第十四章「夜明けの残響と西の空の影」
大御所システム中枢での激闘から一夜明け、大江戸シティは、ゆっくりと、しかし確実にその機能を回復しつつあった。夜明けの光が、街の隅々までを優しく照らし出し、不規則に明滅していたネオンサインも、次第にその輝きを取り戻していく。交通システムはまだ完全に復旧していないものの、自動走行の駕籠が再び動き出し、サイバー同心のアバターも、硬直から解放され、巡回を再開していた。しかし、街全体を覆っていた不気味な静けさは、まだ完全に払拭されたわけではない。人々は、何事もなかったかのように日常に戻ろうとしながらも、その瞳の奥には、昨夜の混乱の余韻が、微かな不安として揺らめいているのが見て取れた。まるで、嵐が過ぎ去った後の海のように、表面は穏やかでも、深層にはまだ荒れた波が残っているかのようだ。
月影静馬は、からくり長屋の自室で、冷めた茶を啜っていた。彼の体には、夜通しの激闘の疲労が重くのしかかっているが、その心は休まることがない。頬の切り傷は、既に乾き、痛みも和らいでいるが、その痕跡が、昨夜の出来事が夢ではなかったことを告げていた。窓の外からは、朝市を準備する人々のざわめきや、デジタル瓦版が流す、システム復旧を伝える定型的なアナウンスが聞こえてくる。それは、まるで何事もなかったかのように振る舞う、この電脳江戸の日常を象徴しているかのようだった。
(……『新たな神』……そして、西の空の『影』か……)
静馬の脳裏には、夢遊の言葉と、北斎|オルタが示した「まだ消えていない闇」のイメージが、繰り返し蘇っていた。大御所システムの『初期化』は阻止できた。しかし、あの狐面の男が語った「新たな神」の概念、そして電脳黒船の真の目的は、未だ謎に包まれている。そして、夜明けの空に現れたあの不吉な「影」──それは、新たな脅威の始まりを告げているに違いなかった。
静馬は、電脳印籠を取り出し、昨夜の通信記録を再度確認した。鉄斎が解析したビーコンのデータ、お竜からの情報、そして北斎|オルタの絵。それら全てが、この街の深層に、まだ見えざる「何か」が蠢いていることを示唆している。
「……まずは、情報だ」
静馬は、小さく呟いた。疲労を押し殺し、彼は再び動き出すことを決意した。
その日一日、大江戸シティは、表面上は平静を取り戻しつつあった。デジタル瓦版は、昨夜のシステム異常を「一時的なネットワーク障害」として報じ、幕府は「大御所システムの迅速な対応により、事態は収束した」と発表した。人々は、その言葉を鵜呑みにし、安堵の表情を浮かべていた。しかし、静馬の目には、その「安堵」の裏に潜む、システムへの過度な依存と、自ら考えることの放棄が見て取れた。まるで、システムに管理されることが、彼らにとっての「幸福」であるかのように。
(……夢遊の言う『退屈な世界』とは、このことか……)
静馬は、街を行き交う人々の顔を見つめながら、複雑な感情を抱いた。彼が守ったのは、この「安泰」なのだろうか。
夕刻になり、西の空が茜色に染まり始めた頃、静馬は再び、あの不吉な「影」が微かに広がり始めているのを見た。それは、まるで巨大な鳥が翼を広げているかのように、ゆっくりと、しかし確実に、空を侵食していく。その「影」からは、微かに、しかし確かに、不協和音のような電子音が聞こえてくるような気がした。それは、大御所システムのネットワークとは異なる、未知のプロトコルが発する音のように感じられた。
静馬は、すぐに電脳印籠でお竜に連絡を取った。
「お竜! 西の空に、何か異変はないか!」
「……おや、朧月の旦那かい。あたしも今、それを見てたところだよ。なんだか、嫌な予感がするね。あたしの情報網でも、あの『影』については何も掴めない。まるで、この世のもんじゃねえみてえだ」
お竜の声は、普段の軽口を叩く余裕もなく、ひどく真剣だった。
「鉄斎殿にも連絡を取ってみる。何か手がかりを掴めるかもしれん」
「ああ、頼むよ。あたしは、この『影』が何なのか、もう少し探ってみる。あんたも、くれぐれも気をつけな。あの『影』は、ただの雲じゃねえよ」
お竜は、そう言い残すと、通信を切った。
静馬は、続けて鉄斎に通信を試みた。数回の呼び出し音の後、やや不機嫌そうな鉄斎の声が響いた。
「……なんだい、朧月の旦那。せっかく褒美の品を吟味してるところだっていうのに、水を差すんじゃねえよ」
「鉄斎殿、西の空を見てくれ! 何か異変はないか!?」
静馬は、単刀直入に問いかけた。
「西の空? ああ、なんだか妙な『影』が広がってるな。まるで、巨大な墨絵みてえだ。あれがどうかしたのかい?」
鉄斎の声には、まだ事態の深刻さが伝わっていないようだった。
静馬は、昨夜の夢遊の言葉と、北斎|オルタの絵、そして「新たな神」の概念について、簡潔に説明した。
「……なんだと!? 『新たな神』だと!? まさか、あの狐野郎、本当にそんなとんでもねえことを企んでたのか!」
鉄斎の声が、驚きと怒りで上ずった。
「ああ。そして、あの西の空の『影』は、その兆候かもしれん。鉄斎殿、その『影』から発せられる電磁波のパターンを解析してほしい。それが、電脳黒船のビーコンと関連しているかどうか、調べてほしいんだ」
「おうよ! 任せとけ! てめえら、またとんでもねえ厄ネタを仕込みやがって! この鉄斎様が、きっちり暴いてやるぜ!」
鉄斎は、そう言うと、豪快に笑い、通信を切った。
静馬は、再び西の空を見上げた。夕焼けに染まる空に、ゆっくりと広がる黒い「影」。それは、まるでこの街の未来を覆い尽くそうとしているかのように、不気味な存在感を放っていた。
(……この『影』は、一体何をもたらすのか。そして、『新たな神』とは……)
静馬の胸に、新たな戦いへの決意が、静かに、しかし力強く湧き上がってきた。
朧月の夜は終わりを告げたが、新たな「影」が、夜明けの空に、その姿を現し始めていた。
そして、その「影」の正体を突き止めるため、月影静馬の新たな戦いが、今、始まろうとしていた。