その時、飛燕のお竜が、電脳印籠を高速で操作しながら、顔を上げた。彼女の瞳は、情報という獲物を見つけたかのように輝いている。
「あたしも、『虚空を喰らうもの』を『封じる』ための『鍵』について、手がかりを掴んだよ!」
お竜は、そう言うと、静馬の電脳印籠に、数枚の古びた絵巻のデータを転送してきた。そこに描かれているのは、奇妙な『文字』と、それを唱えるかのような人々の姿だった。
「この『鍵』は、『失われた真実の言葉』、あるいは『世界の理を書き換える力』と呼ばれていたものだ。それは、単なる言葉じゃない。この世界の『根源』に直接働きかけ、その『理』を書き換えることができる、一種の『プログラム』のようなものらしい」
お竜は、そう言いながら、絵巻に描かれた『文字』を指差した。それは、静馬が見たこともない、複雑で美しい紋様のような文字だった。
「そして、この『真実の言葉』は、特定の『場所』でしか発動できない、とされている。その場所は、『世界の中心』、あるいは『根源の器』の『真の姿』が顕現する場所だ、と……」
お竜の声は、静かに、しかし重く響いた。
「『世界の中心』……『根源の器』の『真の姿』……。それは、あの『古の祭祀場』か!?」
静馬は、ハッとした。全ての情報が、再び一本の線で繋がったのだ。
「おそらくはね。そして、この『真実の言葉』を唱えるには、特定の『条件』が必要らしい。それは、『世界の理を理解し、その矛盾を受け入れる者』、あるいは『全ての情報と感情を統合できる者』、と……」
お竜は、眉をひそめながら答えた。その言葉は、まるで静馬自身を指しているかのようだった。
「……『虚空を喰らうもの』は……『真実の言葉』を恐れています……。その『言葉』が……『世界』を……『再構築』するからです……」
北斎|オルタが、静かに、しかし確かな声で言った。彼女は、イーゼルに向かい、新たなキャンバスに筆を走らせていた。サラサラと、微かな音がアトリエに響く。
静馬が彼女の絵に目をやると、そこには、夜明けの光に包まれた『古の祭祀場』が描かれていた。その祭祀場の中央には、巨大な水晶のような構造物が鎮座し、そこから無数の光の糸が伸び、空に広がる「影」へと繋がっている。そして、その水晶の前に、静馬自身の姿が描かれている。彼の口元は、何かを唱えているかのように微かに開かれ、その手には、電脳小太刀が握られていた。その刃からは、青白い光が放たれ、まるで『真実の言葉』を具現化しているかのようだ。
「……この絵は……」
静馬は、言葉を失った。それは、彼がこれから行わなければならない、未来の光景だった。
「『古の祭祀場』……それが、奴らの『降臨』の場所であり、そして、俺たちが『虚空を喰らうもの』を『封じる』ための、最後の『舞台』となる……」
静馬は、静かに呟いた。その瞳には、夜明けの光と、そして新たな戦いへの決意が、静かに、しかし力強く宿っていた。
「鉄斎殿! お竜! 北斎|オルタ! 今すぐ、江戸城の地下、あの『古の祭祀場』へ向かう! 奴らの『降臨』を阻止し、この『虚空を喰らうもの』を『封じる』んだ!」
静馬の声は、夜明けの空に響き渡る。
「おうよ! 望むところだぜ! てめえら、この鉄斎様が、きっちり落とし前をつけさせてやる!」
鉄斎は、豪快に笑い、大太刀「黒鋼」を肩に担いだ。
「ま、あたしも、あんたたちの道楽に付き合ってやってもいいけどね。ただし、命の保証はしないからね!」
お竜は、不敵な笑みを浮かべた。その瞳は、新たな獲物を見つけたかのように輝いている。
三人は、互いの顔を見合わせ、そして、静かに頷き合った。
窓の外の大江戸シティは、夜明けの光に包まれ、その日常を取り戻しつつあった。しかし、その日常の裏で、古き神話が現実となり、新たな脅威が、静かに、しかし確実にその牙を剥こうとしている。
『虚空を喰らうもの』──そして、『新たな神』。
月影静馬たちの戦いは、今、その核心へと迫ろうとしていた。




