第十一章「江戸城潜入前夜・三つの影」
「……江戸城へ向かう。大御所システムの中枢へ。電脳黒船の企みを阻止し、そして、あの狐面の男……電脳亭夢遊の真意を確かめるために」
月影静馬の決然とした言葉が、北斎オルタの薄暗いアトリエの空気を震わせた。油絵の具の濃厚な匂いと、テレピン油の刺激臭、そして満開の夜来香のような甘く妖しい花の香りが、まるで彼の覚悟に呼応するかのように、一層強く漂う。北斎オルタは、その大きな瑠璃色の瞳で静馬の姿をじっと見つめていた。その瞳には、先ほどまで宿っていた微かな「光」が、さらに強く、そしてどこか切なげに揺らめいているように見えた。
「……朧月の静馬さん……気をつけて」
やがて、彼女は小さな唇をかすかに動かし、囁くように言った。それは、彼女が初めて見せた、明確な感情の発露かもしれなかった。その声は、相変わらずか細いが、確かな温もりと、そして祈りのような響きを帯びていた。
「ああ。……貴女も、どうか無事で」
静馬は、短く応え、北斎オルタに深く一礼すると、アトリエを後にした。背後で、彼女が再び巨大なキャンバスに向き合い、新たな「色」と「形」を求め始める気配を感じながら。
廃墟ビルを出ると、大江戸シティの夜は、さらにその深みを増していた。「花冷え」のする空気は肌を刺し、静馬は思わず作務衣の襟を固く合わせた。空には、相変わらず頼りない「朧月」が浮かんでいるが、その周囲には、いつの間にか薄気味悪い暗雲が立ち込め始め、月の光を遮ろうとしている。まるで、これから起ころうとしている不吉な出来事を暗示しているかのようだ。
静馬は、再び飛燕のお竜の隠れ家へと足を向けた。道々、すれ違う人々の数は先ほどよりもさらに減り、街全体が息を潜めているかのような、不気味な静けさが漂っている。時折、サイバー同心の巡回ドローンが、低い駆動音を響かせながら頭上を通り過ぎていくが、それ以外には、まるでゴーストタウンのようだ。空気中には、湿った埃の匂いに混じって、微かに焦げ臭いような、金属の匂いが漂っているのを感じた。それは、先ほどの電脳黒船の襲撃の残り香なのか、それとも……。
お竜の隠れ家である、錆びついたコンテナハウスにたどり着くと、ドアは固く閉ざされていたが、静馬が合図のノックをすると、すぐに内側から電子ロックの解除音が響いた。
「……朧月の旦那かい? 早かったじゃないか。あの引きこもりAIお嬢ちゃん、首尾よく口説き落とせたのかい?」
ドアを開けたお竜は、相変わらず派手なサイバー着物を身にまとい、電子タバコをふかしながら、からかうような笑みを浮かべて静馬を迎えた。しかし、その瞳の奥には、隠しきれない緊張の色が浮かんでいる。部屋の中は、先ほどよりもさらに雑然としており、モニターの画面には、無数のデータウィンドウが目まぐるしく明滅し、彼女が情報収集に没頭していたことを物語っていた。
「ああ、なんとか。それより、鉄斎殿からの情報は?」
静馬は、部屋に入りながら単刀直入に尋ねた。
「来てるよ。あんたが北斎オルタの所へ行ってる間に、あの石頭の鉄斎の旦那から、例のビーコンの解析結果が送られてきた。見てみな」
お竜は、顎で部屋の中央にある大型のホログラムディスプレイを指し示した。そこには、大江戸シティの広大な地下構造が、三次元的に立体表示され、その中に、無数の赤い光点が蜘蛛の巣のように張り巡らされているのが見て取れた。その光景は、まるで人体の血管網か、あるいは巨大な電子回路のようだ。そして、その赤い光点の密度がひときわ高い場所……それが、江戸城の真下、そして「大御所システム」の中枢区画を示していることは、一目瞭然だった。
「……これが、電脳黒船のビーコンネットワークか。想像以上だな」
静馬は、息を呑んだ。その緻密さと広大さは、明らかに個人のハッカーや小規模な組織が構築できるレベルを超えている。
「ああ。しかも、鉄斎の旦那の話じゃ、このビーコン、ただの連絡用じゃねえらしい。それぞれが、何らかの『起爆装置』と連動してる可能性があるって話だ。もし、これが一斉に作動したら……」
お竜の声が、微かに震えた。彼女の顔からは、いつもの不敵な笑みが消え、珍しく蒼白になっている。
「……大御所システムの破壊、あるいは暴走……。夢遊の言っていた『騒乱の種が花開く』というのは、このことか」
静馬は、唇を噛み締めた。事態は、彼が想像していた以上に深刻で、そして切迫している。
「で、どうするんだい、朧月の旦那? このままじゃ、夜明けを待たずに大江戸シティがお陀仏だぜ?」
お竜は、静馬の顔をじっと見つめた。その瞳には、不安と、そしてわずかな期待の色が混じっている。
静馬は、ホログラムディスプレイに映し出された江戸城の地下構造を、食い入るように見つめた。そこには、公式には存在しないはずの、無数の隠し通路や秘密区画が、赤いビーコンの光によって浮かび上がっている。
「……潜入ルートは、複数考えられる。だが、時間がない。最も早く、そして確実に中枢へたどり着ける道を選ぶ必要がある」
静馬は、指先でホログラムディスプレイに触れ、地下構造図を拡大・回転させながら、最適なルートを探り始めた。その横顔は、極度の集中によって、まるで能面のように無表情になっている。
「おいおい、まさか本気で江戸城に殴り込みをかけるつもりかい? いくらあんたでも、無謀ってやつだぜ。あそこは、大御所システムのサイバーセキュリティだけじゃなく、物理的な警備も鉄壁だ。生身の人間が潜り込めるような場所じゃ……」
お竜が、呆れたように言いかけたが、静馬はそれを手で制した。
「……ここだ」
静馬は、ホログラムディスプレイの一点を指差した。そこは、江戸城本丸の地下深くに位置し、かつて「大奥」と呼ばれた区画の、さらに下層に存在する、古い地下水路の跡だった。公式の図面には記載されていない、忘れられたルートだ。
「この地下水路を使えば、大御所システムの中枢区画の、すぐ近くまで潜入できるはずだ。警備も、他のルートに比べれば手薄だろう」
「……地下水路、ねえ。あんた、そんな古い情報、どこで仕入れたんだい?」
お竜は、感心したような、それでいて訝しげな表情で静馬を見た。
「朧月にも、秘密の一つや二つはあるということだ」
静馬は、小さく笑って見せた。
「問題は、この水路の入り口が、今も使えるかどうか……そして、内部にどんなトラップが仕掛けられているかだ」
「ふん、面白くなってきたじゃないか」
お竜の瞳に、再びいつもの妖しい光が戻ってきた。彼女は、腰に差していた長尺の電磁ロッドを手に取り、その感触を確かめるように、軽く数回振ってみせた。パチパチと青白い火花が散り、部屋の空気が微かに帯電するのを感じる。
「いいだろう、その地下水路とやらに、あたしが先行して斥候を務めてやるよ。あたしの『目』と『耳』なら、どんなトラップも見つけ出せるし、必要なら、ちょいとばかり『お掃除』もしてやれるからね」
彼女は、自信満々に言い放った。その姿は、まるで獲物を見つけた女豹のようだ。
「……感謝する。だが、危険すぎる。お前一人では……」
静馬が言いかけると、コンテナハウスのドアが、再び外からノックされた。今度は、先ほどとは違う、重々しく、そして力強いノックの音だ。
静馬とお竜は、顔を見合わせ、同時に身構えた。
「……誰だ?」
お竜が、警戒しながらドアに向かって呼びかける。
「朧月の旦那に、お届けもんだぜ! とびっきりの『獲物』の解析結果と、それから、この鉄斎様の、有り余る腕力と知恵をな!」
ドアの向こうから、鉄斎の豪快な声が響き渡った。
ドアが開き、熊のような巨躯の鉄斎が、その厳つい顔に満面の笑みを浮かべて立っていた。その手には、何やら複雑な配線が施されたヘルメット型の装置と、そして、彼の愛用の大太刀――その刀身は、鈍い黒光りを放ち、尋常ではない威圧感を漂わせている――が握られている。
「朧月の旦那、お竜の姐御! どうやら、面白え祭りが始まるようじゃねえか! この鉄斎も、一枚噛ませて貰うぜ!」
鉄斎の登場に、静馬とお竜の顔にも、思わず笑みが浮かんだ。
これで、役者は揃った。
三つの影が、大江戸シティの深い闇の中で、静かに、しかし確かな決意を胸に、集結しようとしていた。
江戸城潜入前夜。
朧月の夜は、まさにこれから、そのクライマックスを迎えようとしていた。