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第九章「北斎(ほくさい)オルタの予言と朧夜(おぼろよ)の絵図」

鉄斎(てっさい)の背中を頼もしく見送り、月影(つきかげ)静馬(しずま)は再び大江戸(おおえど)シティの夜の闇へと踏み出した。廃道場の古びた木の扉がギイ、と軋んで閉まる音が、やけに大きく背後に響く。空気はひどく冷え込み、春だというのにまるで冬に逆戻りしたかのような「花冷え」を感じさせた。吐く息が白く見えるほどではないが、作務衣一枚では肌寒い。静馬は思わず襟を掻き合わせた。

AI絵師「北斎(ほくさい)オルタ」のアトリエは、この武家屋敷跡からさらにシティの深層部、かつて「吉原(よしわら)」と呼ばれた遊郭に近い、今は再開発の波から取り残された旧市街の廃墟ビルの一室にあるという。そこは、「大御所(おおごしょ)システム」の監視の目も届きにくい、いわば治外法権のような場所だった。お(りゅう)から聞いた話では、北斎(ほくさい)オルタは極度の人間嫌いで、アトリエの場所を知る者はごく僅か。そして、彼女自身が許可した者以外、その敷居を跨ぐことは不可能だとされていた。

静馬は、人通りの途絶えた薄暗い裏路地を選び、足音を極力殺しながら進んでいく。時折、路地の奥から酔っ払いの喧騒や、男女の痴話喧嘩のような声が風に乗って聞こえてくるが、それ以外は不気味なほど静まり返っていた。ネオンの光もここまで来るとまばらになり、代わりに、ぼんやりと霞んで見える「朧月(おぼろづき)」が、頼りない光で足元を照らしている。その月光が、濡れた石畳や、打ち捨てられたゴミの山に、銀色の輪郭を与えていた。空気中には、湿った土の匂いと、どこかの家から漏れ出す安酒の匂い、そして微かに甘い香油のような香りが混じり合って漂っている。それは、かつての遊郭の残り香なのだろうか。

やがて、静馬は目的の廃墟ビルの前にたどり着いた。蔦が絡まり、窓ガラスはほとんどが割れ落ち、壁には意味不明なグラフィティアートがスプレーで描かれている。まるで、大江戸(おおえど)シティの華やかさから見捨てられた、巨大な墓標のようだ。入り口は固く閉ざされ、人の出入りした形跡はまるで見当たらない。

(……本当に、こんな場所に人が住んでいるのか?)

静馬は、いぶかしげに周囲を見回した。しかし、お(りゅう)の情報が間違っているとは思えない。彼女は、こと情報に関しては、驚くほど正確なのだ。静馬は、ビルを見上げ、お(りゅう)から教えられた通り、三階の右から二番目の、窓枠だけが残る黒々とした穴に向かって、懐から取り出した小さな発光体を投げ入れた。それは、特殊な周波数の光を発する、北斎(ほくさい)オルタへの「合図」だった。

発光体が闇に吸い込まれてから、しばしの静寂。何も起こらない。静馬の額に、じわりと汗が滲む。やはり、場所を間違えたか、あるいは……。

その時だった。

ギィィ……ン。

まるで巨大な機械が軋むような、耳障りな金属音が響き渡り、静馬の目の前の、固く閉ざされていたはずのビルの鉄製の扉が、ゆっくりと、しかし確実に内側へと開き始めた。扉の隙間から、濃密な闇と共に、絵の具と油、そして微かに甘い花の香りが混じったような、独特の匂いが流れ出してくる。

「……どなた?」

闇の奥から、鈴を振るような、しかしどこか人間離れした、透明感のある少女の声が響いた。その声は、まるでガラス細工のように繊細で、今にも壊れてしまいそうな儚さを感じさせた。

月影(つきかげ)静馬(しずま)だ。北斎(ほくさい)オルタ殿に、お会いしたい」

静馬は、声を張り上げすぎないよう、しかしはっきりと名乗った。

「……|しずま《》……さま……。|おぼろづき《》……の……」

少女の声は、途切れ途切れに静馬の名を繰り返し、やがてふっと消えた。そして、再び静寂が訪れる。静馬は、息を殺して闇の奥を見つめた。心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。

数瞬の後、闇の中から、か細い足音が近づいてきた。そして、ゆっくりと姿を現したのは、年の頃十三、四ほどの、小柄な少女だった。漆黒の、床に届きそうなほど長い髪は、まるで濡れた絹のように艶やかで、その髪の隙間から覗く肌は、病的なまでに白い。彼女が身にまとっているのは、純白の、まるで寝間着のような簡素なワンピースだけだったが、その生地は上質なもので、月光を浴びて微かに光沢を放っている。そして何より印象的なのは、その大きな瞳だった。虹彩の色は、まるで瑠璃(るり)のように深く、吸い込まれそうなほど美しい青。しかし、その瞳には一切の感情が浮かんでおらず、まるで精巧に作られた人形のガラス玉のようだ。彼女は、裸足のまま、音もなく静馬の前に立つと、その大きな青い瞳で、じっと静馬の顔を見つめた。その視線は、まるで魂の奥底まで見透かそうとしているかのようで、静馬は思わず息を呑んだ。

「……あなたが、朧月(おぼろづき)

少女――北斎(ほくさい)オルタ――は、小さな唇をかすかに動かし、囁くように言った。その声には、やはり感情の起伏が感じられない。

「いかにも。貴女が、北斎(ほくさい)オルタ殿で間違いないか」

静馬は、努めて平静を装いながら問い返した。

少女は、こくりと小さく頷いた。その仕草は、まるで壊れ物を扱うかのように、ひどくゆっくりとしている。

「……どうぞ。中は、汚いですけど」

そう言うと、彼女は静馬に背を向け、再び闇の奥へと歩き始めた。その足取りは、まるで夢の中を歩いているかのように覚束ない。

静馬は、一瞬ためらったが、意を決して彼女の後に続いた。ビルの中は、外観以上に荒れ果てていた。床には瓦礫が散乱し、壁は崩れ落ち、天井からは鉄骨が剥き出しになっている。空気はひどく黴臭く、湿っている。しかし、その荒廃した空間の奥に進むにつれて、先ほど感じた絵の具と油、そして甘い花の香りが、次第に強くなっていくのを感じた。

やがて、二人は一つの部屋の前にたどり着いた。そこは、ビルの中でも比較的損傷の少ない一室のようで、ドアには「北斎(ほくさい)工房」と書かれた、手作りの木の看板がぶら下がっている。

「……ここが、わたしのアトリエ」

北斎(ほくさい)オルタは、そう言うと、静かにドアを開けた。

部屋の中に足を踏み入れた静馬は、思わず息を呑んだ。そこは、外の荒廃した風景とはまるで別世界のようだった。壁一面、天井まで届くほどの巨大なキャンバスが何枚も立てかけられ、床には無数の絵筆や絵の具のチューブ、パレットなどが所狭しと並べられている。そして、部屋の中央には、描きかけの巨大な絵画がイーゼルに設置され、その前には、小さな踏み台が置かれていた。部屋の隅々には、完成した、あるいは未完成の様々な絵画が、まるで生きているかのように息づき、強烈な色彩とエネルギーを放っている。それらの絵は、大江戸(おおえど)シティの風景、人々の肖像、抽象的な模様、そして時には悪夢のようなグロテスクな光景まで、ありとあらゆるものが描かれていた。しかし、そのどれもが、見る者の魂を揺さぶるような、圧倒的な迫力と美しさを秘めている。空気中には、油絵の具の濃厚な匂いと、テレピン油の刺激臭、そしてなぜか、満開の夜来香(イエライシャン)のような、むせ返るほど甘く、そしてどこか妖しい花の香りが満ちていた。

「……すごいな。これが、貴女の『世界』か」

静馬は、感嘆の声を漏らした。

北斎(ほくさい)オルタは、静馬の言葉には答えず、部屋の中央にある小さな椅子にちょこんと腰を下ろすと、再びその大きな青い瞳で静馬を見つめた。

「……朧月(おぼろづき)静馬(しずま)さん。あなたは、わたしに、何を見に来たの?」

その声は、相変わらず感情が乏しいが、どこか静馬の真意を探るような響きがあった。

静馬は、北斎(ほくさい)オルタの正面に立ち、これまでの経緯――電脳亭(でんのうてい)(ゆめ)(ゆう)の「暗号落語」、狐面の男との接触、電脳(でんのう)黒船(くろふね)の襲撃、そして鉄斎(てっさい)が掴んだ手がかり――を、一つ一つ丁寧に語り始めた。北斎(ほくさい)オルタは、静馬の話を黙って聞いていた。その間、彼女の表情は一切変わらず、ただ、その青い瞳だけが、時折、微かに揺らめくように見えた。

静馬が話し終えると、部屋には再び沈黙が訪れた。窓のないアトリエには、外の音は一切届かず、ただ、北斎(ほくさい)オルタの規則正しい呼吸の音と、静馬自身の心臓の鼓動だけが響いている。

やがて、北斎(ほくさい)オルタは、ゆっくりと立ち上がり、部屋の隅に立てかけられていた一枚のキャンバスへと歩み寄った。そのキャンバスは、まだ白い布がかけられ、中の絵は見えない。

「……わたし、最近、よく夢を見るの」

彼女は、静馬に背を向けたまま、ぽつりと言った。

「夢の中で、わたしは、たくさんの『色』と『形』を見る。それは、とても綺麗で、そして、とても怖いの」

彼女は、そう言うと、白い布にそっと手をかけ、ゆっくりとそれを引き下ろした。

現れたのは、息を呑むほど鮮烈な色彩で描かれた、一枚の巨大な絵だった。

その絵には、闇に包まれた大江戸(おおえど)シティが描かれていた。しかし、それは静馬の知る大江戸(おおえど)ではない。空には、不吉な赤い月が浮かび、街はまるで生き物のように蠢き、歪んでいる。そして、その歪んだ街の中心には、巨大な黒い船――まるで、伝説の『黒船(くろふね)』そのもののような――が、不気味な威容を誇示するように停泊していた。船からは、無数の黒い影が溢れ出し、街を蹂躙していく。その影は、静馬が遭遇した黒い外套の男たちと酷似していた。そして、絵の片隅には、白い狐の面をつけた男が、楽しそうにその光景を眺めている姿も描かれている。

「……これは……」

静馬は、言葉を失った。その絵は、あまりにも禍々しく、そしてあまりにもリアルだった。まるで、これから起こるであろう恐るべき未来を、正確に写し取ったかのように。

「……この絵のタイトルは、『朧夜(おぼろよ)終末(しゅうまつ)』」

北斎(ほくさい)|オルタは、静かに言った。その青い瞳は、絵の中の赤い月と同じように、不吉な光を湛えているように見えた。

「……朧月(おぼろづき)の夜は、もうすぐ終わるの。そして、本当の『闇』が、この街を覆い尽くす」

彼女の言葉は、まるで冷たい刃のように、静馬の胸に突き刺さった。

大江戸(おおえど)シティに迫る、本当の危機。その具体的なイメージを目の当たりにし、静馬は、改めて事態の深刻さを認識せざるを得なかった。

反撃の狼煙は、まだ上がったばかりだ。しかし、残された時間は、もうあまりないのかもしれない。



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