九十一話 ズキリ
美白さんの様子がおかしいのは、俺も楓もなんとなく感じていた。俺に対する態度は特に変だったと、楓から聞いている。
だから彼女は美白さんに、なにがあったのかと尋ねたみたいなのだが、なんでもないとか気のせいだとかで、誤魔化されてしまったらしい。
とはいえ、なにもないのかと言われればそれはNOだと言えるだろう。だって、美白さんの笑顔が明らかに張り付けたようなものだったから。
そして、心配の気持ちで彼女に尋ねたのだ。話だけでも聞ければと思って、なにかあったのではと。
しかし、彼女から帰ってきたのはひどく冷たい答えだった。俺はなにも言うことができずに、ただそうですかと腰を下ろすしかできなかった。
どうやら俺は、余計なことをして神経を逆撫でしてしまったらしい。
気まずくなって、なにも言えないまま沈痛な空気だけがリビングを包む。もしかして、俺は美白さんに失礼を働いてしまったのだろうか?
滲む冷や汗、震える足と手。繰り返される過去が頭を過って、動悸が強くなる。
「……まるで、被害者面じゃないか。アタシだって人間なんだし、イライラすることだってある」
なにをしてしまったのかと、どうにかならないかと思っている俺に、美白さんが能面のような表情でそう言った。
彼女の様子に、思わず固唾を飲み込んでしまう。
もう、突き放されるのはこりごりだ。
「それは分かってます。だからその、なにか力になれたらと思っただけです。べつに他意があったわけじゃ──」
「それがウザいってのさ。君の姿を鏡でよく見てご覧よ。ひどい顔をして、なっさけなくブルブル震えちゃってさ。そんな人にできることなんてあるのかい?まずは自分の面倒を見てくれよ、じゃないと話にならない」
誤解を解きたいつもりだった。しかしそれも失敗し、更に火に油を注いでしまう。
どうすればいい?なにを間違えた?自分の過去の行動や言動に意識を巡らせて、自分の失態を探り出す。
しかし、美白さんの様子が変わったのはいつの間にかのできごとで、彼女との間になにかがあったわけじゃない。
一向に答えは出ず、美白さんの言葉に返事さえできなくなる。
「誰彼構わず八方美人で良い顔をして、あっちこっちに媚を売る。挙げ句にマッチポンプみたいなことをして、好かれようとインチキしてさ。見損なったんだよ、君のこと」
「マッチポンプ……?それは、どういう……」
マッチポンプの意味は分かる。だからこそ、美白さんがなにを言いたいのかが理解できなかった。
俺は自分から彼女に問題をけしかけたことはないし、その心当たりだってない。なにをもって美白さんがそんな結論に至ったのかは知らないが、とんでもない勘違いだ。
「あぁ別に答えなくたっていいよ。いつまでも人に甘えて、誰かにヨシヨシしてもらえばいいさ。上手くいかなくなればそうやって怯えたような顔をして、ネズミのように震えて小賢しく生きていればいい。でも、楓だけは巻き込まないでくれるかな?」
「待ってください、美白さん。不快にさせたことがあるなら謝ります。だから、俺が何をしたのか教えてください。心当たりが本当にないんです」
ソファから立ち上がって、嘲笑するようにこちらに歩み寄る美白さんに頭を下げる。なんとか腰を上げるも、過去のトラウマを思い出して膝が笑う。
見向きもしない母、突き放す妹、離れていく恋人。独り善がりで愛されず、空回りし続けてきた記憶にジクジクと頭が苛まれる。
そんな過去は繰り返すまいと、美白さんの言っていることの真相が俺の過ちだったのか、それとも勘違いなのかを尋ねる。
彼女が受け取った物事に誤解があったらば、まだ間に合うはずだ。ゴクリと固唾を飲み、その答えを待つ。
そして彼女はふっと笑って、言った。
「胸に手を当てれば分かることでしょ。どうしてアタシがわざわざ説明してあげなきゃいけないのさ?楓がいないから言うけどさ、もうあの子を解放してあげてほしいな。君の本性も分かったし、これ以上耳障りの良いことは言わなくてもいいから」
「そんな、俺は──」
なんとなく分かった。美白さんは俺を嫌悪していると。
繰り返し向けられたあの視線が、大切な人から向けられるというのは、存外胸が痛くなる。ましてや、楓と別れてくれだなんて、今の俺には考えられない。
そう思った俺の言葉を、美白さんが遮った。
「まぁでも、例え君が望もうとも別れることになるだろうね。その化けの皮が剥がれてしまえば、楓も目を覚ますでしょ」
「分かんないですって。言ってくれなきゃ、話もできないじゃないですか……」
楓は未だ戻ってこない。はやく来て欲しいとずっと願っているが、そうならないままここまで来てしまった。
なんとか美白さんに、俺が何をしてしまったのかを尋ねるものの、返ってくる言葉はにべもない。
頭がおかしくなりそうだ。
「どうせ楓にも振られちゃうんじゃない?キミの幼馴染の時みたいにさ」
ズキリと、一際大きな痛みが頭を襲う。大切だと思っていた相手が、訳の分からない理由で離れていくその辛さ。
もしかしたら、俺はなにかを間違えたのかもと思い返すも、そこに答えはなにもなく。
間違っていたのは、俺自身だったんだ。
「そうですね、どうせ振られますよね。いままでずっとそうだった」
そうだ、いままでそうだったじゃないか。母さんも瑞稀も結々美も、そしてそれに呼応するように周りの連中だって。
血の繋がりがあったとしても、何年もの時間を共にしたとしても、離れるときは一瞬だ。それは楓だって例外じゃないだろう。
もしそうだとしたら、俺は彼女の時間をただ浪費させているに過ぎない。それは最低なことだ。
どうせ離れていくならば、追う必要もなにもない。認めてしまえば、存外楽になるものだ。
不思議といままでの震えがすっかり収まって、とても気持ちが楽になった。まるで錘が、外れたかのように。




