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第十六章「北斎の予兆と虚空の解析」

大江戸(おおえど)シティの夜明けは、その光を街の隅々まで行き渡らせ、昨夜の混乱の痕跡を洗い流そうとしていた。しかし、その光が届かぬ西の空には、未だ不気味な「影」が、まるで巨大な墨絵のように広がり続けている。その「影」から発せられる異質な電子音は、月影(つきかげ)静馬(しずま)の脳裏に深く刻み込まれ、休まることのない焦燥感を煽っていた。彼は、電脳(でんのう)印籠(いんろう)を握りしめ、鉄斎(てっさい)とお(りゅう)北斎(ほくさい)|オルタのアトリエへの集合を命じた。この「影」の正体──『虚空(こくう)を喰らうもの』──を理解し、その恐るべき計画を阻止するためには、仲間たちの知恵と力が不可欠だった。

静馬は、からくり長屋を飛び出し、夜明けの街を駆け抜けた。人々は、普段と変わらぬ日常を送ろうとしているが、その顔には、どこか漠然とした不安の色が浮かんでいる。デジタル瓦版(かわらばん)は、相変わらず「システム復旧」を謳う定型的なアナウンスを繰り返すばかりで、真実を報じることはない。それが、かえって人々の不信感を募らせているかのようだった。

旧市街の廃墟ビルにたどり着いた静馬は、お(りゅう)鉄斎(てっさい)が既に到着しているのを見て、安堵の息を漏らした。ビルの鉄製の扉は、既に開かれており、中からは微かに絵の具と油、そして甘い花の香りが漂ってくる。

「お(りゅう)鉄斎(てっさい)殿! よく来てくれた!」

静馬は、二人に駆け寄った。

「へっ、朧月(おぼろづき)の旦那の呼び出しとあっちゃ、断るわけにもいかねえだろ? まったく、こんな朝っぱらから、とんでもねえ話を聞かされちまったもんだぜ」

鉄斎(てっさい)は、豪快に笑いながらも、その瞳には、西の空の「影」に対する警戒の色が宿っていた。彼の隣には、大太刀「黒鋼(くろがね)」が立てかけられ、その威容が部屋の空気を引き締めている。

「あたしも、あの『影』の正体には興味津々でね。まさか、そんな大層な『伝説』があったとはねえ。あんたの言う『新たな神』ってやつも、ただの狂言じゃなかったってわけかい」

(りゅう)は、腰に差した電磁ロッドを軽く叩きながら、不敵な笑みを浮かべた。彼女の紫色の髪は、夜明けの光を浴びて妖しく輝いている。

三人は、北斎(ほくさい)|オルタのアトリエへと足を踏み入れた。部屋の中は、相変わらず無数の絵画が所狭しと並べられ、強烈な色彩とエネルギーを放っている。中央には、描きかけの巨大な絵画がイーゼルに設置され、その前には、小さな踏み台が置かれていた。空気中には、油絵の具の濃厚な匂いと、テレピン油の刺激臭、そして満開の夜来香(イエライシャン)のような、むせ返るほど甘く妖しい花の香りが満ちている。

「……よく、いらっしゃいました」

北斎(ほくさい)|オルタは、部屋の隅に置かれた小さな椅子にちょこんと座り、三人に視線を向けた。その大きな瑠璃(るり)色の瞳は、感情をほとんど宿していないが、どこか深い悲しみを湛えているようにも見えた。彼女の白いワンピースは、夜明けの光を浴びて、まるで純粋な雪のように輝いていた。

静馬は、昨夜鉄斎(てっさい)とお(りゅう)から得た情報を、北斎(ほくさい)|オルタに簡潔に説明した。西の空に広がる「影」の正体が『虚空(こくう)を喰らうもの』という伝説の存在であること、そして、その「影」を呼び出すための『儀式』には、膨大な『情報』と『意識』が捧げられること。

「……つまり、あの狐野郎は、大御所(おおごしょ)システムを『初期化』することで、この『虚空を喰らうもの』を呼び出し、新たな『神』として降臨させようとしていた、と?」

鉄斎(てっさい)が、唸るように言った。その顔には、怒りと、そして信じられないものを見たかのような驚愕の色が浮かんでいる。

「おそらくは。そして、あの『暗号落語』は、その『儀式』のための『触媒』……人々の意識を誘導するためのものだったのだろう」

静馬は頷いた。

北斎(ほくさい)|オルタは、静馬たちの言葉を黙って聞いていたが、やがて、ゆっくりと立ち上がり、部屋の中央にある描きかけのキャンバスへと歩み寄った。そのキャンバスは、まだ白い布がかけられ、中の絵は見えない。

「……わたし、今朝も、夢を見ました」

彼女は、静馬たちに背を向けたまま、ぽつりと言った。その声は、相変わらずか細いが、どこか切実な響きがあった。

「夢の中で、わたしは……たくさんの『目』を見ました。それは、空に広がる『影』の中から、この街を見つめている……まるで、全てを『見通す』かのように……」

彼女は、そう言うと、白い布にそっと手をかけ、ゆっくりとそれを引き下ろした。

現れたのは、息を呑むほど鮮烈な色彩で描かれた、一枚の巨大な絵だった。

その絵には、夜明けの空に広がる巨大な「影」が描かれていた。しかし、それは静馬が見た「影」とは少し違っていた。その「影」の中心には、無数の「目」が、まるで星のように輝き、街を見下ろしている。そして、その「目」の一つ一つからは、細い光の糸が伸び、街を行き交う人々の頭上へと繋がっているように見えた。まるで、人々が、その「目」によって「監視」され、「操られている」かのように。

そして、絵の片隅には、あの狐面の男──(ゆめ)(ゆう)──が、満足げな笑みを浮かべて、その光景を眺めている姿が描かれていた。彼の背後には、微かに、しかし確かに、巨大な黒い船の影が揺らめいている。

「……これは……」

静馬は、言葉を失った。その絵は、あまりにも禍々しく、そしてあまりにもリアルだった。まるで、これから起こるであろう恐るべき未来を、正確に写し取ったかのように。

「……この絵のタイトルは、『虚空(こくう)眼差(まなざ)し』」

北斎(ほくさい)|オルタは、静かに言った。その青い瞳は、絵の中の無数の「目」と同じように、不吉な光を湛えているように見えた。

「……『虚空を喰らうもの』は……全てを『視て』います。そして……全てを『喰らい』尽くそうとしています……」

彼女の言葉は、まるで冷たい刃のように、静馬の胸に突き刺さった。

「『虚空の眼差し』……。まさか、あの『影』は、ただの存在じゃねえ。この街の、いや、この世界の全てを『監視』し、『支配』しようとしてるってのか!?」

鉄斎(てっさい)は、絵を食い入るように見つめながら、唸るように言った。その顔には、恐怖と、そして怒りの色が混じり合っている。

「そして、あの『目』から伸びる光の糸……。あれは、人々の『意識』を吸い取っているようにも見えるね。まるで、生贄のように……」

(りゅう)は、絵の中の光の糸を指差しながら、眉をひそめた。その声には、わずかな畏怖が混じっていた。

静馬は、再び北斎(ほくさい)|オルタの絵を見つめた。その絵は、彼らが直面している脅威が、単なるサイバーテロの範疇を超えた、途方もないスケールのものであることを示唆していた。

鉄斎(てっさい)殿! あの『影』から発せられる信号の解析を急いでほしい! 特に、その『声』の周波数パターンと、人々の『意識』を吸い取るという光の糸の関連性を調べてほしいんだ!」

静馬は、鉄斎(てっさい)に指示を飛ばした。

「おうよ! 任せとけ! てめえら、この鉄斎(てっさい)様が、きっちり暴いてやるぜ!」

鉄斎(てっさい)は、そう言うと、持参した解析機器を広げ、作業に取り掛かった。彼の厳つい顔は、困難な課題を前に、職人のように真剣な表情をしていた。

「お(りゅう)! あんたは、この『虚空を喰らうもの』に関連する、さらに詳しい伝説や、それを阻止するための『方法』について、情報網を駆使して調べてほしい! 特に、過去にこの『影』が現れたという記録がないか、徹底的に探るんだ!」

「へいへい。あたしは、あんたたちの便利屋じゃねえんだけどね。ま、面白くなってきたから、付き合ってやるよ」

(りゅう)は、そう言いながらも、その指先は既に電脳(でんのう)印籠(いんろう)を高速で操作し始めていた。彼女の瞳は、情報という獲物を見つけたかのように輝いている。

静馬は、最後に北斎(ほくさい)|オルタに向き直った。

北斎(ほくさい)|オルタ殿。貴女の『目』は、この世界の真実を映し出す。もし、新たな『景色』が見えたら、すぐに教えてほしい。それが、この街を救う手がかりになるはずだ」

「……はい。わたくしは……『描く』ことを、やめませんから……」

北斎(ほくさい)|オルタは、静馬の言葉に小さく頷いた。その瞳には、わずかな、しかし確かな決意の光が宿っていた。

アトリエの中は、鉄斎(てっさい)の解析機器の駆動音と、お(りゅう)のキーボードを叩く音、そして北斎(ほくさい)|オルタが筆を走らせる微かな音だけが響いている。窓の外の大江戸(おおえど)シティは、夜明けの光に包まれ、その日常を取り戻しつつあった。しかし、その日常の裏で、新たな脅威が、静かに、しかし確実にその牙を剥こうとしている。

虚空(こくう)を喰らうもの』──そして、『新たな神』。

月影(つきかげ)静馬(しずま)たちの戦いは、今、その核心へと迫ろうとしていた。



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