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第二章「情報屋お|竜《りゅう》と|胡蝶《こちょう》の罠」

影蝶(かげちょう)を懐に忍ばせ、電脳(でんのう)小太刀(こだち)を腰に差した月影(つきかげ)静馬(しずま)がからくり長屋を出ると、夜の帳が大江戸(おおえど)シティを包み込み始めていた。昼間の喧騒は鳴りを潜め、代わりにネオンサインのけばけばしい光と、飲食店の呼び込みの声、そしてどこからか流れてくるチープな電子音楽が、湿った春の夜気に混じり合っている。道行く人々の影は長く伸び、その顔は一様に無表情に見えた。これもまた、「大御所(おおごしょ)システム」が支配するこの電脳江戸の一つの顔だ。

静馬は、人波を縫うようにして、シティの深層部――「電脳(でんのう)遊郭(ゆうかく)胡蝶(こちょう)の夢」と呼ばれる、非合法な情報と欲望が渦巻く一角へと足を向けた。鼻を突くのは、安酒の匂い、合成香料の甘ったるい香り、そして微かなデータの焦げるような異臭。ここは、サイバー奉行所(ぶぎょうしょ)の目も届きにくい無法地帯であり、情報屋「飛燕(ひえん)のお(りゅう)」の縄張りでもあった。

(りゅう)のアジトは、その一角にある古びた雑居ビルの最上階、というよりは屋上に無理やり増築されたような、錆びついたコンテナハウスだった。入り口には「電脳占い・悩み相談」という、ふざけた看板が申し訳程度にぶら下がっている。静馬が鉄製のドアを三度、独特のリズムで叩くと、内側から警戒するような女の声が聞こえた。

「……誰だい。うちはもう仕舞だよ。明日の晩にでも出直しな」

声はひどく掠れていて、まるで錆びた蝶番のようだ。

「静馬だ。(ゆめ)(ゆう)の件で、少しばかり追加で聞きたいことがある」

静馬は、ドアに口を寄せて低く告げた。

しばしの沈黙の後、ガチャリ、と重々しいロックの外れる音が響き、ドアが軋みながら内側に開いた。途端に、むわりとした熱気と共に、電子タバコの独特の甘い煙と、得体の知れない香辛料の匂いが静馬の顔に吹き付けてくる。

「……朧月(おぼろづき)様のおなりかい。こんな夜更けに、物好きなこった」

薄暗い部屋の奥、無数のモニターが怪しい光を放つ中で、お(りゅう)胡坐(あぐら)をかいて座っていた。年の頃は三十路手前だろうか。派手な(くれない)と黒のサイバー着物は胸元が大きくはだけ、そこから覗く肌には、胡蝶(こちょう)のタトゥーが青白く発光している。長く伸ばした髪は毒々しいほどの紫に染め上げられ、その一部は複雑な編み込みでドレッドロックスのようにまとめられ、小さな鈴やデータチップがぶら下がっていた。指には何本もの指輪が光り、その長い爪は真紅に塗られている。口には、蝶の形をした奇妙なデザインの電子タバコを咥え、その先端からは紫色の煙がゆらりと立ち昇っていた。部屋の中は、様々なガラクタと最新のハッキングツールが雑然と置かれ、壁には意味不明な文字列や図形が落書きのように描かれている。床には、空の栄養ドリンクの容器や、食べかけのジャンクフードの袋が散乱していた。

「相変わらず、趣味の悪い部屋だな。換気くらいしたらどうだ」

静馬は、顔をしかめながら部屋に入り、適当なコンテナの上に腰を下ろした。

「おっと、これはこれは手厳しい。あたしに言わせりゃ、あんたのあの殺風景な長屋の方がよっぽど趣味が悪いね。で? あの伊達男の噺家先生について、何が聞きたいんだい。まさか、あんたもあいつの追っかけになったわけでもあるまいし」

(りゅう)は、電子タバコをふかしながら、面白そうに静馬の顔を覗き込んだ。その瞳は、闇夜に光る猫のように妖しく、全てを見透かすような鋭さがあった。

「あの男の『楽屋裏』について、もう少し詳しく知りたい。特に、あのVR寄席のシステム管理者、あるいは(ゆめ)(ゆう)自身と直接接触できるルートはないか」

静馬は、単刀直入に切り出した。

(りゅう)は、ふう、と紫色の煙を天井に向かって吐き出し、しばし何か考えるように天井のシミを見つめていた。その間、部屋にはモニターの冷却ファンの音と、外の喧騒が微かに聞こえるだけだった。やがて、彼女はニヤリと唇の端を吊り上げた。

「……なるほどね。あんた、あの『暗号落語』に本気で首を突っ込む気になったってわけかい。忠告しとくけどね、朧月(おぼろづき)様。そいつは思った以上に根が深いかもしれないよ。下手をすりゃ、あんたのその綺麗な首が、今度こそ本当に電脳(でんのう)()(くび)じゃ済まなくなるかもしれない」

その声には、からかうような響きの中に、微かな警告の色が滲んでいた。

「忠告はありがたいが、俺の首の心配は無用だ。それよりも情報だ。何か掴んでいるんだろう?」

静馬は、お(りゅう)の挑発的な視線を真っ直ぐに受け止めた。

(りゅう)は、肩をすくめ、指先で弄んでいたデータチップを静馬に向かって放り投げた。静馬はそれを危なげなく空中で掴む。それは、指の爪ほどの大きさの、半透明な記憶媒体だった。

「そいつに、あのVR寄席のバックドアへのアクセスキーと、(ゆめ)(ゆう)のアバターのプライベートチャンネルへの招待コードを入れといた。ただし、保証はしないよ。あの噺家先生、見かけによらず用心深いからね。あんたが朧月(おぼろづき)だってバレたら、どうなることやら」

「……貸し一つ、だな」

静馬は、データチップを懐にしまいながら言った。

「ま、そういうこった。ただし、今回の情報料はツケってわけにはいかないよ。なにせ、あたしもちょいとばかり懐が寂しくてね。それに、あんたが嗅ぎ回ってる『騒乱の種』ってやつは、どうもあたしの商売敵も一枚噛んでるみたいでね。そいつらの情報も、ついでに持って帰ってきてくれたら、今回の情報料はチャラにしてやってもいい」

(りゅう)は、金の算段をしながら、いやらしい笑みを浮かべた。その目は、獲物を見つけた蛇のように細められている。

「商売敵、だと?」

静馬の眉がピクリと動いた。

「ああ。最近、あたしのシマで妙な動きをしてる連中がいるんだよ。どうやら、電脳(でんのう)黒船(くろふね)……なんて大層な名前を名乗ってるらしいけどね。そいつらが、(ゆめ)(ゆう)の『暗号落語』を利用して、何かを企んでるって噂さ。ま、あたしに言わせりゃ、ただのチンピラの集まりだけどね。でも、妙に羽振りがいいのが気に食わない」

(りゅう)は、吐き捨てるように言った。その顔には、商売敵に対する剥き出しの敵意が浮かんでいる。

電脳(でんのう)黒船(くろふね)……」

静馬は、その名を口の中で転がした。初めて聞く名だが、その響きには何か不吉なものを感じさせる。

「そういうわけさ。だから、せいぜい頑張ってくれたまえよ、朧月(おぼろづき)様。あんたの手並み、期待してるからさ」

(りゅう)は、そう言うと、再び電子タバコを深く吸い込み、紫色の煙を満足そうに吐き出した。その煙が、部屋に満ちる無数のモニターの光を乱反射させ、彼女の妖しげな姿をさらに際立たせた。

静馬は、無言で立ち上がり、ドアに向かった。

「……借りは必ず返す。だが、俺のやり方でな」

そう言い残し、彼は錆びついたコンテナハウスを後にした。

外に出ると、大江戸(おおえど)シティの夜はさらに深まり、ネオンの光が雨上がりのように路面を濡らしていた。春の夜風が、先ほどまでの部屋の淀んだ空気とは対照的に、ひやりと心地よい。静馬は、懐のデータチップの感触を確かめながら、夜の闇へと再び歩き出した。その足取りは、先ほどよりも僅かに重く、しかし確かな決意を秘めているように見えた。

朧月(おぼろづき)の夜は、まだ始まったばかりだった。



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