九十三話 望まぬ別れ
リビングから美白さんが立ち去り、再び楓と二人で向かい合う。相変わらず素敵な女性だが、どうしてか前ほど愛おしく感じられない。
そもそも、俺が彼女を好きでいる必要はないし、彼女を幸せにできる人間は山ほどいるはずだ。
それに美白さんの言う通り、こうして付き合っていたとしても、結々美と同じ結末を辿ることは明らかだ。だって、今までそれを繰り返してきたのだから。
そう考えると、別に誰かと恋仲になる必要もない気がしてくる。友達でも良いじゃないか。
例えば結婚して家族になるったって、別に俺には父さんや華純さんがいるし、瑞稀もいる。そうなれば必要なのは友達だけだ。
それだって和雪やバイト先の先輩たちがいるし、そこまで困ってはいないのだ。
「ねっねぇ、今から雫くんの家に行ってもいいかな?その、エッチしたいなぁって、思って」
震えた声で、楓がそう尋ねる。別に本気でそういうことをしようってわけじゃないだろう。なにやらを心配しているような、いつも通りの俺を求めているような、そんな感じ。
でも、今の俺にそんな気持ちはなくて、楓が嫌だと言うわけじゃないけれど、その関係に違和感を抱いている今、身体を重ねる気分にはならなかった。
本当ならば俺にそんな権利はなかった、ただ彼女を無為に汚しただけの、最低な男。本気で好きだったからこそ心の底から求めたが、今となってはあまりにも浅はかだった。
遊んでいるつもりはなかったが、こんな結果じゃ否定はできないな。
「んー、でももう時間も遅いし、ご両親も帰ってくるだろ?それなのに楓がいなかったら、心配するでしょ」
「いっ良いよ別にっ。今までだってそういう時はあったんだから、心配することじゃないよ。せめてその、ハグくらいはしても良いでしょ?」
不安に苛まれたような楓が、縋るように問いかける。こんなに心配をかけてしまうというのなら、俺が彼女の恋人になる資格はないだろう。
苦しめるだけだというのなら、俺が傍にはいない方が良い。
「……ねぇ楓、今から少しだけ散歩しよっか」
「えっ、うっうん」
楓の質問に答えられなかった俺は、それを誤魔化すために立ち上がって散歩を提案する。彼女はすぐに受け入れて、玄関に向かう俺についてきた。
先に靴を履いて、鍵を開けて外に出る。日が落ちかけた夕方という時刻だが、まだまだ暑さは収まりを見せない。
楓が出てきたのを確認して扉を閉めると、彼女が鍵をしめて俺の隣に立った。それでも、いつものように手を繋ぐことはなく、互いに距離を空けていた。
いつもなら触れるほどの距離も、頭ひとつ分程度の距離が空いていて、まるで付き合う前の距離感だった。でも、そこにないはずの見えない壁は、やけに重厚に感じる。
どちらともなく歩き出して、二人してなにも言わないまま足音だけが鼓膜を震わせる。楓は俺の顔をチラチラと見ているが、なにもできずにいた。
これでは彼女があまりに不憫だろう。解放してあげてという、美白さんの言葉の通りにすることにした。
「なぁ楓」
「あっうん、どうしたの?」
足を止めた俺の呼び掛けに、作り笑いの楓が反応する。しかし彼女は不安そうで、見ているこちらが辛くなりそうだ。
これ以上彼女を困らせてはいけない。だからもう、終わらせよう。
「別れよう」
「え……どうして……?」
「これ以上、楓の足を引っ張りたくない」
実際は好意が失せたと言った方が正しいのかもしれないが、別に全く好きじゃないってわけじゃない。ただ、前ほど好きじゃなくなってしまったのだ。
それに、美白さんにあれだけのことを言われたわけで、それを聞いて辛くないかと言われたらそんなことはないし、かといって楓にそのことを伝えれば、姉妹仲を壊す羽目になる。そんなことを望みはしない。
どうせ別れるというのに、付き合う意味が分からない。実際、美白さんにも嫌われてしまった。
きっと楓もその轍を踏むはずだ、それならばスッパリと関係を終わらせた方が良い。
恋人でいることにただ失うものがあるだけと、ネガティブなイメージしかなくなって。楓と一緒にいることに、どこか違和感を感じてしまう。
別れるのが遅いか早いかの違い。どうせ訪れる拒絶だというのなら、いっそのこと自分から受け入れてしまった方がずっと楽なのだ。
言ってしまえば、逃げでしかないけどな。
「ねっねぇ、お姉ちゃんに何言われたの?足を引っ張るってなに?私、雫くんになにかしちゃったの?それとも私、気が利かなかった?」
「違う、違うんだよ。楓は悪くない。ただ俺が臆病なだけなんだ。こんなことじゃきっといつか、また同じことになる」
「分からない!分かんないよ!同じことってなに?海木原さんのことなの?」
要領を得ない俺の言葉に、ポロポロと楓は涙を流しながら縋るように目を向ける。自分の服の裾を握り、堪えようのない悲しみに抗っているその姿を見ていると、申し訳ない気持ちになってくる。
「違うってわけじゃないけど、それは楓に関係ないんだ。俺の問題で、成長できなくて甘えてばかりだから」
「いいよ、甘えてよ……雫くんのためならなんだってするから、考え直してっ。お願い……」
涙ながらに俺を触れようとする楓。しかし彼女が俺の顔を見た時、その手は止まってしまう。俺がもっと立派な人間だったなら、その手が止まることもなかっただろうし、握り返すこともできただろう。
しかし、彼女の想いが叶うことはなく、俺の身勝手で悲しませてしまった。だけどこの関係を終えてしまえばきっと、楓に似合う相手が現れるはずだ。
「ごめん」
「っ!」
俺の謝りの言葉ひとつ、それを別れに楓は踵を返して、逃げるように走っていった。その背中を見た俺の心は、不気味なほどに動かなかった。
やれやれ、俺も結々美と同じだな。
最低だよ、ほんと。




